シンクレティズムの可能性

 

やすい:イスラエルの守り神として団結の精神的象徴である見えざる神ヤハウェと、自然の恵みを象徴する神々への信仰は、両立しないことはないのです。その場合唯一神というヤハウェの規定は撤回されることになりますね。しかしまだ唯一神という規定そのものが固定していなかったとも考えられます。元々ヤハウェ信仰は聖石信仰や火山信仰に起源があったわけですから。

佐々木:ヤハウェは本地でバウルやアシュタロテをその現れ(垂迹)とする本地垂迹説で唯一神信仰と自然神信仰を両立させていたとも考えられませんか。

やすい:それはすごい着想ですね。唯一神信仰が確立していて、しかも沢山の自然神も信仰しなければならないという矛盾をとことん突き詰めた人が当時いたとしたら、あるいはそういう宗教家がシンクレティズムを実践したかもしれません。

佐々木:佐々木:とは何でしょう。

やすい:全く原理の異なる相容れない教説を折衷しようとする態度です。神仏習合論や唯一神信仰と自然神信仰を両立させるのは、典型的なシンクレティズムです。 

 佐々木:現代の宗教的対話にもシンクレティズムは大いに参考になりますね。本地垂迹説というのも仏教と神道をいかに両立させられるかの難問を見事に解決して、神仏習合論の理論を確立したのですから、一神教に対して多神教をただ対置するのではなく、両者の融合を図ることが大切でしょう。

やすい:もちろん一神教と多神教は相容れないのですから、安易に妥協せずに徹底的に批判しあうべきだと思います。ただしその結果が相手を抹殺すべきだ、皆殺しにすべきだということになってはならないのです。

佐々木:討論と対話の両面が必要だいうことですね。日本仏教と日本神道は本地垂迹説に基づいて、安易に神仏習合してしまいましたから、それぞれのアイデンティティが曖昧にされてしまったところがあります。

やすい:これは『西田哲学入門講座』の中で、批判仏教を批判する際にふれておきました。大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」を強調しています。その場合、「仏性」は何か不滅の実体のように捉えられがちです。それならそれは「神」になってしまいます。仏教は元々不滅の実体などないという「無我の真理」に立っているのですから、仏性は神ではない筈です。

佐々木:ええ全ての物には、不滅の実体などはなく、無常でしかないこと、つまり全ての事物は、この無我の真理の現れであるという性質を持っているわけです。これが「仏性」ですね。ところが「山川草木悉皆成仏」という天台本覚思想では、神も仏の現れだということで、個々の事物に神が宿るという神奈備のアニミズムと区別がつかなくなってしまいます。

やすい:それは日本の神が必ずしも絶対不滅の存在ではないことともかかわっているでしょう。神だってお隠れになる場合もあるわけです。日本は物神信仰の国です。驚きの対象、祟りを起こす畏怖の対象が神なのです。神自身無常の存在であるとすれば、仏の現れが神であるという神仏習合も成り立ちます。 

佐々木:それはそうでしょうが、神仏が混同されれば当然、仏教的無常観は希薄になります。宗教的融合を目指せば、それぞれの宗教が個性を失い、長所がなくなってしまうという危険性もありますね。

 

やすい:宗教は正しい教えを信じたいという要求に応えるものですから、どの宗派も自己の教義の正しさを主張し、他の宗派の誤りを論証する必要があるのです。ですから宗教紛争を懼れるあまり、権力的に宗教間の論争を禁止してしまえば、宗教はたんなる習俗や迷信になってしまいますから、それこそ宗教を形骸化してしまうことになります。

 

佐々木:しかし活発に論争をすれば、相互の憎悪を増幅させ、互いを神の敵として撲滅しようとする大虐殺を生んだではないのですか。

 

やすい:そうです。だから宗教が武装して宗教的対立を武力で決着つけることは、厳に慎まなければなりません。そして政教分離を徹底しなければならないのです。その上で互いに謙虚に意見を聞き、学びあえば、まったく異なる原理の宗教が融合しあう可能性も考えられます。

 

