マルクスの「つきもの」信仰
閻魔・・ところがそこでお前が発見したのは、マルクスもイエスも結局は「つきもの信仰」だということなんだな。それでこんなことしか発見できないので自己嫌悪に陥ったという始末だな。
やすい・・イエスが悪霊払いの魂の癒しの医者であり、その意味で「つきもの信仰」だったてことは、それが説明の為の方便かどうかは別として、周知のことです。問題は歴史的事実としての復活と聖餐が不可分ではないかとい仮説です。これは私のオリジナリティでしょう。
マルクスの「つきもの信仰」の発見は、私の理論的な能力がピークにあった時に閃いたもので、いまだにその時の興奮は忘れられません。なにしろ唯物論の親玉が迷信とされる「つきもの信仰」に陥っているというのですから、全く自分でも信じられない発見でした。
閻魔・・もしお前のマルクス解釈が正しいのなら、マルクスの唯物論というのも底の浅いものだということになるから、おもしろいじゃないか。閻魔にとってはマルクスはやはり不具載天の敵じゃからのう。
やすい・・何をおっしゃいます閻魔様、それは大いなる誤解です。マルクスこそ資本の論理がいかに人間性を歪めたかを暴き出した功労者です。現在から見れば欠陥だらけですが、現代社会の悪を鋭く分析し、根底的な社会変革の展望を示したわけです。閻魔様が政・官・財の腐敗した癒着を告発し、現代の悪を懲らしめるには、マルクスの分析方法やヒューマニズムの視点が是非とも必要です。私は、もし閻魔様の裁きが本当にあるのなら、その時は、マルクスが閻魔様の助手をしているに違いないと思っておりました。
確かに唯物論者にすれば死後の審判など認められません。そんなものに期待して、善良に生きるのは庶民だけでして、本物の悪党は、地獄の沙汰も金次第とうそぶいていくらでも、平気で罪を重ね、私腹を肥やしています。マルクスにとりましては、有限の生をいかに生きるかが問題です。歴史的使命を歴史の前史である、階級闘争の時期として捉え、労働者階級の解放がすべての階級の止揚の前提条件になっているとしました。それで労働者階級の解放に貢献できてこそ、持てる者の持たざる者への支配がなくなる理想社会を作り上げるという不滅の事業によって、自分の人生を輝かせることができるとしたのです。
閻魔・・将来の解放の為に現在を犠牲にして、憎しみの戦いの世界に身を置いて献身しろというのだろう。そういう自己犠牲的精神で闘争を指導した連中は、権力を握るとやたら独裁的になって恐怖政治を行い、私腹を肥やすと相場が決まっている。それに革命に失敗すれば、哀れなものだ。何のための人生だったか分からない。
やすい・・そういう風に自己犠牲的に奮闘したものの展望をなくして、自分の人生の意味を問いなおす場合が多いようですね。また闘争を指導するなかで、自ら党や組合の幹部になって権力を握り、今度は自己の権力の維持や拡大の為に闘争を利用し、人々の闘争を妨害したりする連中がいます。それが国家権力まで手にしますと恐怖独裁をしき、人民のあらゆる権利を蹂躪して、世界を核戦争の危機など破滅にまで追いやろうとするようになりました。その点、閻魔様の怒りはご尤もです。
でもマルクス自身は、将来の為に現在を犠牲にするという発想を嫌ったようです。コミュニズムを将来社会の状態ではなく、現在において、いかに人々と連帯して、自己の可能性を実現するか、その戦いの中にこそ、共同社会を見出そうとしたようです。実際我々の生活は、小さな共同の積み上げですから、その中に共同社会が、理想とは程遠いかもしれないけれど、実現しているわけです。
閻魔・・ところでマルクスの「つきもの」とは何なのだ。まさか魂と肉体の二元論を説いたわけではないだろう。
やすい・・マルクスは、価値を「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)」だと規定しています。ガレルテというのは抽象的人間労働自体が膠のように固まった状態なんです。それが生産物にとりついて、生産物に価値対象性を与えているというのです。
