聖餐の秘儀と復活信仰
やすい・・私の名誉の為に弁護しておきますが、私は決してイエスを弟子たちが事実として聖餐を行ったと主張しているんではないんです。私は明白な証拠が無い限り、聖餐を歴史的事実だと主張する気はありません。ただ聖餐があったという仮説を立てるか、聖餐をあったことにしたとする仮説を立てなければ、キリスト教の成立とその後の発展は説明できないのではないかと思っただけです。実際、キリスト教の教会での儀式の中心はイエスに対する聖餐をパンとブドウ酒を使って象徴的に再現する「聖餐式」「聖体拝領式」です。
閻魔・・あれは「最後の晩餐」を記念して、パンをキリストの肉、ブドウ酒をキリストの血と見立てているものじゃ。その行為によって、主イエスとキリスト信徒が一体化しようとする儀式になっておる。
やすい・・つまりイエスの「血と肉」は特別の霊力が宿っていて、それを食べなければ、人々は永遠の生命を得ることはできないわけでしょう。「ヨハネによる福音書」ではそうなっています。
閻魔・・「ヨハネによる福音書」は一世紀末のもので証拠として採用することはできないんだ。思想としては色々面白そうなことが書いてあるが。
やすい・・イエスが聖霊をもっていると自分で信じ込んでいて、悪霊が取りついたせいでいろんな病気になった患者を、悪霊払いによって癒す医者であったことは「マルコによる福音書」からも窺えますね。
閻魔・・それは悪霊がついているから、それを取り払って癒すという形で、因習や迷信や差別に苦しんでいる民衆をイエスが救済したということを意味しているという説がある。つきもの信仰という俗信をイエスは利用したが、イエス自身がつきもの信仰だったとは言えないという説だ。
やすい・・それはそういう説を唱える人が、イエスを自分の信仰レベルに引き上げて解釈しているに過ぎません。つまり後のキリスト教神学の立場で、福音書を解釈しているわけです。つきもの信仰というのはアニミズムの段階で起こります。生き物や石ころのような自然物がそれ自体で神にされるフェティシズムから、自然物に宿っている霊が神として崇拝されるアニミズムになっているわけです。
『バイブル』ではダビデ王の活躍を描くころから霊のがとりつく話がでてきますが、イエスのように「つきもの信仰」を中心とした展開にはなっていません。つきもの信仰はフェティシズムのように物それ自体に超常的な力を認めないと言う意味で啓蒙的ですが、霊を宿した身体は特別な存在になります。
カニバリズムは身体にまだ霊が残っている間にその身体を食べることによって、霊を体内に取り込もうとするものです。これが未開の部族では戦争の際の人食いとして行われますし、族長やシャーマンの葬儀にあたってカニバニズムの儀式が行われることになります。
「ヨハネによる福音書」の「人の子の血を飲み、肉を食べなければ永遠の命を得られない」という思想は、ユダヤ教の超越神論の伝統からは外れたものです。アニミズムと融合したフェティシズムとしてイエスの聖なる身体が永遠の命を与える食料と成っているのです。
閻魔・・イエスはあくまで比喩として、イエスの愛の教えが永遠の命である信仰の核心だとしているのであり、だから実際にイエスの肉を食べ血を飲まなくても、パンを食べブドウ酒を飲めばよいわけだ。お前は比喩でキリストの教えをキリストの肉体に例えているのをそのまま事実として解釈しようとしている。イエスは決して自分の肉体を弟子に食べさせようとしたのではなく、自分の愛の教えを広めようとしたのは明らかだ。キリストの愛の教えをよく咀嚼して、実践することが「二つの愛」に生きることであり、イエスと共に生きることであり、これがキリストの復活に他ならないんだ。それをカニバニズムという野蛮な猟奇的な行為として解釈するのは、キリスト教を冒涜していると言わざるを得ない。
やすい・・私も好き好んでこんな解釈をしているのではありません。イエスが死者から復活したという歴史的事実を確信することによって、イエスの弟子達は殉教も恐れない使徒となってキリスト教団が形成され、膨れ上がっていったのでしょう。このキリストの蘇りは決して精神的な意味に限定できないと思うんです。
弟子達がイエスの教えを実践して、「二つの愛」に生きることがキリストの復活だというのでは、説得力に欠けます。そういう精神的な意味の復活を確信する為にも、実際に死にうちかったイエスへの信仰が必要だったのです。
閻魔・・だから福音書は処刑から三日目にイエスは復活したとしているじゃないか。
やすい・・イエスが神の子であり、三日目の復活が文字通りの意味で事実だと信仰できるなら、苦労しませんよ。既に一世紀の中頃からグノーシス派は、イエスの復活を歴史的事実ではなく、精神的な意味での弟子の霊における事実として捉え返していますね。実際生身の人間として登場していたイエスが、いったん死んだのにまた生き返ったという話は、眉唾なんです。
本当にイエスを神の子だと信仰しているなら、生き返ったって別段なんの不思議もありませんよね。ですから、鶏が鳴くまでにイエスを三回知らないと言ったペテロをはじめとして、弟子たちにしたところで、百パーセント信仰していたわけではなかったのです。だれもがユダの要素を持っていたわけです。
