内的人間と歴史的人間 

野口:三木は西田哲学を歴史的人間の人間学として深めたのでしょう。あきらかに三木は一九二七年の「人間学のマルクス的形態」でその立場に到達していましたね。その時、西田はどうでしたか。
やすい:西田はまだ小論「人間学」で社会や歴史から人間を論じることを「外的人間」とし、社会や歴史を形成する人間自体は社会や歴史に還元できないという発想で、哲学を「内的人間学」と規定していました。
野口:やがて西田もマルクスの影響を受け、三木の成果の上に立って、歴史的人間学に到達したのでしょう。
やすい:ええ、西田は「人間学」への跋文で
「私は今後人間学といふものを書くことがあるならば、此論文と非常に異なつたものとなるであらう」と断り、「人間は歴史的人間であり、創造的世界の創造的要素といふ如きものでなければならない」としています。それで西田の立場は「内的人間学」から「歴史的人間学」へと転回しているとみなせます。そこには田辺や三木の人間学の影響が考えられるのです 

       純粋経験論とアントロポロギー  

野口:西田幾多郎のアントロポロギーつまり人間学というのはあまりなじみのない表現ですね。やすいさんは西田哲学自体が丸ごと人間学だとおっしゃりたいわけでしょう。

やすい:『善の研究』で純粋経験を唯一の実在だとしたのも、そういう意味があります。純粋経験は人間の経験ですからね。花を見れば花が人間の経験なのです。パースの「記号=人間」論やジェームスのラジカル・エンピリシズム(根本的経験論)のように人間を経験の流れと考えれば、花もまた人間だということです。

野口:それは人間と人間の経験を混同している議論です。「花もまた人間なのではなく、花も人間の経験」だということでしょう。純粋経験においては主観と客観は未分化ですから、花と人間が未分化だと言われるのでしょうが、それは意識において言われることでして、事物としての花とそれを見ている人間とは明らかに別物です。

やすい:ですから、純粋経験の方を唯一実在だとしますと、事物としての花やそれを見ている主観は、純粋経験の解釈として反省によって捉えられるわけです。ということは、西田に言わせれば純粋経験としての花は人間の経験だけれど、事物としての花よりも実在的だということです。

野口:そうしますと、純粋経験が唯一実在であり、また人間であるという西田の議論はまさしく唯人間論ということになりますね。

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