クリントン米大統領はオールブライト国務長官にG8宮崎外相会議を欠席させ、自分も沖縄サミットに遅参しそうになった。すべてはキャンプ・デービッドで開いた中東和平交渉のためである。この交渉は1991年10月にマドリードで中東包括和平会議が開かれて以来初めてエルサレム、難民、領土など核心の問題にアタックするものとなった。しかしアメリカの最大限の圧力にも関わらず交渉は失敗し、最終合意期限の9月13日を目前にしている。クリントンは”中東和平の完成者”として歴史に入り損ねたのかもしれない。
1993年にパレスチナ・イスラエル間で調印されたオスロ合意はその後のパレスチナ暫定自治、ヨルダン・イスラエル平和条約調印への道を開いたものの、基本的には”一致できないものは先送り”をモードゥス・オペランディ(作業原理)とした。それ以後キャンプ・デービッド交渉までの7年間ももっぱら”先送り”をモットーとして進んできた。基本的には暫定自治が開始され、イスラエルとパレスチナの間に”正常な”関係が確立されていく中で信頼関係が醸成されて当時は解決不能だった問題に光が見えるかもしれないという考え方があった。1993年、パレスチナの唯一合法の代表であるPLO(パレスチナ解放機構)は破産の危機に瀕していた。1990〜91年の湾岸危機でイラクを支持したために国際社会から村八分にされ、サウジアラビア、クウェートなど財政的にPLOを支えてくれていた湾岸産油諸国からの援助は途絶えた。何かが起こらなければどうにもならない状況に追い込まれていたのである。当時チュニスにいたPLO幹部の自宅では電話が料金不払いで切られていたという。
一方のイスラエルにも焦りがあった。1992年に右派リクードから政権を奪い返したラビン首相はとりあえずヨルダンとの和平を目指す。しかしパレスチナとの交渉に進展がなければヨルダンは和平に応じないという状況が即座に理解された。ヨルダンは人口の6割を越えるパレスチナ人口を抱えており、”単独和平”と見られる行動には出られなかったためである。しかも北隣のシリアは全員(シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ)一致の原則でイスラエルに対する交渉力を獲得しようとしていた。そのためヨルダンの抜け駆けを許さない姿勢を崩さなかった。その袋小路を破るためにはパレスチナとの交渉でのブレーク・スルーがどうしても必要だった。
現在になっていろいろに批判されるオスロ合意も当時はそれなりの合理性を持っていたのである。ヨルダンはオスロ合意の翌日にイスラエルとの原則合意(DOP)に調印し、暫定自治開始直後に平和条約に調印したことはその合理性を示している。つまりヨルダン、イスラエルの両国はオスロ合意の前に一致に達していたのであり、オスロ合意は両国間の一致を公表するタイミングを与えただけであり、その前提となるものではなかった。
しかしその後のラビン暗殺の結果行われた総選挙で再度政権が右派リクードのネタニヤフ首相にわたったことで齟齬を来す。信頼醸成が全くなされないまま”先送り”原理から抜け出すことなしに無駄な時間が過ごされてしまった。オスロ2,ワイ・リバー合意などネタニヤフ政権下で結ばれた合意は単体として見たときにはそれなりに評価できるのだが、オスロ合意が期待した変化の方向を示すものではなく、単にオスロ合意を継ぎ足していったのにすぎない。早晩行き詰まるのは目に見えていた。
信頼醸成の欠如は双方の関係のあらゆる面に現れている。中長期的に見てもパレスチナの経済はイスラエル経済に従属する以外に現実的な選択肢はない。ところがその関係が崩壊しつつある。1987年暮れに始まったパレスチナ人による反イスラエル運動インティファーダ以前には、建築労働者といえばパレスチナ人に決まったものだった。ところがそれ以前から噂になっていたサボタージュがインティファーダ以後表面化した。下水パイプがセメントで一部ふさがっていて築後数年で詰まるとか、床の中に埋め込まれているガスパイプが少しずれておりしばらくたってからにおいがしてくるなどの”事件”である。これが単なるずさんな工事だったのか、パレスチナ人労働者による意図的なサボタージュであるのかは分からない。しかし農業労働者による雇い主の殺害事件などが続いたことから、サボタージュであるというのが一般の理解になった。その結果パレスチナ人労働者の多くは外国からの労働力輸入で置き換えられた。