閻魔・・しかしイエスの十字架によって、彼の肉体は滅び、純粋の精神だけに戻った。そして彼の言葉が真実であったことが思い起こされ、彼を十字架につけた自分たちの罪に目覚め、殉死さえ恐れずに、イエスの言葉に生きようとするようになったんだ。
やすい・・しかしね、それ以前にユダヤ教の教えからいっても、「神の子」は唯一神論と矛盾しますし、人間が神でもあるということは、神に対する偶像崇拝に当たり、モーセの『十戒』にも背きます。
イエスを神の子と信仰すること自体が、ユダヤ教から見て、背教的ないかがわしさを持っていたわけです。その上、「人の子」の血を飲み、肉を食べるというそれこそトーラーに真っ正面から背く行為を核にしていたわけですからね。辛うじてイエスの行う様々な癒しの奇跡や魂が洗われるような説教に魅せられて、弟子達は付き従っていただけです。
もちろんイエスは聖霊を宿していることを自ら確信していましたから、その癒しは相当の迫力があり、成功例も数多くあったのでしょう。でもいつまでも奇跡が成功する筈もありません。やがて霊力が衰えたと見られます。ユダヤ解放も精神的な意味だけでした。イエスの憎しみではなく、愛で戦うという「愛の戦略」は民衆には理解されません。こうして民衆に見捨てられたのです。ですからユダヤ教によるイエスの告発と処刑は必然でした。そこでイエスは自らの聖霊の不滅を信じていましたから、聖餐による復活を企てたわけです。
閻魔・・それなら「最後の晩餐」で、どうしてブドウ酒やパンに譬えたりするんだ。そんなことをすれば、弟子達はブドウ酒やパンでいいと思い込むじゃないか。
やすい・・聖餐は秘儀ですから文書には残せません。キリストの血と肉と思ってブドウ酒を飲みパンを食べる儀式を通して、イエスはいよいよ時が迫っていることを告げたのです。ですからブドウ酒やパンは予行演習のつもりだったのです。
閻魔・・しかし、実際に聖餐を行っても、それでイエスは復活できるのか、アニミズムの立場に立てば復活するとしても、イエスの弟子達に復活するとは言えないだろう。
やすい・・ですから、あくまで仮説ですが、イエスの弟子たちはアニミズム的に復活を信じて、敢えて聖餐を行ったわけですから、自らの体内に入ったイエスの血と肉は強烈なドラッグ効果を現すことになるのです。自分自身とイエス、他の弟子とイエスの区別ができなくなり、イエスにとりつかれた状態が長く続くことになります。まさしく復活したキリストと始終出会っていたわけです。こういう原体験がなければ、あれ程夥しい殉教者を出しながらも発展しつづけたキリスト教団を生み出すことはできなかったでしょう。
でもキリスト教団内部でもこれは秘儀とされていましたから、イエスの復活と象徴的な聖餐の儀式が、表面的には直接結び付けられずに行われたのです。私の仮説的解釈が間違っていて、イエスに対する聖餐が歴史的事実としてなかったり、歴史的事実としてあったことにしたことがなかったりしますと、本当にイエスが身体的にも復活したと信仰するしかなくなりますから、私の立場は、キリスト者に極めて近いところにいることになります。その意味で決して冒涜なんかじゃないのです。
もし聖餐が歴史的事実であるという仮説が冒涜なら、聖餐を象徴的行為として二千年間も続けてきたキリスト者がどうしてキリスト教を冒涜していなかったといえるでしょう。
閻魔・・ウーム、じゃが、お前は本物のキリスト教徒ではないのだから、イエスの弟子がイエスの死体を食べたという指摘は、人肉を食べたという誹謗になるのではないか。
やすい・・人肉を食べること自体は、特別の飢餓状態や宗教的な信念に基づいていれば、一概に猟奇的とは言えません。閻魔様は人肉の味を覚えてしまった犯罪者が、人肉を求めて猟奇的殺人と人食いを繰り返す事態を想定されておられます。そこから人食いがあれば、無条件に非人道的だと見做しているのでしょう。私は決して興味本位でこういう仮説を立てて、キリスト教を猟奇的だと非難しているわけではないのです。全く聖なる行為としての宗教的カニバニズムをキリスト教の成立の原点に見出しているだけです。
閻魔・・それならお前はどうしてそんなに自己嫌悪に陥る必要があるんだ。キリスト教の成立の秘密に関するユニークな仮説を提出出来たのだから、もっと胸を張ればいいのじゃないか。やはりお前はイエスの弟子達がイエスの肉体を貪る姿を想像して、それで戻したのではないのか。
やすいーいいえ決して私は、弟子達の聖餐をおぞましいとは思いません。それは恐らく、天使達の清らかな歌声が聞こえてくるような気持ちで行われたに違いないのですから。私はそれよりも、自分の哲学者としての仕事に不満なのです。私は自分はヘーゲルのような哲学の大樹を打ち立てて、その中にすべての古今東西の思想家の思想を位置づけ、全体として、人類統合の時代に相応しい自分の哲学を打ち出したいと願っていたのに、自分がこれまでやってきた仕事でオリジナリティを誇れるものは、マルクスとイエスの「つきもの信仰」の指摘位じゃなかろうかと思うと、思わず反吐が出てしまったのです。