つまり生産物自体は具体的有用労働の結晶です。そしてそれ自体は価値ではない、とマルクスは考えます。労働の抽象的な性格があって、その面は価値を形成していると考えたのです。それは具体性を捨象しているから透明で見えません。それがくっつくとあたかも価値ではない、有用物の方が価値であるように見えるわけです。それで使用価値が価値であるように見えるという倒錯視の構造が説明されたわけです。
閻魔・・わしはマルクスなどの肩を持つ気はないが、マルクスは生産物そのものには価値はないと考えたんだな。価値は生産物の属性ではなく、あくまで労働の社会関係だというのだろう。
この労働の社会関係は量的には労働時間で表現される。この労働の社会関係の中で生産物は価値として扱われるんだ。たとえば十時間でつくられた服は、十時間分の価値を持つとされる。服自体は十時間分の価値ではない。価値というのはあくまでも労働の量あるいは労働の量的評価だから。
偶然、この社会ではその服には社会的平均で十時間分の労働が必要なので、その服の価値と認定されている。この認定は市場では均衡価格という形で表現されるんだ。これは服という労働生産物への社会関係の投影であり、刻印であるわけだ。「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)」という表現もそういう文脈で捉えれば、ひとつのレトリックとして許容できるんじゃないか。
やすい・・労働の社会関係は価値ガレルテとしては生産物に膠着した形であるんですよ、マルクスの表現では。だからまさしく「つきもの」なんです価値ガレルテは。それで生産物が価値に見えるというレトリックになっています。そこから机が踊りだすだの、労働生産物が社会関係を取り結んで活躍する有り様を、あたかも倒錯的であるかのように表現しているのです。つまり彼は労働生産物が経済社会の中で価値によって、主体的に関係していく事態を転倒として批判しているのです。
閻魔・・マルクスはあくまで、人間の経済関係を人間どうしの関係として把握しているわけだ。だから人間に代わって、商品どうしが勝手に自分の属性とされる価値関係によって商品関係を取り結んだり、それが貨幣や資本に発展していく事態を倒錯的だと表現するのは当然じゃないか。もし倒錯じゃないとすると経済関係は物の関係であって人間関係ではないということになる。マルクスは人間関係として経済関係を捉えるから、人間関係を変えていけば、経済関係も変えていけると考えたんだ。経済関係が人間関係でないなら、人間関係を変えても、経済関係は変わらないことになるだろう。
やすい・・そこにマルクスの人間観の限界があるんです。マルクスが人間として想定しているのは、人間の身体を持つ諸個人です。そして人間の経済関係を身体的な諸個人の関係に限定して捉えていたのです。でも経済的な人間関係というのは、生産手段や労働生産物などの社会的諸事物を含んで成立しているのです。
価値を抽象的人間労働のガレルテとすることで、事物の属性でないとしますが、労働それ自体が事物の属性になることなしに価値であるというのは、説得力がありません。そこでマルクスも価値対象性を持って初めて価値であることを認めています。でもやはり価値は労働それ自体の固まりであって、事物自体ではないとしなければならない。
価値対象性は労働生産物が自己を価値物として示すことです。ところが労働生産物は価値ではないし、価値を属性ともしていない。にもかかわらず、あたかも価値を自己の属性と見せなければならない。だから透明な抽象的人間労働のガレルテである価値が事物に付着していれば、価値はあたかも労働生産物の属性だと倒錯視されるのことになります。
