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カスピ海域エネルギー資源の将来―――アゼルバイジャンの視点から 我々がアゼルバイジャンを取り上げるのは同国の資源だけでなく、カスピ海域、特に南部のエネルギー資源に関して同国が持つ重要な役割のためである。目下のところカザフスタンからはロシア経由の搬出が行われている。今後も大きく変わることはないだろう。しかし同国が大幅に輸出を伸ばそうとすればアゼルバイジャン経由になる可能性は無視できない。それに対してトルクメニスタンは搬出路の設定に苦労しており、極端な変化が起こらない限り、予想しうる将来にわたって本格的輸出はアゼルバイジャン経由になる可能性が高い。したがってアゼルバイジャンが石油輸出国として自立できなければ、ロシア・イランをのぞいたカスピ海域全体が沈むことになる。その意味でアゼルバイジャンは同地区全体の鍵となる。 1.概観 (1)トポグラフィー アゼルバイジャンはアルメニア、グルジアとともにコーカサス地方にある。陸上の国境線の長さは2013km、面積は86600平方キロで我が国の北海道より少し大きい。周囲をアルメニア(国境線は787km)、イラン(611km)、グルジア(322km)、ロシア(284km)、トルコ(9km)に囲まれており、東側に位置するカスピ海の海岸線は約800kmになる。全体として乾燥ステップ地帯だが、世界に13ある気候帯のうち9種類が存在する変化に富んだ面もある。 カスピ海に面してクズ・アラド低地が広がっておりその大部分は海面下にある。この低地の北はコーカサス山脈、西はカラバハ高地にさえぎられている。 首都のバクーはカスピ海岸のほぼ中央部にあるアブシェロン半島の付け根に位置する。 (2) デモグラフィー アゼルバイジャンは1999年に国勢調査を行った。その最終結果は入手できなかったが、推定総人口は約800万人で人口増加率は1%と見られる。民族的にはアゼル人が93%である。少数民族で比較的多いのはダゲスタン人、ロシア人、アルメニア人などだがいずれも数%を出ない。その点多民族国家を運命づけられている中央アジア諸国に比べると国民国家形成は比較的容易であると思われる。都市人口は54%である。 宗教的には93.4%がムスリムであるが、憲法で世俗国家と規定されている。主としてイランの援助でモスク建設、再建が進んでいるが、国民の宗教性は高くない。その点でもイスラム原理主義が民族問題と絡んで将来一定の影響力を持つかもしれない中央アジア諸国とはことなり、今後ともイスラムが主調となる可能性は低いものと思われる。 (3) 歴史 アゼルバイジャンは紀元前12世紀のマンナ朝以来断続的に一体性を保持した。紀元後は中部、南部のゾロアスター教、北部のキリスト教に分裂したが、ササン朝ペルシャのあと8世紀以降はイスラムの影響を強く受けた。その後アラブ、モンゴル、ペルシャ、オスマン・トルコ、ロシア、ソ連の支配下にあり、独立することはなかった。例外は16世紀から18世紀までのアゼルバイジャン王朝であるが、ペルシャに吸収された。 19世紀以降トルコ、ペルシャに対する民族独立運動が活発化したが、ロシア対ペルシャ、ロシア対トルコの競合地ともなった。1828年にロシアとペルシャがアゼルバイジャンを分割したあとは、北部がロシア領、南部がペルシャ領となり、そのときの国境が現在まで続いている。この分割の結果、現在2000万人のアゼルバイジャン人がイランに居住している。しかし800万人と少数派のアゼルバイジャン人の側にはイランの同じ民族に対する一体感は弱い。一つには独立後に進出を企てたイランの原理主義政権に対する反感もあり、ナゴルノ・カラバハ紛争時イランがアルメニアとの友好関係を保ったことにもよっている。一方イラン国籍のアゼルバイジャン人側には北部に対するある種の憧憬があり、反イランの民族自決を目指す運動の存在も伝えられる。現在のハタミ・イラン大統領による自由化が失敗して再度原理主義が力を得た場合、そうした傾向が強化される可能性はある。しかしアゼルバイジャンから有効な援助を得られるかどうかは疑問視される。 1918年5月28日、アゼルバイジャンは独立を宣言してイスラムでは最初の世俗的国家となった。