建築労働は折からの東西冷戦構造で深刻な経済危機に陥った旧ユーゴスラビア、ルーマニアなどの東ヨーロッパ、トルコなどからの労働者の流入が始まった。また農業労働者はタイ、老齢者の在宅介護などの家内労働は主としてフィリピンから労働者が輸入された。このため建築現場などはバベルの塔さながらの状況になった。同じ頃に旧ソ連からユダヤ人の大量移民があり、新移民がこれら3K労働についた時期もあるが、ごく短期間に終わっている。
二つの民族を物理的に分離させようとする努力の一環として、主としてガザとの”国境”地区に工業団地を作り、イスラエルの資本、技術とパレスチナ人の労働力をドッキングさせようとする試みも始められたが、必ずしも成功していない。”税関”で下請けの物資が受け渡しされているが、パレスチナ人による出稼ぎ労働者の激減はパレスチナ経済に大きな影響を与えている。99年1月と2000年4月の世論調査の結果を比較してみる。失業率は前者で25%、後者で17%と状況は改善されているように見える。しかし和平後の経済状況がよくなったと見るものは前者で23%、後者は8.6%と激減しており、悪くなったと見るものは前者で39%、後者で53.1%となっている。状況は地理的条件から物理的分離のしやすいガザの方が悪い。出稼ぎ枠の縮小のためにパレスチナ内でそれなりに職を見つけたものの、経済的状況は悪くなっているという事情を示しているのだろう。
物理的分離は摩擦を軽減し、テロを減らした。しかし接触を断ったことで信頼醸成はまったく進まなくなった。暫定自治開始と数次にわたる自治区域拡大はパレスチナ人にとっては依然として不満足なものである。しかし一方ですでにパレスチナ人の90%以上は日常生活の中でイスラエル人、特に軍・警察を見ないですむようになったのも事実である。この変化が与えた影響は大きい。キャンプ・デービッド交渉失敗の直後、しばらく収まっているパレスチナのテロが再発し、インティファーダが再開するおそれがあるとの観測があった。しかし物理的分離が成功したことですでに武力闘争再発のインフラは失われており、そうした観測には根拠がない。暫定自治開始以前、パレスチナ人の怒りは必然的にイスラエルに向けられたが、現在では暫定自治政府、特にその大統領であるアラファトに向いている。暫定自治開始以来アラファト大統領の支持は一貫して低下してきたが、今年4月の世論調査では39%とこれまで最低になっている。事実上の独裁国家であるパレスチナでこの支持率は本当に低い。政党支持にしてもアラファト大統領の率いるファタハ支持は35%にすぎず、支持政党なしのいわゆる無党派層が39%に膨れ上がっている。一方これまで対イスラエル武装闘争を指導してきたハマス(13%)、イスラミック・ジハード(4%)も支持を増やしているわけではない。
しかもキャンプ・デービッド交渉が決裂した7月25日の5日後の30日にはイスラエルとパレスチナの閣僚級交渉が再開されており、さらに次の首脳交渉を目指しての接触が始まっている。イスラエル・パレスチナ交渉で“決裂”がなくなってしまった点に注目しなければならない。その意味ではシリア・イスラエル交渉にも”決裂”はなく、せいぜいが中断にすぎない。1977年に故サダトエジプト大統領がイスラエルを訪問して以来、中東紛争は終結したのである。特に80年代末に東西冷戦構造が崩壊し、1991年に湾岸戦争が起きて以来、イスラエルを一方の核とする戦争が起きる可能性は極端に低くなってしまった。さらにその過程でパレスチナは完全に孤立してしまったのである。昨年改正されて対イスラエル条項を削減したパレスチナ憲章(削減後の新しい憲章は発表されていない)を見ると、パレスチナ民族解放運動が”アラブは一つ”というパン・アラビズムを基礎としているのが目に付く。そのパン・アラビズムが湾岸戦争で名実ともに消滅してしまった現状では「パレスチナ問題が中東紛争の核」と言われた時代ははるかに過ぎ去ってしまった。したがってたとえパレスチナ・イスラエル交渉が決裂しても中東のほかのアラブ諸国に影響を与えることは出来ない。それどころかパレスチナと同様に交渉が完結していないシリアですら今回のキャンプ・デービッド交渉の失敗に対して見るべき反応は示していない。