佐々木:でも不動の経典があって、経典への批判ができないとすれば、それはできませんね。経典は教祖の言行録になっている場合が多く、教祖が神格化されたり、聖者だとされていますと、経典を改めることができません。

 

やすい:原理主義だと聖典は神の言葉だから、一語一句変更してはならないとされます。しかし時代が変わり、社会が変わりますと、宗教は一語一句まで経典通りの生活を信徒に強いることができなくなります。無理にそうすれば、信徒たちが離脱するようになり、その宗派は衰退せざるをえません。

 

佐々木:逆にみれば、社会の現実に不満を持っている人は、経典から社会が乖離していることを指摘し、経典を社会に合わせるのではなく、社会を経典に合わせるように要求するのです。それでこうした社会批判が、宗教的原理主義として行われるのです。

 

やすい:それは時代錯誤(アナクロニズム)の社会批判ですから、失敗せざるをえません。ただイスラム原理主義が根強いのはパレスチナ問題や南北問題、民族紛争などでイスラム諸国やムスリムたちが苦しい立場にあるので、現実の支配体制であるアメリカ中心のグローバリズムやキリスト教へのアンチとしてイスラム原理主義が戦える原理として登場するのです。

 

佐々木:イスラム原理主義こそアナクロニズムなのにどうして戦えるのですか。

 

やすい:最強の西洋科学文明と対抗しうるのは、絶対者としての神しかない。イスラム教はその点、アッラーという唯一絶対神信仰ですから、いかにアメリカでも神には叶わないはずだと意識できます。それにジハードですから、戦って死ねば楽園が保障されています。

 

佐々木:なるほど、それでかなり不利がカバーできますね。その上、最終兵器が低廉化しつつあるので、アメリカの中枢を国際テロ組織が一挙に粉砕することも可能になりつつあるわけで、アメリカの覇権そのものの根拠が崩れつつあると見られ始めた。

 

やすい:ええ、ですから戦争になれば勝つのは生産力や科学技術の優っている国というのは、近代的な幻想にすぎなくなってきているのです。もともと古代や中世では蛮族と呼ばれていた、生産力では劣るはずの遊牧騎馬民族が戦争では強かったのです。

 

佐々木;ではどうすれば、世界を破滅から救えるのですか。

 

やすい:世界が破滅の危機にあるということをまず全世界の人々が認識しているとが必要です。このことをゴルバチョフは、「全人類的課題の優先」という言葉で表現しました。各国の国家的民族的利害、宗教的利害などが全人類のサバイバルを窮地に追い込んでいる。そのことを認識して、一つ一つの課題に全人類が協同して当たる必要があるのです。

 

佐々木:何か循環論法みたいですね。それができないから世界が破滅しかかっているのですから。その一つの原因として一神教の独善性、排他性が槍玉にあがっていたわけでして、そのことはどうすれば解決するのですか。

 

やすい:この問題につきましてもまず「全人類的課題の優先」を確認する必要があります。もちろん原理主義者から言えば、唯一絶対の神が存在するということそしてそれがアッラーであること以上に重大な問題は有りえないというでしょう。でも人類が共同してサバイバルしない限り、アッラーに対する信仰も続かないわけです。

 

佐々木:しかしイスラム世界が侵されているという脅威を取り除かない限り、欧米キリスト教との共存は難しいですね。

 

やすい:ええ、まずイスラム世界に対する全世界の理解が必要です。唯一神信仰によって民族的な障害を超えて、人々が心を一つにして交わることができ、互いに助け合ってよりよき世界を作っていこうというのがイスラム教の立場です。

 

佐々木:それでイスラム教徒どうしでは仲良くできても、異教徒とは凄惨な殺し合いということになります。

 

やすい:ユダヤ教も原理主義的には偶像崇拝やフェティシズムを行っている連中に対しては、皆殺ししかないのですが、実際にはカナンの地で農耕・牧畜を行っていく上では大地母神(アシュタロテ)や雷神(バウル)、河の神(二ール)を祀る必要があったのです。

 

佐々木:明らかに唯一絶対の超越神信仰と矛盾しますね。

 

