交渉的存在の存在構造
野口:交渉的存在の中には、まず諸個人としての人間が含まれます。厳密に交渉的存在と言えるものは、やはり人間だけじゃないでしょうか。西田哲学でも「個物」という概念を、人間の個的実存を現す言葉として使っています。西田によれば「真の個物は主体的な自己」でしかなく、それは人間でしかあり得ないのです。それに「交渉的存在」には道具や生産物のように人間に生み出されるものと、自然的な諸事物のように、人間によって認識されるけれども、人間によっては作り出されないものがあるでしょう。三木は両者を区別しないのですか。
やすい:カントは時間・空間・質量など物質に属する第一属性も、実は主観の先天的な統覚の形式だと、コペルニクス的な認識論の転回を成し遂げました。つまり自然的な事物と雖も、人間の感覚を素材に構成された意識の複合に過ぎないというわけです。だから事物も意識以外の何物でもないから、意識でない事物それ自体などは、不可知であることになります。
野口:それは事物が人間に対して対象となっていることを意味するのであって、自然物は人間が勝手に作り出せるものではありません。
やすい:三木は自然物の認識も、それぞれの時代の自然観や認識水準によって、歴史的に変遷していると考えています。夜空の星は古代には天空に空いた穴から天上の火が洩れて見えていると考えていましたが、現在では太陽に匹敵する恒星だとされています。
野口:それは「恒星」観念を作ったということです。決して恒星を作ったわけではありません。
やすい:確かに、存在を「対象的存在」つまり客観的事物として捉えていますと、それでいいのですが、交渉的存在としますと、それですまないのです。星は古代では天井の穴から天の火が洩れているとともに、星の神話と結びついて人間たちの運命を左右する存在です。現代では太陽自身を含む銀河星雲を構成する恒星として、科学的に捉え返され、人間存在の無限性や有限性を認識させると共に、地球的な人間生活の基礎になっています。星抜きに人間は語れないのです。その意味で星もまた人間を構成しているといえます。空や海が人間の生を構成するようなものです。
野口:それは自然存在が人間生活の環境だということです。環境と人間とは区別すべきでしょう。人間の環境が、やはり人間だとしたらそれは環境ではないことになりませんか。星や花や水が人間に含まれるというと、とんでもない議論のような気がします。
やすい:それは事物を「対象的存在」として捉えている限りでは、その通りですが、「交渉的存在」としてはむしろ当然の捉え方なのです。
野口:「事物」といえば既に「対象的存在」なのでしょう。それに対しては「状態性」が対置されていたような気がしますが。もし状態性として交渉的存在を理解するのなら、それは交渉的という限り、人間に対して他者として関係しようとするのですから、主・客未分化な状態性という概念に反しますね。
やすい:そうでしたね。三木の事物概念というのを徹底して洗い出す必要があると思いますが、日本語の「もの」「ものごと」「事物」というのは、必ずしも力学的な物体概念で捉えられるものではありません。本居宣長の「もののあはれ」論で語られるような、むしろ三木の「交渉的存在」に近い存在なのです。「交渉的存在」は「交渉」という言葉だけ取り出しますと、主体と客体の関係を前提にしている表現なので、状態性という表現は相応しくないと思われるかもしれません。しかし三木のいう「交渉」においては、客体に主体が現われています。「交渉的存在」こそ人間の姿なのです。その意味では主・客の統一となっています。
野口:それでは西田の『善の研究』での純粋経験で云えば、高次の純粋経験ですね。「事物」と言っても、それはむしろ人間の「状態性」を表現しているということですか。
やすい:三木は「所有」という言葉で、人間と交渉的存在にある事物の関係を表現していますが、もちろんこの「所有」は私有財産や商品に対する「所有」とは違って、その事物が人間自身を表現するような「固有」を意味しているのです。チャップリンのだぶだぶの燕尾服は、チャップリンとは物体的には別物であっても、交渉的存在としては、没落したイギリス紳士の矜持を表現してチャップリンのアイデンティティそのものです。IT革命後の現代人にとってパソコンや携帯電話は、切り離せない体の一部になっています。ですから人間の身体に人間存在を閉じ込める議論は、全く説得力を無くしています。
野口:パソコンや携帯電話がIT革命後の現代人を象徴していることは、だれしも認めるところですが、かといってパソコンや携帯電話を人間だと認める人はいないでしょう。
やすい:三木によればパスカルは、人間存在を個々の事物としての対象的存在のレベルで捉える人間論に対して、状態性として捉える存在論的な人間論を提起しているのです。存在論的な人間論では、主観と客観、主体と客体、我と汝が身体と身体、身体と対象的事物として分裂し、対立しているのではなくて、空を見れば私は空であり、花を見れば私は花なのです。自分が身体であり、感覚器官を持って見ているから、空や花という他者を見ていると考えるのは、まだ「物に成って見、物に成って考える」という西田哲学の絶対無の立場に立てていないのです。
野口:人間が空になったり、花になったり、パソコンになったりするようでは、まるで禅問答のようじゃないですか。
やすい:西田は、人間と事物の絶対的な断絶を克服しているこの関係を表現するのに、「絶対矛盾の自己同一」というきつい響きのキーワードを使いました。それは結局、三木が「交渉的存在」という言葉で表現したかったことなのです。
野口:対象的事物としては確かに別物だけれど、人間存在を存在論的に捉えるにあたっては、人間とは別の事物が、人間を表現する内容になるということですか。
やすい:西田は「物に成って見、物と成って考える」と言いながら、人間と物をやはり対極的に捉え、その上で、絶対無である場所を媒介に弁証法的一般者として事物として自己を表現し、実現するわけです。西田自身が事物を元々人間ではないと捉えているからこそ、それを人間として捉え返したときに絶対矛盾の自己同一として受け止められたのです。でも人間が事物に自己を表現でき、自己を実現できるということは、その事物が存在論的には人間を構成しており、人間に含まれているからなのです。
野口;空も海も花も人間に含まれていたのですか。