しかし1920年4月に赤軍に支配され、1922年ソ連の一共和国となって独立を失った。1991年10月18日、ソ連が瓦解するとともに1918年に独立した短命のアゼルバイジャン民主共和国の復興として独立が宣言された。 ソ連時代末期の80年代末、ナゴルノ・カラバハ在住の少数民族アルメニア人による分離運動が起きた。ソ連崩壊後はロシアの援助を受けたアルメニアによるアゼルバイジャン侵攻が続き、国土の20%を失って約150万人の難民が生まれた。この難民がアゼルバイジャンの経済と社会的安定にとって大きなチャレンジとなっている。停戦後アルメニアは同地への入植を開始しており、解決は一層困難となった。しかし後述するカスピ海域のエネルギー資源の搬出問題をてこに和平の動きがないわけではない。1999年末のダボス会議では両国首脳による非公式ながらはじめての会談も実現した。 ナゴルノ・カラバハ紛争を契機に結成されたアゼルバイジャン民族戦線の中心人物アブルファズ・エルチベイが1992年6月の選挙で初代大統領に選出された。民族戦線の主調は民族自決による独立・領土保全、トルコ民族諸国家の協力関係樹立であった。しかしエルチベイ大統領は国内の争乱、経済不振、ナゴルノ・カラバハの敗戦の責任をとらされる形で1993年6月に引退し、政権をハイダル・アリエフ現大統領に譲った。 (3)政府 @国内政治 現行のアゼルバイジャン共和国憲法は1995年11月の国民投票によって制定された。同憲法は三権の分立、政教分離をふくむ。一院制議会(ミリ・メジュリス)、大統領の任期はともに5年である。大統領は議会の承認を得て首相を任命するが、閣僚任命権は首相でなく、大統領にある。 アリエフ大統領は1995年10月に大統領に選出され、5年後の1998年に再選された。1995年の議会選挙ではアリエフ大統領の設立した新アゼルバイジャン党が大多数を占めた。1992年の政党法は分離主義政党を禁止しており、宗教者が政党党員になることを許さない。また同法は大統領が政党メンバーになることも禁止しているが、アリエフ大統領の新アゼルバイジャン党に対する影響力は絶対である。 1995年には2回のクーデター未遂事件が起きた。その一つはエチベイ前大統領派によるものであり、もう一つは特別警察隊(クーデター未遂後廃止)によるものだったが、事件後に行われた議会選挙の結果もあって政局、治安はともに安定した。現在アリエフ大統領を脅かす勢力はほとんど存在しない。アリエフは1998年の大統領選挙で90%を得票したと伝えられるが、依然として解決しないナゴルノ・カラバハ問題、強権主義、政権の腐敗、ネポティズム、経済不振(後述の“世紀の契約”でふくらんだ希望が充足されないことから来るフラストレーション)などから選挙が公正に行われたとは考えにくい。しかし現在のところアリエフ以外の選択肢が存在しないため、安定している。 A外交政策 アゼルバイジャンは1993年9月に結成されたCISに加盟したが、ナゴルノ・カラバハ問題があって関係はギクシャクしている。1994年5月にロシアなどOSCEが仲介した停戦協定はおおむね守られており、わずかながらも解決の可能性が出てきた。 独立以来もっとも近い関係にあるのはトルコである。トルコとは言語、宗教、文化、慣習などが近似している。トルコはアゼルバイジャンが独立した際に最初に同国を承認した。また中東の大国であるトルコはロシアに対するカウンターバランスとしても重要視されており、経済的関係も独立以来一貫して続いている。 トルコのバックにはアメリカが存在する。1999年末にアメリカの主導で決定された地中海岸のセイハンへのパイプライン構想はそれを証明しよう。アリエフは1997、1999年と2度にわたって訪米している。 イランは独立直後に同国内のアゼルバイジャン人の同胞意識、ソ連時代に禁止されてかなりの程度に失われていたイスラム復興を武器にアゼルバイジャンに対する進出を計ったが、成功しなかった。現在のところイランの影響力は限定されたものにとどまっている。 (4) 経済 ソ連時代には石油、天然ガスの生産に特化された経済であった。そのためソ連崩壊直後には他のCIS諸国同様深刻な経済危機に見舞われた。