やすい:本来ならね、でも佐々木さんのアイデアのように、ヤハウェが本地でアシュタロテなどが垂迹だという、本地垂迹説という手もあるわけです。

 

佐々木:それで納得するでしょうか、神は自然から超越している筈なのに、大地や雷や河が神の現れだというのはやはり神の限定であり、神への冒涜とみなされませんか。

 

やすい:神は大地であるだけでなく、雷でもあり、河でもあり、太陽でもあるわけですから、限定されていて、限定されていないわけです。その意味で個々の自然から超越しているともいえます。神は神々として現れながら、あくまで唯一者であり続けているといえます。

 

佐々木:個々の自然神としては限定されていても、それぞれの自然神が神であるのは。根源的な創造神や統一的な根拠みたいな大本の神が根にあるからだということですか。そのように根源的な一から展開すると、多元論や多神教は反発するでしょう。多元的なものの調和という形で統一的なものを考えるのでないと。

 

やすい:しかし多元論や多神教に固執しますと、それぞれを実体化しすぎることになります。個々の事物は、他の諸事物との関係においてその事物として現れているのです。諸事物の連関が、その事物の根拠であり、基体という意味での実体なのです。

 

佐々木:でもその関係を唯一神として実体化すれば、今度は個々の自然神は神としては存在できなくなりませんか。

 

やすい:そうですね。ですからそれは有や有に対する無ではなく、絶対無だと西田幾多郎は考えたのではないでしょうか。

 

佐々木:急に西田哲学を持ち出されても困るのですが。

 

やすい:神の定義が個々人で微妙に違いますから、議論がどうしてもかみ合いません。人間にとって大切な命を養ってくれるもの、恵をもたらすもの、あるいはその反対に人間の生存に脅威になるものが神として敬われたり、畏れられたりしたわけです。唯一神はそれらを一つの実体的な存在に総括し、帰属させたものです。しかしそれは神々の総括に過ぎないという意味では、諸事物の関連としてしか存在できません。しかしこの関連はそれ自身方向性を持って動いているわけです。

 

佐々木:生命の進化とか社会の発達ですか。そういう進歩主義的な見方は近代のイデオロギーに過ぎないという手厳しい批判もあるようですが。

 

やすい:すくなくとも無生物から生物が生じ、そこから複雑な構造を持つ生物が進化し、人間がいるということは一つの方向としてあるわけです。人間社会も国民国家の時代からグローバルな世界統合の時代へと向かいつつあるわけです。それらの方向とは逆の力が働いているとしても、我々はそういう方向性にそって努力していくしかサバイバルできないのです。

 

佐々木:そういう進歩の方向に無理して進んでいくと、逆に環境を破壊したり、人類を破滅させる大戦争を引き起こしたりするのではないのですか。

 

やすい:地球環境を守るためにも環境技術を発展させなければなりません。そのためのハイテク・バイオの科学技術革命を進展させなければなりません。また戦争を防止する集団安全保障体制の確立も必要です。それも進歩なんです。進歩を拒否していますと、既成権益の争奪となり、大混乱になって人類の滅亡を招くのです。我々は進歩の名の下に古いよいものとか、生命や環境に大切なものを破壊しがちですから、ただ闇雲に進歩を推し進めるという進歩主義には反対します。しかし環境の変化に対応できなければサバイバルできないことも事実です。そのために必要な科学技術や社会組織の革新は成し遂げなければならないのです。

 

佐々木:そのための取り組みは、多元的ではいけないのですか。自立した個人や組織、企業、都市、国民国家が相互の調和を考慮しながら、それぞれの個性を伸ばして自己実現を図っていく形が望まれると思いますが。

 

やすい:まったく同感です。しかしそれはグローバル統合の時代に行われるのですから、未曾有の人類のサバイバルの危機に対処する「全人類的課題」を達成できなければならないのです。そのためにはグローバル憲法を制定し、そのもとでの世界的な機関が機能しなければなりません。多元的であると共に統合的でもある必要があります。

 

佐々木:なるほど多神教と一神教のシンクレティズムが再評価されるべきだというのは、そういう時代的背景があるのですね。

 

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