交渉的存在としての人間 

野口:先ほど、やすいさんが引用された続きに『パスカルにおける人間の研究』と「人間学のマルクス的形態」をつなぐ重要なターム(用語)と見られている「交渉的存在」についての言及があります

「存在は最初にそして原始的には特殊なる所有を意味する。自然は我々に交わり我々の交わる存在である。」そして注があります。

「※パスカルの意味する自然は単に状態性の関わる存在であるばかりでなく、またそれは実に人間の交渉に係わる存在であった。彼は云う、『人間は、例えば、彼の識っている凡てのものに関係をもっている。彼は彼を容れるために場所を、持続するために時間を、生きるために運動を、彼を組立てるために元素を、自己を養うために熱と食物とを、呼吸するために空気を必要とする。彼は光を見、彼は物体を感ずる。要するに凡てのものは彼の交渉的関係のもとにおかれる』(72)。交渉は人間が世界を所有するひとつの仕方に外ならない。世界は我々にとって原始的には『対している』存在ではなくして寧ろ『為めにある』存在である。それは対象界でなくて交渉界である。」

やすい:「人間学のマルクス的形態」にはこうなっています。

「精神科学の対象をなす歴史的社会的存在は人間を基礎として成立する世界である。自然は言うまでもなくそれの欠くべからざる要素であるに相違ないが、それはただ人間と交渉し彼の生と関係する限りに於てのみこの世界へ這入って来ることが出来る。」歴史はひとつの人間的なる、人間中心的なる世界である。純粋なる自然主義の立場にとっては一般に歴史は存在し得ない。歴史的世界は人間がそれを作るところの、作りつつあるところの、そして彼がみずからその中に住むところの世界である。人間はこの世界に単に対立するのでなく、却て絶えず彼自身それの基本的なる契機としてそれと密に交渉する、ーそれは『対象的存在界』でなくして『交渉的存在界』である」

野口:「対象的存在」と「交渉的存在」を対立させているわけですが、両方とも主観や主体との関わりにおいて存在するわけでしょう。

やすい:対象つまりドイツ語でGegenstandですと、主観に対して立っているものという意味です。それが主観とどう関わってくるかは、言葉の意味に表現されていません。そこで単に「事物」という訳語をあてる場合もあります。人間に対してその観察の対象として立ち現れている自然や社会の諸事物が世界を構成していると考えるのが、三木の言い方では「対象的存在界」という捉え方です。しかし三木に言わせれば、自然や社会の諸事物は、単に観察の対象にとどまらず、人間の意志に基づく行為の、マルクスの用語では実践との関係において存在しているという意味で「交渉的存在界」と捉えているのです。

野口:仏教によりまと、凡ての事象は「五蘊の仮和合」だといいます。「五蘊」は、色蘊(物質的要素)・受蘊(感覚的要素)・想蘊(イメージ的要素)・行蘊(意志的要素)・識蘊(イデア的要素)から構成されています。どの要素が欠けても事象は成立しないのです。その一つにちゃんと行蘊(意志的要素)が入っています。

やすい:そうですね。西田や三木は仏教の縁起の思想の伝統も踏まえて、行為の哲学や「交渉的存在界」を語っているのです。それに三木の場合、交渉的存在は相互的な関係なのです。つまり一方的な人間の実践によって関係付けられた存在なのではくて、人間自身が人間的な世界の中で作られたものであり、その中で交渉的存在なのです。そして交渉的存在としての諸事物が、実践的に生み出されているということなのです。そして人間によって作り出された諸事物が、また交渉的存在として人間的諸関係や諸事物を作り出すわけです。

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