存在論的人間把握
野口:『パスカルにおける人間の研究』では、三木はパスカルから人間論として何を学んだのですか。「人間は考える葦である」という言葉が、人間の本質を「考える能力」に求めているのなら、デカルトと似たり寄ったりじゃないのですか。
やすい:パスカルには、考えることによって人間はある意味で宇宙より偉大であるという、典型的なヒューマニズムが見られます。そこが一般的には受けているのですが、三木は「人間の本質は何か」という本質論的な問いに対する解答というようには受け止めていないのです。本質論的な問いよりも存在論的な問いが重要だったのです。
野口:「何であるか」よりも「如何に存在しているか」が問題だということですね。
やすい:三木は西田の「哲学の動機は人生の苦悩である」と語っていた言葉に、魂の震えを感じていたのでしょう。大学生の時に書いた「語られざる哲学」というノートにこう綴っています、「まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。」
野口:留学前から既にパスカルに関心があったのですね。それも偉大性である「考える」というところにではなく、悲惨さである「か弱き葦である」ところに人間の本性を求めています。普通本質論でいくと、人間だけが持っている長所が選ばれるところです。
やすい:悲惨さは本質論的な概念じゃありません。どうして悲惨かといいますと、人間だけが、無限を知っており、それで自己の命のはかなさ、か弱い存在だということを実感することができるのです。ですから本質論で言えば、やはり思惟によって無限を知る能力こそが本質なのです。
野口:命のはかなさを思い知った人間の状態が悲惨なのですね。そうすると「人間とは何か」という問いに対して、本質で答えるのではなく、状態で答えるということが可能なのですね。それじゃあ人間は悲惨と偉大の中間者だというのも、本質論的な人間論ではないわけですね。
やすい:その中間者というのは、悲惨でもなければ、偉大でもない、その中間だという意味じゃないのです。パスカルは「人間は無限に比しては虚無であり、虚無に比しては全体である。それは無と全との中間者である」と語っています。つまり悲惨でも偉大でもあるわけでして、その間を常に動いている動性だということです。三木はこういうパスカルの人間論を本質論ではなくて、存在論的人間解釈だというのです。つまり存在のありのままの姿で「悲惨」「偉大」「動性」という「状態性」で人間を論じています。
野口:「状態性」というのは、存在を物体のような客観的対象の形で捉えるのではなくて、主観・客観が未分な経験として捉えようとしているのですから、西田の純粋経験論の影響がみられますね。
やすい:ええ、ここは重要ですから引用しておきましょう。「世界は本体でもなく現象でもない。それは特殊なる存在の存在の仕方に過ぎぬ。我々は『存在』が何よりも対象的範疇であると考える偏見から逃るべきであろう。自然を対象化することなく然もこれが現実的となる種々なる可能性のあることは明かであって、状態性とは斯くの如き可能性のひとつに対する名である。」
野口:不安のもとに揺れ動いているものだから、そうした生の本当の姿から逃避するために「慰戯(気晴らし)divertissement」という状態にはしるのだとパスカルは分析しています。例えば息子に先立たれで、その悲しみのあまり気も触れんばかりの父に鞠を投げると、つい投げ返して、キャッチボールを始める、鞠という物の方にすっかり気を取られて、息子の死をひととき忘れてしまうというのです。このあるがままの存在から物への頽落という発想は、実存主義的ですね。
やすい:ええ、三木はドイツ留学中は、ハイデガーの講座にいましたからね。人間をその時々の実存として状態性において捉えるわけなのです。そしてこの気晴らしというのは真実の生から目をそらし、真実を覆い隠す虚偽ですから、結局は何の解決にもなりません。そこでありのままの人間の姿を悲惨と偉大を揺れ動く中間者としての己の姿を、しっかりと見据える、哲学的な生が求められるのです。
野口:でもパスカルの場合、中間者としての人間は結局、神に救済を求めるわけです。神が人間を救済するのは、結局考えるということでは宇宙を包むという思惟の無限性、偉大性においてですから、その意味では、やはり人間の本質を思惟に求めていることになりますね。
やすい:それはそうでしょう。パスカルにすれば本質論的な考察も、存在論的な考察も行って、人間存在の解明をしているわけです。本質論と存在論をきちんと区別して存在論を選択しているわけではありません。三木は、意識的に存在論的解釈を行うことで、人間論における本質論から存在論への転換を試みたわけです。