「人間=商品」論の試み
閻魔・・調べによるとお前は、「人間=商品」論を吹聴して、嘲笑を浴びていたんじゃなかったのか。この悪ふざけのような人間論をくそ真面目に説いていたのだろう。
やすい・・ええ、別に「人間=商品」論を撤回したわけじゃないんです。ただ「人間=商品」論を完成させる以前に、人間についての内容をいろいろ論じている内に、「人間=商品」なんだと強調することに熱心じゃなくなったんです。それは「人間=商品」じゃないという現代ヒューマニズムが勢いを無くしていることにも関係があるでしょう。逆に言えば人間の商品的な存在性格は、だれしも認めざるを得なくなっています。
閻魔・・それは社会主義世界体制の崩壊や冷戦終焉によってマルクス主義と、そこからの資本主義の原理への根源的批判が弱くなって、鋭いヒューマニスティックな批判ができなくなったことと関連しているな。今では商品的な存在のあり方を前提して、市場関係のなかでどのように対話的なコミュニケーションを計っていくかが問題になっている。だから人間は商品ではないということを出発点にした、批判理論が組めないだから、逆に批判理論に対する批判としての「人間=商品」論も意気があがらなくなったというわけだ。
やすい・・私も決して「人間=商品」のままでいいとは思っていません。でも人間が商品でないかのような議論の立て方は現実的じゃないわけです。むしろ人間は商品性によって初めて人間になったと捉えるべきで、私のオリジナリティは、そこにあったわけです。この人間起源論は実は、言語起源論とも連関していて、人間本質論にかなりの衝撃を与えたつもりでしたが、全く無視されたままです。
閻魔・・人間性を商品性に置くという議論は、結局はカント的にいえば、傾向性に従って生きるということになる。つまり自己の欲望や利害によって行動するという原理だ。それでは人間の人格としての尊厳は成り立たない。むしろ人間の人間たる由縁は、そういう傾向性を抑制して義務に従うという道徳性にこそあるわけだ。
やすい・・傾向性を抑制して義務に従うことも含めて、人間は市民社会の中に適合して生きなければならないんです。市民社会という私的な商品関係の社会は、それ自体で自立した社会ではなくて、公共部門によって支えられているわけです。ですから傾向性にのみ従っていたのでは都合が悪いのです。必要な場合には、傾向性を抑制して義務を優先しなければならないのです。 ですから人間は商品社会で生きていこうとする限り、傾向性と道徳性を両方満足させなければなりません。
それから商品社会における商品としての自己意識は、単純な打算に還元できる意識でもありません。むしろ自己の価値を商品的な交換価値に還元されることに反発するのです。そして家族に対するかけがえのなさなどの真無限的な価値として自我同一性(アイデンティティ)確立しようとするのです。ですから一見、人格は商品の人格ではないかのような外見を示します。そこで労働力の商品化を商品化され得ないものが商品化されてしまう矛盾として捉え、そこに資本主義の根本矛盾があるという指摘がなされました。
もし労働力商品として自己を実現できなければ、労働者としての生活が成り立ちませんから、どれだけ、自己の商品としての存在形態に反発しても、仕方がありません。自分の労働やサービスが非商品的な自由な生き方を表現するものであっても、それが売れて自分たちの商品としての生活がそれで支えられなければ、商品社会では通用しないのです。その意味で先ず「人間=商品」論を根底において捉えるべきなのです。
閻魔・・そういう議論は近代の資本主義社会を前提にして論じるからそうなるのだ。近代より前の時代では人間は商品でなかったのだから、近代資本主義の普及によって商品生産に巻き込まれる内に人間は商品性を身につけたのではないか。
やすい・・そういう誤解が多いので困ります。人間は労働力の商品化によってはじめて商品化したのではないのです。商品交換を始め、商品交換を前提にする生産を始めるようになって人間の商品化は始まっています。むしろ私の「人間=商品」論は、人間は商品性をもつことによって人間に成ったという議論だったのです。もちろん総スカンをくらいましたがね。
閻魔・・奇をてらった議論を好む奴だな。商品生産が普遍的になるのは近代になってからで、だから商品性で人間性を規定するのは、近代の原理で過去を規定することになる。
やすい・・商品は生産物の社会的な規定ですが、労働生産物ですから当然それを作ったり、取引したりする人間の生活をも規定してしまいます。その商品の生産や流通や消費に係わっている時間は、人間も商品性に規定されるのです。それに商品として交換されるのでない共同体的な物資の交流は、身内内での物資の交流ですから、損得の駆け引きがなく、この分業で結合している人間同士は他者として感じられません。生産物も身の延長としてしか捉えられないのです。それは融合の論理ですから、いわゆる他者としての人間同士や物同志の関係になっていません。ということは人間性というのは、商品交換による他者性の論理によって成立したということなのです。
