事物の思考の可能性

 

閻魔・・それ以上マルクス批判をやっても無意味だな。結局、お前のマルクス解釈は、マルクスが「つきもの信仰」に陥っていたように読めるということだ。この解釈にマルクス研究者が反発するのは当然で、嘲笑されても仕方がない。

 それよりも、人間概念を拡張して、社会的諸事物まで含めるというところでどれだけ説得力が持てるかだ。これも奇妙キテレツな議論のようにも思える。じゃがそれだけに可能性のある議論のような気もする。たしかに人間文化の総体、人間環境の総体を人間として捉え返すというのは必要な視点かもしれんな。

やすい・・閻魔様に可能性を認めてもらえるとは、びっくりです。さすが器量が大きいですね、閻魔様は。何しろ閻魔様はファースト・マンとして誕生されて以来、人間界をずっと見てこられたわけですから、人間論にも造詣が深いわけですね。私は、人間の意識なるものも、実は単に身体的諸個人が作りだしているだけじゃなくて、社会的諸事物を含めた社会的諸機構や文化の総体の中で作られていると思うんです。ですから、社会的諸事物が意識を持たないというのも、再考の余地があります。

閻魔・・事物も意志や感情を持つとして、事物と融合することを説いたのが本居宣長の「もののあはれ」論だが、「天地一体の仁」を強調した陽明学も人間の意識を個体の意識を超えて天地の心として捉えているようなところがあるな。

やすい・・宣長自身は陽明学の本を読んでいたという証拠はないのですが、発想はとても似ていますね。やはり「もののあはれ」論は、事物の思考を再評価する際に重要です。

 では話を戻します。まず社会的諸事物自体が意味を表示していますね。机ならどう使って欲しいかその姿で語りかけています。つまりいろんなメッセージや主張、センスが物にはあるのです。これはその意味で意識の現れの形だと言えます。それを読み取ることで我々の意識も形成されます。ですから事物は意識の受肉であると同時に、意識形成の働きかけでもあるわけです。

閻魔・・おい待て、そうすると人間の頭脳の活動はどうなる。諸事物によって意識内容が決まってしまうのなら、事物が考えていることになってしまい、自由な思考は成り立たなくなる。それでは閻魔の審判も意味をなさなくなるじゃないか。

やすい・・いえ滅相もございません。身体的諸個人にはそれぞれの自我が形成されている以上、自己の主体的な判断で思考し、決断し、自己の責任において行動していますから、その道徳的・倫理的・法的審判を受けることは当然です。私が申していることは、そのような脳髄の意識活動を社会的諸事物が生み出している面も、ですから大枠では事物の思考でもあるという面も認めるべきだということです。

 ですから現実の社会的諸事物によって形成されている状況次第では、ほとんど画一的な思考しかできず、決まりきった決断や行動しかとれない場合もあり得ます。それをあくまでも人間関係は生身の身体的諸個人の関係でしかないというように甘く捉えますと、観念的で過激なやり方で状況が変えられるかの幻想に陥ってしまうのです。社会的な諸事物も含めて人間の諸関係を捉え返し、それがどの様な文化とイデオロギーの諸形態生み出しているのか冷静に捉え返した上で、その変革の可能性を分析しないと思想の空回りに終わってしまうのです。

閻魔・・どうもお前の話ぶりだと、個人の思考が同時に社会的諸事物の思考でもあり、社会的諸関係の思考でもあるように聞こえる。そうすると個人の思考が同時に一般者の思考でもあるという、一般者の弁証法的な自己限定という西田哲学的な発想も感じられるな。

やすい・・私はやはり梯明秀門下ですからね。西田哲学からどう行為的直観の立場を学べるか、まだまだ悪戦苦闘しなければならないところです。まだこれから本格的に哲学しようというところなのに、これからイエスからもマルクスからもそしてもちろんヘーゲルやニーチェからも学びなおして、舩山人間学的唯物論と梯経済哲学を批判的に継承し、人間商品論を出発点にして人間論の体系的展開と哲学の大樹の構築、できればそれと平行してグローバル・エコノミーを形成したかったのですが、どうして自己嫌悪で自分の反吐で溺死してまったんでしょう。多分相当追い詰められていたんでしょうね。

閻魔・・おいおい他人事じゃないんだぜ、人生何に躓いて、「はいお終い」ということになるか分からない。たとえ大きな志を持っていたって、石ころに躓いて頭を打って臨終ってこともある。だれかに変に恨みを買って、殴られて打ち所が悪くて死んじゃったり、仕事が全部無くなって、浮浪者になって研究どころでなくなることだって、お前の場合は、常にあるわけだ。癌などが密かに進行しているってヤバイこともよくある話だ。今回は何と自分の研究に自己嫌悪、つまり自信喪失だな、に陥って、こんな筈じゃなかったって、嘔吐したわけだろう。それが吐くわ吐くわ五臓六腑まで吐いてしまったっていうことだ。

 まあそれも人生だな。どうせあと十年、二十年生きたところでもうピークは過ぎているから、ますます行き詰まるばかりだろう。年貢の収め時だということだな。まことにお粗末だったな。

やすい・・でもね、ほら、閻魔様が居られるということは、きっと六道輪廻があって、また生まれ変わって、四苦八苦の人生をおくることになるんでしょう。それならもう一度人間の境涯でやり直させて下さいよ。今度こそ腹を括って哲学をしてきちんと体系を打ち立ててみせますから。いや私みたいな根性なしなら、何百回・何千回かかったっても無理かもしれない。でも『法華経』によるといつかは皆悟れるんだということでしょう。

閻魔・・こらこら、お前は考えが甘いな、唯物論だと人生はただ一回、有始有終だ。そう覚悟を決めて学問をしてきたんだろう。それで駄目だったんだから。お前は消滅して、もうお終いだよ、生まれ変わるなんて今更身勝手は許されないよ。

やすい・・それなら閻魔様が出てくること自体土台おかしいじゃないですか。もし私が既に死んでいて、消滅してしまったのなら、意識すらないはずです。閻魔様の審判を意識していることは死んでいることと矛盾するでしょう。じゃあ私は死んでいない筈です。娑婆に戻して下さい。

閻魔・・ハ、ハ、ハ、お前は生死しか知らないからそういうことを言うんだ。お前は既に消滅しているが、俺様の意識の中に存在しているんだ。それは時空を超越した世界で、常に俺様の一つの問題意識であり続けている。

やすい・・それならそれでいいから、閻魔様の意識の中で常にあなたと議論させて下さい。

閻魔・・おいおい、あんな糞おもしろくもない哲学の相手をさせられるのは真っ平だ。もう少し娑婆で苦しんだら、哲学にも絶望するだろうから、時刻を反吐を吐いた以前に戻して娑婆に返してやろうか。

 

長い悪夢から覚めて、私は、びっしょり寝汗をかき、呆然としていた。

 

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