ノエシスとノエマ
やすい:純粋経験から自覚へさらに絶対自由意志へと突き詰められていきますが、それは決して、意識経験から主観や意志を切り離すのではないのです。意識を統合する意識自身の働きを自覚や絶対自由意志として捉え返し、そこにおいて意識経験が成り立つことを説いているのです。
野口:意識経験が成り立つ主観と、その意識経験の中身を区別してはいけないということですか。
やすい:もちろん区別しているからこそ、その区別の仕方を西田は問題にしているのです。デカルトやカントでは意識する主観と意識内容は超越的です。意識する主体としての自我が先ずあって、それが意識をしているわけです。この自我が存在するということは、デカルトによれば「我思う、故に、我有り」であるから絶対に疑えないというわけです。しかし意識しているということは、意識する主体が先ず在って、その主体が意識を生み出しているとは限りません。
野口:デカルトのように、意識する主体の実在が、意識しているという事実からだけ帰結されますと、意識は身体の有無に依存しなくなり、霊魂として誕生以前から存在して、肉体と結合していたことになります。その点、イギリス経験論では意識自身の内部に意識を統合し、整理する働きを認めようとしていたようです。
やすい:つまり自我や霊魂を「もの」として実体化せずに、意識自身の働きとして捉え返していたわけです。その意味で西田は経験論の伝統に忠実です。ですから意識内容と自我=霊魂は別物ではないわけです。
野口:同じ意識の統合する働きと統合された対象との違いとして、やはり人間の主観と客観的な事物、例えば花は区別されるのでしょう。
やすい:それが意識の作用面であるノエシスと、同じ意識の対象面であるノエマの違いでしかないんです。
野口:人間の身体と他の事物とは空間的に離れていることは否定できないでしょう。身体的に別物として認知できる以上、花や鳥や獣や石や道具や建物を人間だというのはやはり納得できませんね。
やすい:その思いは西田にもあります。人間身体と他の事物は明らかに他者ですし、それらが人間だというのは間違っているとは思っているのです。でも人間とは何かということを考えますと、人間を人間の身体に還元できません。人間にあらざる物に自己を表現し、物の中に自己を見出すのです。
野口:ヘーゲルの言い方だと、「他在にあって自己のもとにある」ということですね。
やすい:ええ、むしろ絶対無の自覚に立って、「物と成って見、物と成って考える」ことを強調します。
野口:確か「物と成って考え、物と成って行ふ」となっていたと思います。『日本文化の問題』でしょう。これは「物に成りきる」ことを大切だと「無心」の境地を説いたものでして、決して物が人間になって考えたり、行動したりするという意味ではありません。
やすい:全集第十二巻三二四頁では、見ることが働くことであり、働くことが見ることである行為的直観においては見ることは物となることであり、、物となって考え、物となって働くことだとしています。また三二七頁にも同じ主旨の文章があります。また三七七頁では、「我々は何処までも我を主張することによって創造するのではなく、真に物になって考え、物となって行うところに創造するのである。」と表現されていますから、物の考える機能を物と一体化した人間が補完していることになります。そのことによって逆に物は人間を表現し、人間の一部と成っていることになります。西田は三木が「交渉的世界」と呼んだのに対して、「表現的世界」と呼んでいますが、やはりこれも人間学的発想です。あえて人間と事物の断絶を克服して、物に成り切ることを説くわけです。それが行為的直観でもありますし、「絶対矛盾的自己同一」という発想も、人間はむしろ身体以外の事物を自己の定在とするところに特色があるわけです。たとえば大工さんは大工さんの身体ではなく、彼が建てた家こそが彼のアイデンティティであるわけです。
野口:いや、建物の出来で評価されるにしても、建物自身が大工ではなくて、その建物を建てた行為の主体としての仕事ぶりにこそ、大工の存在があるわけです。それを対象面だけで捉えて、大工と家を混同することを、ノエシスとノエマの対置で西田は批判しているのではないですか。
やすい:それはあくまで「有の場所」で言えることです。家は家を建てたり、家に住んだり、家を見たりする作用、つまりノエシスを捨象して、ノエマ面だけを捉えますと、事物として大工や居住者とは区別されます。でも家が家としての居住空間であるためには、そこに住むことやそれを見ることなどを含まないといけないのです。
野口:三木の言い方だと「交渉的存在」ですね。
やすい:ええ、そうです。家は住むことに関係する意識活動の集合として、意識の場所に現れます。この「意識の場所」が述語論理で捉えられる「無の場所」です。
野口:事物が有に対して意識が無ということですか。意識のレベルではあくまでも有ですよね。
やすい:事物の有というは主観としての意識を捨象して、客観としての事物が有ることを主張しています。それに対して、その有は主観の意識としての有でしかなく、それ自体としては無であることを自覚の立場に立った意識は自覚するわけです。
野口:カントの立場からは、事物はすべて感覚を素材に構成された現象に過ぎないということですね。もっともカントの物自体というのは、感覚に現れないのですから、意識としては「無」だということになります。