絶対無の場所 

野口:ところで世界が意識として捉えられる「無の場所」と「絶対無の場所」はどう違うのですか、「物と成って考え、物と成って行う」というテーマと関連しているようですが。

やすい:「有の場所」では、世界は事物の諸関連だと捉えられていて、それが意識でしかないことは反省されていません。「無の場所」では、逆にすべてが主観の意識に還元されてしまっているのです。それは意識でしかないことによって、実在性が否定されてしまっていると言えます。あるいは意識としての実在でしかないと言えます。

野口:空間や時間も意識なんでしょう。もちろん色彩や音や臭いや、柔らかさも意識なんでしょう。

やすい:だから「窓を開ければ港が見える」というように同じ人の意識に狭い空間も、広い空間も意識されるわけでして、意識が現れる「場所」には空間カテゴリーや時間カテゴリーは適用できないのです。あらゆる有やその否定としての無とも区別されて、絶対無としか言えないのが「絶対無の場所」なんです。それだからこそ全ての存在が現れてくる可能性を持っている場所でもあります。

野口:パスカルに言わせれば「思惟は宇宙を包む」ということですか。でも西田は歴史的・地理的な「場所」の置かれた制約や条件を論じています。「場所」にも時間・空間カテゴリーが適用されているということじゃないのですか。

やすい:歴史的条件として、「開国」の時期、「日清戦争・日露戦争」の時期、大戦間時代それぞれに民族意識が違ってきます。それは場所の置かれている状況の時間・空間的な変化ですが、場所自体がそこに現れる事物のような時間・空間性を持たないという問題とは次元が違います。例えば、デカルトのような、主観・客観図式で考えますと、客観的な事物には時間・空間性があるのですが、主観は対象化できませんから、主観が時間的にどれだけ変化したかとか、主観の空間的な大きさは云々できませんね。

野口:「絶対無の場所」では、「実在としての事物」が現れるのですか。それではその「実在としての事物」は「有の場所」の「単なる事物」とはどう区別されるのですか。

やすい:「有の場所」では、ノエシス面を捨象して、ノエマ面だけを実体化していますから、単なる事物の関係として自然や社会の諸現象が捉えられるわけです。しかし、「絶対無の場所」では事物は人間のノエシス・ノエマの統合としての実在的な事物なのです。

野口:その場合、実在的という意味はどういう意味ですか。

やすい:それは純粋経験としては生の体験としての事物であるということです。あるいは行為的直観としては、生々しい歴史的・社会的現実体験ですね。

野口:客観的な外的事物ではなくて、我々の生きる苦悩や情熱の表現としての、喜怒哀楽のこもった事物ということですか。それではドロドロした自我が出ていて、「絶対無の自覚」からは程遠い気がしますが。

やすい:「わが心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思ふ」と西田は詠んでいます。深い苦悩の末に、自己の運命を達観したような境地に達したのです。そうなれば、もう個々の不幸な出来事や、苦悩の種としての肉親や財産や仕事や人間関係などを突き抜けています。そこにあらゆる有を超越した絶対無を実感したわけです。

野口:場所はどうして絶対無とよばれるのですか。

やすい:経験は様々な事物として現れます。事物的なものは有の世界を構成しているのです。そこには時間空間、質量、色彩、音、臭いその他の様々なカテゴリーで捉えられます。しかしそれが現れる場所それ自体にはそういうカテゴリーは当てはまらないわけです。つまり有や有に対する無、「ハンカチが有るとか、ハンカチが無い」とかから区別された実在が現れる場所としての無なので絶対無なのです。

野口:実在が現れる場所は有るわけでしょ。有るのだったら無ではないでしょう。

やすい:その意味では、絶対無は絶対有でもあります。ただ個々の実在のみならず、実在一般と区別されるという意味で絶対無なのです。

野口:人それぞれに現れる世界が違いますね。それぞれの人生が一つの宇宙だと言えるかもしれません。だけど同じ世界や事物をめぐって対話がなされ、そこで取引や争奪などの駆引きが行われるのですから、世界を共有しているわけでもあるわけてす。

やすい:ええ、個々人に現れる世界が、実在なのですが、それは個性的なものでして、他の人の人生とは全く違うものです。とはいえ、同じ空気を吸い、水を飲んでいて、人類という同じ命の幹から生まれています。世界は宇宙は当然ひとつしかないわけです。その意味では個別的なものは普遍的なものの現れに他ならないことになります。

野口:唯一の存在である個物が、一般者の現われでもあるということは、西田にとっては個物の否定であり、死を意味するわけでしょう。

やすい:西田の場合、真の個物は個人であるというように、個人と個物が混同されていて、個別を特殊や普遍として捉えることは、個物性の否定だとされます。しかし、元々個物は類や種に属しているからこそ、個物として具体的に現れることができるわけです。何の規定もできない個物はいかなる存在でもありえません。それに対して、個人の体験は他人の体験とは取替え不能ですから、個人性の否定というのはある意味で死を意味するというのも大袈裟ではないかもしれません。

野口:西田の場合、主観・客観の合一という立場があり、実在としての個物も個人の生とは切り離せないわけですから、個物を一般者の現れとして捉えることが、個人の個性の否定であり、死であると受け止められたとも考えられますね。

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