閻魔・・馬鹿も休み休みにしろ。人間の本質は言語を話したり、思考活動を行ったり、労働したり、神を信仰したりするところにある。他者性の論理だって、分業による区別や私的所有による自分のものと他者のものの区別、利害対立や戦争等を通しても成立する。私的所有によって商品交換が成立したのであって、その逆ではないんだ。
やすい・・問題は自己意識がどうして成立したかです。それには当然対他的な社会関係が必要ですね。分業による区別は差異を意識させるものであっても、それぞれの役割分担によって互いが共同体的に融合していることを意味するだけです。実際動物の社会でも高度な分業が成り立っているように見えますが、自己意識の形成に至っておりません。
私的所有によって商品交換が成立したというのは、その通りなんですが、では私的所有がどうして成立したのかを解き明かさないといけません。やはり他者性の論理が必要です。
動物同志の関係でもなわばり争いや、猛獣とその餌食になる動物の関係等は、対他関係と見られがちですが、その動物自身の意識からみれば疎遠なあるいは危険な生理状態であったり、食欲を喚起し、飛びつかずにはいられないような生理状態であるわけです。つまり自己の生理から独立した、生理的に働きかけるのではなく、理性的に交渉しなければならない他者というのは、動物には存在しないのです。
ですから生理的な融合関係で処理される身内的な分業や協業では対他的な自己意識は発生しません。だから理性的な交渉相手としての他者は、交換関係によって始めて成立するのです。
閻魔・・だとしても交換が成り立つためには他者関係が必要だろう。つまり対他的な自己意識がなければ、交換は成り立たない。
やすい・・つまり動物的な生理的存在構造から人間的な人格的関係への飛躍がどうして生じたのかという問題なんです。
閻魔・・するとお前は、人間がどうして動物から進化してきたのかという、人間進化の秘密を解き明かしたというのだな。
やすい・・動物的なサルからヒトへの進化は、樹上生活から降りたサルの一種が二足歩行を始めたことで起こったと考えていいと思うんです。その結果、直立して咽喉が発達し、豊富な発声が可能になった。これは音声信号を著しく豊富にしました。しかしその段階ではまだヒトではあるが、動物と端的に断絶した人間にはなっていません。他者性の論理には共同体間の交換が必要なんです。
その為にはフラトリア(母氏族)があって、それを構成する部族は互いに血縁のある親縁同志だったとします。ところが移動で一部の部族が欠けて、フラトリア内の社会的分業が壊れてしまったとします。そこへ他の血縁のない共同体が引っ越してきて、フラトリアにとって必要な分業の穴を埋めるような物資を作り出していたとします。そこで分業関係に入りたいのですが、血縁がないので、生理的に対応できないのです。
そこで無人の境界に物資を捨て合う、無人の物物交換が起こったと言うわけです。こうして物の背後に他者である異縁共同体を意識せざるを得なくなります。つまり表象としての物の背後に表象を超えた存在を仮構するわけです。そして表象としての物の相対している自己を表象を内に超越する形でやはり仮構せざるを得ません。これが人格的な自己意識の起源です。
閻魔・・見てきたようなことを言うが、単なる推論でなんの証拠もない。そんな説明を思いついたところで、今度は労働から自己意識や他者意識の推論をもっと巧みにする輩が出てくるだろう。
やすい・・労働は、{二本の手ー多種の道具ー多種の労働生産物}という図式で、身体の進化は伴わないで、次々の道具や生産物が改良され、増産されるという図式になります。そこから不変の中心に主体概念が反省される可能性があります。そして道具、生産物、自然物の区別が生じて、人間的な認識が発達する論理を包蔵しているのです。でも未開の段階ではまだ人間たちは融合的な共同体の中にいました。一生のうちにほんの僅かな改良しかしなかったのです。ですから労働の持つそうした理性的な論理を対象化できるわけはありません。
閻魔・・馬鹿者、わしの言うのは、そういう意味ではない。お前の屁理屈は、一つの推論に過ぎん、何の証拠もない。だから他の説明だって可能なわけで、お前が勝手に自分の説明が最善だと独断しているに過ぎない。だから世間はお前の論証を受け入れることもなく、お前の説はお前の死と共にもはや滅んでおるということじゃ。
やすい・・そうです、その通り。だから私もそういう知の為の知は意味が無いと思います。私が交換の発生によって、人間が生成したというのは、「人間=商品」論の基礎づけの為なんです。
閻魔・・「人間=商品」論なるものもどうせ何の役にも立たん屁理屈に決まっておる。
やすい・・「人間=商品」論も頓挫していますからね。そう言われても仕方がないかもしれません。しかし私の狙いとしては、人間の存在構造を商品として捉えることで、商品としての人間のあり方やその可能性、限界、そこからくる様々な意識形態を明らかにできると思ったんです。そして商品性を止揚する可能性や意識のあり方を論じることもできると思ったのです。『人間論の可能性』(北樹出版)や『人間観の転換』(青弓社)である程度は触れましたが、まだまだ中途半端なままでした。それに自分だけ了解できる理論展開をしても、だれにも相手にされない気がして、古今東西の人間論から学べるものを学んで普遍的な説得力のある人間論に脱皮すべきだと気づいたんです。