1994年のGDPは前年比で▲22%となっている。最低となった1995年のGDPは崩壊前の1991年に比べて▲61.7%まで落ち込んだ。鉱工業だけを見ると1995年▲70.2%、1996年▲72.2%、1997年▲72.1%、1998年▲71.5%、1999年▲70.5%であり、底を打った感じはありながらも、後述する石油産業の現状から見ると早急で大幅な回復は難しい。 3500社を数えるアゼルバイジャンの工業はバクー(エネルギー関係、軽工業)、スムガイト(化学工業、石油化学、紡績、アルミニウム工業)、ガンジャ(アルミニウム、紡績、機械、金属)の三都市に集中している。特にバクーにはアゼルバイジャンの経済活動全体の約70%が集中している。 労働人口の32%を擁する農業の生産低下も深刻である。主要生産物の一つ、タバコを見ると作付け面積は1991年の161000haから1999年の44000と4分の1強に減少しているが、収穫は57300トンから11600トンと5分の1になっている。特に1993年から1994年の落ち込みはひどく、作付け面積(15900ha→10600ha)の減少に対して収穫は44900トンから21000トンに半減している。これまで農業は主として国内向けであったが、耕作の近代化と食品工業の導入により、輸出産業になる可能性はある。主な輸出先は現在も細々と輸出しているロシアになろう。 化学工業、特に石油化学工業のプラントは旧式化しており、競争力はない。 1998年の国内総生産は前年比で10%の延びを示し(3.に触れるジャッフィー、マニングは、1992年から1997年まで毎年平均12.4%のマイナス成長だったとしている)40億ドルとなったが、一人あたりは約500ドルの水準にとどまっている。1999年1月の平均給与は43.5ドルである。公式の失業率は0.5%だが、実際にはナゴルノ・カラバハ難民をふくめて15%から20%に達するものと見られる。 1998年の貿易総額は16.683億ドルで前年比で6.8%延びている。うち輸出は6.06億ドルで、輸入は10.77億ドルである。輸出のかなりの部分は石油と天然ガスで、輸入は食料、機械、金属製品などである。 海外からの投資は比較的盛んで1998年には14.72億ドルに達した。うち60.1%は石油関係で占められる。 2.エネルギー資源 (1) 石油資源の歴史 アゼルバイジャンの首都バクーは石油業界では歴史的な名前だ。近代に入ってからの原油の発見は前世紀はじめにさかのぼるが、存在自身は紀元前から知られていた。地上まで昇ってきたガスが自然に発火した現象が光の神アフラ・マスダと闇の神アーリマンの二重支配を根幹とするゾロアスター教を生み出したのだろう。近代に入ってから開発された最古の油田バルハネではワイルド・キャットとよばれるポンプが上下して今でも細々と石油をくみ出している。そのそばには再建されたゾロアスターの神殿が依然として火を燃やしている。 油田の開発が始まったのは19世紀初めのことだが、世界的に大きな意味を持つのは1873年にノーベル家のブラック・シープ、ロバートが偶然の結果で精油所を買ってからのことである。ノーベル家はロスチャイルド家の助けもあって黒海まで鉄道を引いてバクー産原油を市場につなげた。それを後のシェル石油が当時完成したばかりのスエズ運河を通じてアジア・マーケットに流すことで、それまで世界市場を独占していたアメリカの牙城を脅かすことになる。 今世紀の初め、ヨシフ・ジュガシビリがバクーの石油労働者たちの労働運動を指導してボルシェビキの中で昇進の第一歩を踏み出した。彼は後にスターリンと改名することになる。バクー油田は1941年から45年にかけてはソ連全体の63%を生産し、第2次世界大戦を裏から支えた。さらに戦後はこの石油が東側諸国の結束を固める手段となった。ソ連はバクー油田が疲れ切ったとき崩壊した。崩壊とともに新生アゼルバイジャンに希望が生まれたのは皮肉である。 (2)“世紀の契約” アゼルバイジャンの転機は1994年9月20日に8カ国(英、米、日本、ノルウェー、ロシア、サウジアラビア、トルコ、アゼルバイジャン)11社からなるコンソーシアムAIOC(Azerbaijan International Operating Company)との30年にわたる権益契約を結んだときになる。