基礎経験とアントロポロギー 

野口:三木の人間学と基礎経験との関連が分かりにくいのですが、基礎経験は一方で論理化できないようなものだとしながら、人間学の基礎になるような経験でもあるわけでしょう。そこが整理されていないような感想を持ったのですが。

やすい:そうですね、ロゴスによって指導され、支配されている日常的な経験とは区別されたものとして「基礎経験」が位置付けられています。既存のロゴスでは救済できない、止揚できないものであり、ロゴスの支配できない根源的な経験であるとしています。それは「不安的動性」であり、言葉では表現できないので、現実の経験としてはひとつの闇であると云われているのです。

野口:かといってそれは神秘的なものではない、全く単純なる原始的事実だというわけです。そして基礎経験の概念によって、素朴実在論から脱却するとしています。

やすい:そこで人間は、物自体のようなものではなく、植物と環境のようなものでもないとしています。人間は他の存在との動的な連関的関係として交渉的関係にあって、その中で互いに意味付けられ、現実的になり、自己を実現するわけです。

野口:基礎経験は、この交渉的関係の中で、既に在るロゴスによって予め強制されることのないものを意味するというのですが、どういう意味でしょう。

やすい:基礎経験は論理の枠に収まらないという意味では、非合理的なものの如く受け止められやすいのです。そして確かに抑えがたい生命の欲動と深く関わっているのですが、人間の交渉的関係を一定の秩序に押さえ込もうとする力に、根源的な人間の生命力が反発するということです。

野口:ニーチェの『悲劇の誕生』におけるディオニソス的なものアポロン的なものの対置で言えば、三木の基礎経験はディオニソス的なものにあたり、これをアポロン的なロゴスが表現して、枠をはめ限定します。しばらくはそれで安定している様にみえますが、それに収まりきれず、再びアポロン的なものをディオニソス的なものが氾濫して、押し流してしまうのです。三木はこれをプロレタリアの基礎経験の分析に使ったわけでしょう。

やすい:使おうと考えたでしょうね。しかしいわば「闇のパトス」のようなものですから、形容しがたくてうまくは使えません。プロレタリアの運動のエネルギーをこういう論理で説明しますと、それを指導しようとする前衛政党は、理性的に対応できなくなります。既成左翼から反発されたのもそのためです。ただし唯物史観を生の哲学から説明する試みとしては、大変わかり易いですね。

野口:基礎経験とイデオロギーの間に人間学を挟んだのが良かったと思います。基礎経験を搾取と抑圧の現実としますと、そこから直接それらを否定した階級闘争と革命の理論がイデオロギーとして性急に提起されがちです。既成の唯物史観は、そういうものでしたね。ところが間に人間学を挟みますと、基礎経験から先ず世界がどのように見えるかが論じられます。第一次の論理化ですね。その上に立ってその世界をどうすべきかというところでイデオロギーの形成という第二次の論理化がなされるということになります。

やすい:基礎経験を全部非合理な闇としてしまいますと、人間学という第一次の論理化もできません。衝動的な闇の部分も含む日常的経験として基礎経験を捉えてはじめて人間学が成り立つと思います。その点の明確化は必要でしょうね。人間学はある程度、日常生活の論理として機能していますが、やがて社会の変動や生活の危機、労働現場での矛盾の先鋭化、さらには政治的な危機の深刻化などで、既成の交渉関係が破綻し、人間学が今までどおりでは行かなくなるわけです。そして基礎経験の変化と人間学の変化によって、やがてイデオロギーの組換えも迫られるようになるのです。このように三層的に唯物史観を展開することは理論の豊富化であり、発展なのですが、生の哲学という不純物を唯物史観に紛れ込ませたと、俗流的な唯物論者たちが反発したのでしょう。

野口:基礎経験の第一次の論理化を「人間学」と呼んだのはどうしてですか。

やすい:それは交渉的存在として諸個人や諸事物が、人間の交渉的ふるまい、実践を表現したものであり、それらが人間の定在なのだからです。

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