「死して生きる」と自己表現としての事物 

やすい:「死して生きる」というのが西田の自己否定による自己実現の論理なんです。一般者としての規定を個物が引き受けるのは、個物が唯一存在であることを否定したことを意味します。その意味で個物としての自己は死に、一般者が個物となって、自己を実現するわけです。一般者も個物でないことが一般者たる所以だとしたら、個物として自己を実現するのは、自己否定です。こうして個物はヘーゲル的には具体的普遍として復活することに、つまり「死して生きる」ことになります。

野口:社会的な諸事物だけでなく、自然的諸事物までも人間の自己表現に含まれるのですか。

やすい:自然的諸事物の分類や規定は、イデアとしての概念体系を当てはめて構成したものです。その意味では自然的諸事物も含めて、その時代、その社会の自然観に基づいた自己表現なのです。

野口:しかし現象がそのまま実在である西田の立場から言えば、人間が与えた規定であっても事物自身の規定でもあることになるのでしょう。

やすい:ですから、「絶対無の場所」における認識は個人的な認識であると同時に、その個人性の否定によって、一般者自身の自己限定でもあるわけです。「この花は薔薇である」という意識は、私の判断であると同時に、薔薇が意識として自己を語っているとも言えるわけです。

野口:それじゃあ、世界は事物自身が互いに連関し、自らを表現していることになり、人間の自己表現であるという人間学的な見方は成り立たなくなりませんか。

やすい:事物は人間の意識として自己を実現しているのですから、それは同時に人間の意識としての自己実現でもあるのです。そして絶対無においては意識は実在としての事物であることを自覚していますから、事物自身が人間の自己実現であることになります。つまり人間と事物の断絶は止揚されているのです。

野口:しかしそれはそうあるべきだという「当為」にすぎないのじやないですか。それが純粋経験論でいう主客合一ということですか。でも人間と事物の断絶も、自らの死によってしか克服できないという意味で絶対矛盾的なものだから、この合一も「絶対矛盾的自己同一」として捉えられざるを得なかったのでしょう。

やすい:ええ、全くその通りです。西田にすれば主体は絶対自由意志だから、それは物ではありえないのです。しかし人間は自己の自由を実現するためには、目の前の物事に取り組み、それを一つ一つかたづけていかなければなりません。そうしているうちに人生の大部分が消え去ってしまいます。目の前の事物に関わっているうちに、自分がやりたかったことは、何も出来ずに人生おしまいじゃないかと思います。そこで事物を自分と認めたくない気持を持つのです。

野口:でも、それらの事物として自分の世界は現れているので、それらが自分の生命であり、実在であるというのでしょう。だから、そこに人間としての自己を見出さなければならないとおっしゃるわけですね、やすいさんは。

やすい:西田もそうですよ。物に自己を見出すためには、自己の特殊性や様々な傾向性に囚われる自己を否定し、自己の底に普遍的な生命の意志と一つにならなければなりません。そうなってはじめて、物に成り切ることができるのです。それが物を創造的世界の創造的要素としてポイエシス(制作)的に捉えることに他ならないのです。現在、世界統合の新世紀は既に始まっているにもかかわらず、閉塞状況に陥っています。これを打破するためにも、時代の課題を明確にし、目標を定めて歴史を導く「ポイエシスの哲学」が求められているのです。

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