閻魔・・結局、お前が言いたいのは、価値はマルクスでは「つきもの」になっている。それは価値を素直に事物の属性と認めないからだ。価値を事物の属性と認めれば、「つきもの」と見做さなくてもよいということだな。そうすればしかし、労働生産物が価値関係を取り結ぶことになってしまう。つまり経済関係は人間相互の関係ではなくて、物と物の関係になってしまうじゃないか。それこそマルクスが言うように、机が踊りだしたり、物が人間として社会関係を取り結ぶフェティシズム(物神崇拝)に陥ることになるぞ。
やすい・・でもよく考えて下さい。人間労働が作りだした服や机やパンや宝石が価値をもって商品となり、経済関係を取り結び、それによって人々を経済的に規定しないとすれば、それこそおかしいじゃないですか。労働とその生産物を抽象的に区別し、経済関係は労働関係なんだ、生産物の関係じゃないんだというのは、結局、人間と生産物は別物だという固定観念があって、その観念にあっていないから、価値を事物の属性としてはならないと言ってるだけなのです。
価値は実は、人間と社会的事物の抽象的区別の止揚なんです。人間は単に身体的な諸個人であるだけてなく、社会的な諸事物でもあるんです。そのことを経済学の諸範疇は示しているわけです。そこにマルクスは社会的諸事物を人間化するフェティシズムを発見しました。ですから、ああ、この服も机もワープロも人間を構成している事物だったんだ。今まで身体的諸個人だけに限定して人間を捉えていたが、これからは生産手段や生産物、あらゆる人間環境も含めた人間概念を構築しようということになれば良かったんですよ。
閻魔・・そりゃ困る。わしは亡者共を審判する役目だから、煩悩具足の諸個人を人間として相手にしてきた。それ以外のがらくたまで裁くわけにはいかん。第一、事物には意志や感情がない、主体として関係するわけでもない。やはり人間に含めるなら意識主体であるべきだ。
やすい・・マルクスも同じ気持ちでした。しかし私に言わせれば、それは了見が狭い。フェティシズムは、ド・ブロスによりますと、人間が石ころや蛇などをフェティシュ(物神)に選び、お祭りして捧げ物をします。そして願い事が叶えば神に感謝し、叶わなければフェティシュに攻撃をかけて叩いたり、破壊したりするんです。身勝手に神にして、身勝手に攻撃しているんです。
でも商品の場合は、それなりの労働が込められていて、人間社会の中で人々に働きかけ、役割を果たしているわけですから、そこに倒錯性はないわけなのです。机が踊りだすと言うけれど、机にはそれだけの商品価値があって経済的役割をしているのです。机が踊り服が歌いだす。それでいいじゃないですか。
マルクスは机が踊り、服が踊る原因を、謎解きして説明しなければならなくなった。そこで彼は机や服にとりついている「つきもの=価値ガレルテ」があって、それで事物が価値に見えているんだとしたのです。しかしこのマルクスの説明では、アニミズムと融合したフェティシズムになるんです。
イエスは聖霊が宿った身体として「神の子」として崇拝されます。悪霊のとりついた身体は汚れた身体であり病気ですが、悪霊を取り払えば健康体です。価値がとりついているなら、その事物が価値物とみなされますから、人々が事物を価値として扱うことを批判したことにはならないのです。ただ価値がとりついていることが分かっていないという批判にしかなりません。
閻魔・・だからマルクスの本当に言いたいことは価値がガレルテだということではないんだ。労働の社会関係だということなんだ。労働の社会関係が価値関係として商品取引を規制する結果、あたかも抽象的人間労働が事物に投下凝結しているように扱われてしまっているということなんだ。それをガレルテという比喩的表現にこだわって「つきもの信仰」だと大騒ぎするものだから、嘲笑を買うのが落ちなんだ。
やすい・・残念ながらマルクス研究者の間での評価はその程度です。だから『人間観の転換マルクス物神性論批判ー』では『資本論』の全体的な体系的展開の中で価値ガレルテがどのように扱われているかを検証し、価値が生産物から生産物に移転したりすることも論証し、マルクスが如何に価値を実体的に扱っているかを証明したつもりなんですが、細かいところまでは問題にしてくれないんです。