コンソーシアムの参加者が多いのは有望視されていたが実績のない開発に備えた危険分散のためである。鉱区はバクー東沖約120キロにあるアゼリ、シラグ、グネシュリと3つある油田で、46億バレルの原油、990億立米の天然ガス(当面大量搬出の手段がないガスは無料でアゼルバイジャンに提供される)の埋蔵量が見込まれた。最終投資額は100億ドル、生産ピーク時には80万から100万BDになるものと見られた。 開発は鉱区中央にあるシラグから始まり、1997年11月に生産を開始した。アゼルバイジャンがこれを記念して祝日としたほどにこの成功は同国にとって大きなものだと考えられた。現在までの投資額は25億ドルに上る。現在の産出量は10万BDであるが、推定可採埋蔵量は当初の見込みを上回り、生産を開始した後では57億バレルと評価されている。バクー南方70キロのサンガチャルにターミナルが建設され、ここからパイプラインに送られている。 このコンソーシアムにおけるSOCAR(State Oil Company of Azerbaijan Republic)のシェアーは10%に過ぎない。資金力のないアゼルバイジャンは開発費用の拠出には参加せず、生産が始まった時点で自社の取り分から支払うことになっていた。 無料の天然ガスが供給されて今後の電力事情に貢献するとともに9億ドルの直接効果があり、3億ドル以上のローカル・マーケットに対する需要があったと見られている。また技術者の訓練、養成も今後の発展には欠かせないものとなろう。すでにAIOCで働く65%の専門職がアゼルバイジャン人になっている。 “世紀の契約“の成功は利権契約を促進し、97年には5件、98年には7件の契約が結ばれた。95年が1件、96年が2件であるのと比較すると大幅な延びを示している。99年には3件しか契約がなかったが、これは主として1999年春までの原油価格の低迷によるものだと考えられる。さらに後述するようにAIOC以後の成功例がないことにも起因するのかもしれない。 (3) 埋蔵量 カスピ海域の石油資源の埋蔵量に関しては種々の数字が確たる根拠もなく飛び交っている。当初は2000億バレルと予測され、“第2の中東”でないまでも“第2の北海”であるのは確実であるとみられた。その一方では最近になって300−400億バレルと極端に低い数字も提示されている。 我々に確実に分かっているのは伊藤忠が3.925%参加したAIOCが成功して当初予測より巨大な埋蔵量が“確認”されたことであり、CIPCOや、やはり伊藤忠が20%参加したNAOCなどいくつかのコンソーシアムの試掘が失敗して活動を停止したこと、2000年春には三井物産が15%参加したクルダシ鉱区の試掘結果が明らかになることである。成功したAIOCは1999年春までの原油価格の下落に対抗するためにコストダウンを計った結果、現在では1バレルあたり約11ドルで生産しており、現在の高値が続く限り伊藤忠にとってはNAOCの失敗を考慮に入れても成功した投資と考えられることだ。 (4)“湖vs.海”論争 エネルギー資源が発見されて以来、カスピ海が海であるか、湖であるのかの論争が起こり、近い将来に決着がつく可能性は全くない。海であれば領海の考え方が適用されてそれぞれの国の海岸線にしたがってカスピ海資源が分割されるが、湖の場合は沿岸5カ国の共有財産になる。したがって有望な資源があると考えられるアゼルバイジャン、トルクメニスタン、カザフスタンは海説を主張し、ロシアとイランが湖説を唱えている。現実の生産が10万BDにすぎない現在は論争も下火だが、セイハン・ルートやトルクメニスタン・アゼルバイジャンの海底パイプラインが完成して生産が本格化したら論争が再燃するのは明らかである。それぞれの将来を決定するだけに簡単に決着する問題ではないし、ロシアが加わっているだけに関係諸国が納得する有効な仲介者が現れる可能性も高くはない。 またともに海説を主張しているアゼルバイジャンとトルクメニスタンの間でもどこに線を引くかで一致はしていない。AIOC鉱区の南東に有望な油田があるが、両国間で争っているために探査、開発はまったく手つかずになっている。 (5)パイプライン カスピ海岸のエネルギー資源は19世紀に本格的な開発が始まって以来、搬出が最大のネックであったが、その事情は現在も変わっていない。近隣に消費地がないためにパイプラインによって海に搬出し、そこからタンカーで消費地に運ぶことになる。現在までのところ以下の@,Aに示す二本のパイプラインが稼働しているが、両方合わせても搬出量は20万BDを少し上回る程度であり、今後生産が本格的になれば足りない(ただし@のノーザン・ラインはチェチェンを通過しているために稼働していない。しかし2000年5月にはチェチェンを迂回するバイパス工事が完成する予定である)。そのためにBに示すセイハン・ラインが登場した。 そのほかにアフガニスタン、パキスタン経由でインド洋に出す案、イラン経由でペルシャ湾に出す案などがあるが、いずれも政治的理由からアフガニスタン・ルートは絶望的であり、イラン・ルートも近い将来における実現の可能性は低い。2000年はじめの総選挙もふくめてイランの変化は顕著であり、大きな政策転換が始まっていると思われるが、アメリカは前年末にOSCEを通じてセイハン・ルートをバックアップしたため、巨額の投資を必要とするパイプライン・ルートの変更は考えにくい。可能性があるとすれば、建設費総額が40億ドルに上ると見られるセイハン・ルートの不経済性、クルド人による反政府運動の活発化などの理由からパイプライン建設が不可能になる場合であろう。 純粋に経済的観点から見れば、イラン・ルートがもっとも可能性が高い。@,Aの出口は黒海であり、Bは地中海に出ることから一義的な消費地はヨーロッパになるのに対して、イラン・ルートの場合には今後消費量が大幅に増加すると考えられるアジアのマーケットが開けるからである。またイランの場合には主要生産地が南部で、精製設備、国内消費が北部に偏っていることから、カスピ海産原油とのスワップの可能性もある。当然その場合の搬送コストはさらに低下する。 中国はカザフスタンを中心に石油の利権を入手している。しかし中央アジアから中国へのパイプラインは建設費が巨額に上り、中国が独力で出来るプロジェクトとは考えにくい。たぶん中央アジアのエネルギー資源との関連で内陸部の工業化構想が発表されているが、その経済性は疑問視せざるを得ない。 @ ノーザン・ライン バクーから北上しグロズニーを経由して黒海のノボロシスクに出る全長1400キロのパイプラインである。ソ連時代から使用されていたものだが、第1次チェチェン戦争で使用不能になった。1997年10月からアゼルバイジャンの石油輸送が始まり、1998年1月からはAIOC産石油の一部がこのルートを使うようになった。2000年5月の完成を目指して政情が安定しないチェチェン地区のバイパス工事が行われている。一番細い部分の口径は21インチで輸送能力は最大115000BDである。 A ウェスタン・ライン バクーから西に向かいグルジアの黒海岸スプサに至る。AIOCの生産開始が弾みとなって建設された。全長830キロで、口径は21インチであり、輸送能力は最大115000BDである。1998年12月からAIOC産石油がほぼ輸送能力いっぱいまで使用している。 B セイハン・ライン アゼルバイジャンがMEP(Main Export Line)とよんで期待しているセイハン・ルートはカスピ海域エネルギー資源全体の生死を決定する重要性を持っている。アゼルバイジャンからグルジアを経てトルコの地中海岸にあるセイハンまでは約2000キロであり、口径は42インチを予定している。最大輸送能力は約50BDになる。 トルコのBOTASH社の試算では建設費は24−27億ドルであるが、西側では約40億ドルに上るものと見られている。またセイハンはイラクからのパイプラインのターミナルになっていたが、1991年の湾岸戦争以来10年間にわたって閉鎖されており、かなり大規模な補修が必要になる。 これといった産業のないグルジアは20セント/バレルの通行料を要求しているほか、アゼルバイジャンはパイプライン・コンソーシアムの50.1%を要求するなど問題は山積しており、後述する油価との関係から見た経済性をのぞいても2004年の完成予定は疑問視されている。 (6)天然ガス 現在のところは原油同様天然ガスの埋蔵量も想像の域を出ない。しかし原油埋蔵量が商業的生産の最低限とされる1.5億バレルにはるかに満たない6000万バレルだったために放棄されたNAOC鉱区でもかなりの埋蔵量に及ぶ天然ガスが認められた。したがってカスピ海域全体では相当量の埋蔵量があるものと想像される。 しかし天然ガスには石油以上の問題がある。つまり石油同様の搬出問題と近くに消費地が存在しないからだ。セイハン・ルートが完成してその経済性が証明されればそれに並行してドライ・ガスのパイプライン建設が始まるかもしれない。しかしロシア、北アフリカ、北海からドライ・ガスのままで消費地に搬出することが可能なヨーロッパのような消費地は周辺に存在しない。セイハンでLNGにしてタンカーで運び出さなければならないためにコストがかかり、他の産出地に対する競争力に問題がある。 カスピ海域の天然ガス開発・利用は自国での消費をのぞいて、石油資源のそれに比較してもかなり遅れることが予想される。 3.将来の油価予測から見た暫定的結論 フォーリン・アフェアーズは2000年最初の号にジャッフィーとマニングの”安い石油の世界のショック”を掲載した。彼らは、オイル・サンド、オイル・シェイルなどが将来の技術発展で使用可能になれば埋蔵量は現在の可採埋蔵量1兆バレル強の4倍にもなるから、石油の不足はない、現在の高値は一時的なものであり今後はグラット基調が続く、そのため産油諸国の矛盾が内戦をもたらすことに起因する第三次オイルショックがあるかもしれないと主張する。おまけに彼らによると、需要の伸びはペースを落とし、油田の探索、生産の技術が進んだためにコストが落ちたという。この考え方は正反対の方向を予測する2つの流れの一方を代表しており、原油高値時代を予測し、第3次オイルショックの必然性を説く流れも依然として存在する。ジャッフィーとマニングが指摘するようにコリン・キャンベルはアジア・太平洋地区の経済発展が大幅な需要増を喚起し、新油田発見のペースが落ちることと相まって2003年までには生産がピークを迎え、それ以降は石油時代の終わりが始まると予測している。 それはちょうどジェームズ・エイキンズが1973年、第一次オイルショック直前の同じフォーリン・アフェアーズに「石油危機―今度こそ狼が来た」を発表したときに競合するフォーリン・ポリシー誌には1972−73年冬号でM.A.エイデルマンの「石油不足は本物かーOPEC税徴収官としての石油会社」が発表され、オイルショックの可能性を全面的に否定したのに酷似していると言えるだろう。我々は1973年にそうであったように、ジャッフィーとマニングの予測が正しいのかどうかを判定する材料を持たない。 カスピ海域のエネルギー資源の将来がどうなるかは2つの要素による。 一つはもちろん今後の油価だ。非常に幸運だったAIOCの生産コストが11ドルであるなら、今後開発されるであろう油田の生産コストはそれより高くなるだろうと予想される。アゼルバイジャンはインフラ整備がほとんどなされておらず、付帯設備への投資は不可欠であり、それがまたコストを上げる要素ともなる。したがって近い将来に現在の油価が大きく崩れるようなことがあれば、投資、開発は一挙に冷え込む可能性が高い。その場合、いわば“画餅”とも言うべき、まだ実現していないエネルギー資源に国家の将来を全面的に託しているアゼルバイジャンの将来は危ういと言わねばならない。それはジャッフィーとマニングが予想しているように内戦を誘発するかもしれない。その場合、中央アジア諸国と比べて多民族性が低いとは言え、望まず、努力もしなかった独立後間もない未成熟の国家にとっては深刻な問題となりかねない。現在までのところイスラム原理主義の影響は最小限にとどまってはいるものの、高度の社会・経済的不安が起きた場合の予測は不可能である。またアゼルバイジャンの不安定化はトルクメニスタンのエネルギー資源搬出にも直接影響を与える。 より近い将来に油価が下落した場合、2004年に完成が予定されるセイハン・ルート・パイプライン建設の経済性がさらに損なわれる。搬出ルートが出来なければさらに開発が進まず、開発が遅れれば搬出ルートの必要性が低くなるという状況に落ち込む可能性は無視できない。 |