今回の交渉で中心的な問題となったと伝えられるのがエルサレムである。エルサレム問題の特徴と解決の困難さはその普遍性と不合理性にある。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教をその祖としており、エルサレムはその3つの宗教で象徴的な、しかし揺るぎない重要な位置を占めている。近年人口が急増した現在でも高々50数万人の小さな町で観光以外は見るべき産業もないエルサレムがこれほど注目されるのはその普遍性にある。紀元前1000年頃にダビデが統一王国を作った際に異民族の都市国家だったエルサレムを占領して新しい首都としたのが歴史の中にこの町が現れた最初の例の一つである。ダビデ王は後の歴史の中で理想の王となった。またその子ソロモンがエルサレムに神殿を建てたことでエルサレムの象徴性はユダヤ人にとって確立されたものとなった。イエスはメシア(救世主)となるためにダビデの子孫として位置づけられる。さらにイエスがエルサレムで十字架にかかり、復活するという神学が確立する中で、その舞台となったエルサレムはキリスト教にあっても揺るぎない地位を占めた。このエルサレムの象徴性がなければ後の十字軍運動は理解できなくなる。
さらにエルサレムは第三の一神教であるイスラム教にとっても重要な町となった。コーランの中に出てくる唯一の奇跡物語、夜の旅の章の冒頭に次のように記されている。「(アッラーは)その僕(モハメット)を連れて夜(空)を逝き、聖なる礼拝堂(メッカの神殿)から、かの、我ら(アッラー)にあたりを浄められた遠隔の礼拝堂(エルサレムの神殿)まで旅して、我らの神兆を目のあたり拝ませようとし給うた。」(井筒俊彦訳)もちろんムハンマドの時代には神殿は存在しておらずごく小規模のキリスト教会があったにすぎない。イスラム共同体がエルサレムに侵攻したときになって作られたモスクがエルアクサ(遠隔)と名付けられたのはそのためである。またムハンマドが礼拝の方向を決定したとき、当初はそれが現在のメッカではなくエルサレムであったのもその象徴性が宗教を越えて浸透していることを示すものだろう。その後の歴史を動かした大きな力がキリスト教とイスラム教であったためにエルサレムの象徴性は普遍的なものとなった。
しかしそれが宗教に根ざした象徴性であるだけに本質的に不合理なものであらざるを得ない。ヨーロッパにおけるようにイスラエルでも非宗教化が進んでおり、イスラエル人の多くにとって宗教はなんの意味をも持っていないし、2000年前まで神殿のあったエルサレム旧市には主義として行かないと言う人も少なくない。それでもなおエルサレム割譲を提案する政府はその場で倒れるだろう。単に東エルサレムを議題にし、同地をパレスチナと共同統治するというアメリカ案に賛成したというだけでバラク首相の率いる与党連合はバラバラになり、クネセト(イスラエル議会)定員120人のうち40人と極端な少数与党に転落してしまった。イスラエルほどではないがパレスチナにあっても非宗教化は都市を中心にして進んでいる。しかしイスラム全体にとっての象徴であるエルサレムをあきらめることは不可能である。
エルサレム問題に比べればパレスチナ難民の帰還・補償問題、国境確定問題は合理的であり、交渉という場に乗りやすい。しかしエルサレム問題を解決することなしにパレスチナ・イスラエルの最終合意はあり得ない。それに比較するとシリア・イスラエル間で懸案になっている安全保障、水資源もまた合理的な問題であり、解決は可能だ。したがってパレスチナ問題はシリア・イスラエル和平が達成された後も長く続くだろう。そしてパレスチナはアラブ世界から見放されて圧倒的に国力の違うイスラエルとの交渉を続けなければならない。9月13日にパレスチナ国家独立が一方的に宣言されるかどうかが次の議題となろう。アラファト大統領はアラブ世界では9月13日が期限と発言しており、外の世界には延期する可能性を示唆している。しかしたとえ一方的独立が宣言されても問題の解決にならないのは当然であり、イスラエル側はさらにパレスチナに対する圧力を強化するだろう。しかしそれでもなお”決裂”は起こらず、多少違った形の”継続”になる可能性は高い。