ハマスに見る原理主義運動の活動様態とその範囲

 

1.     目的と範囲

 

本リポートはパレスチナ民族解放運動の中でもハマスを扱う。ハマスとは「Harakat Muqawama Islamiyya(イスラム抵抗運動)」のアクロニムであり、それ自身「XXX」という意味を持つところからその名で知られるようになった。1987年12月15日に結成された。その活動史の中から中東における原理主義運動、ことにテロ行為と見なされうるものがなにを目標とし、領域的にどこを活動範囲としているかを探るためである。そこからイスラム原理主義集団が、たとえば日本のような遠隔、イスラムから見て関係の薄い地域に対してどのように反応するかを推測してみたい。

 

(1)ハマスを選択したのはいくつかの理由がある。まずハマスはその綱領に見るように、20年代にエジプトでハッサン・バンナが開始したムスリム同胞団の直系に当たることがあげられる。そのためパレスチナにおける運動の中では、その原理主義性を十全に表しているように思われる。パレスチナ、特にガザの原理主義運動はハマスに至るまでに「アル・モラビトゥール」、「イスラ(夜の旅)の地」などの名称を採用している。ハマスの母体はは70年代における社会福祉運動としての活動から始まっており、一時期にはイスラエル政府が、解決の糸口なく対立していたパレスチナ解放機構(PLO)に替わる交渉相手として育成しようとしていた形跡さえ見られる。ハマスは1987年12月のインティファーダ開始以来、武装闘争集団として生まれ変わるが、本来のワクフを中心とする社会福祉活動は中断することなく続けられた。それは武装集団としての生まれ変わりでハマスに先行した、同じパレスチナ内の組織であるイスラム・ジハードと大きく異なる点である。イスラム・ジハードは、インティファーダ開始後いち早く武装闘争を開始してハマス誕生に大きなインパクトを与えたものの、思想的に根が浅かったこと、武装闘争に先立つ活動がほとんどなかったこと、したがって母体となるシンパ集団のサイズがハマスに比較して非常に小さかったことなどから90年代に入る前に息切れしてその活動は事実上終息してしまった。

 

(2)第2に武装闘争を開始したあと、ハマスを支えるシンパ集団が急成長し、ある程度独立の集団を形成したと推測される点が上げられよう。1993年のオスロ合意以前にはガザを中心としてその支持が大きくなり、PLOに替わりうる政治集団と見られた時期がある。こうした特性はイスラム・ジハードはもとより、パレスチナではないが2000年に入っても対イスラエル武装闘争活動を続けている南部レバノンのヒズボラにも見られない。ヒズボラの場合、事実上レバノンを植民地化しているシリアの指導性が強く、独立の武装・政治運動であったことはないし、その可能性も真剣に取り上げられたことはない。

 

(3)第3に一定の制限はあるものの、ハマスの持つ国際性があげられよう。イスラエル情報部は、ハマスが主として2つの方向から資金、武器援助を受けてきたと見ている。一つはサウジアラビアであり、もう一つはイランだと考えられる。このことは1992年12月、イスラエル兵士ニッシーム・トレダノがハマスによって誘拐された直後に一斉逮捕された415人のハマス指導者がイスラエルによってレバノンに追放された際にはっきりした。レバノンはシリアの意向からこれらハマス指導者の国内への吸収を拒否した。その結果彼らは約1年後に帰国が許可されるまで南部レバノンの高地に取り残される結果となった。しかし追放直後には防寒テント、防寒具などを備えたテント村が出現して我々を驚かせた。その際、ある程度の距離をおいた2つのテント村が出来上がり、これがサウジアラビア、イランという2つのスポンサーによる別であると解釈された。しかしそれ以前にも以後にもスポンサー別による分裂の兆しはハマスの行動には見られない。パレスチナ自治政府のアラファト代表によると、ガザ、ヨルダン川西岸における不法銃器の数は26000丁に及ぶと見られる。活動軌跡から見てこの多くがハマスの手にあると見られるが、これだけの量の銃器は西岸、ガザ、イスラエル内から調達することは不可能であり、ここからも国際的ネットワークの存在が推測される。活動のすべてがローカルな輪で閉じている場合には遠隔地における活動の可能性はほとんどないと見られるところからハマスの持つ国際性は重要なポイントであろう。

 

(4)もちろん国際性という点から見るとPLOの活動ははるかに高度なものだった。60年代以降、特に70年代においてPLOをはじめとするパレスチナ解放運動の国際性は民族解放運動の歴史から見ても刮目すべきものがある。資金、武器、活動範囲のすべてにおいてハマスとは比較にならないほどの国際性を持っていた。1972年にPFLPが日本赤軍メンバーをリクルートして起こしたロッド空港事件などはその活動範囲が極東にまで及んでいたことを示す証左である。しかし本リポートは原理主義運動を扱うものであり、世俗的運動はそのスコープをはずれる。またPLOは1993年のオスロ合意で交渉の舞台に乗って以来国際的なテロからは撤退して、活動範囲をイスラエル占領下の西岸、ガザとイスラエル国内に限っているように見える。またそうした限られた範囲におけるテロ活動においても、ある時期には、ハマスに対するグリップをゆるめることによってテロ行為を起こさせる戦術に転換してきた。今後対イスラエル交渉が行き詰まったとしても、PLOの活動が再びテロを復活させ、活動範囲を西岸、ガザ、イスラエル国内の外に広げる可能性は小さいものと考えられる。それよりは従前通りハマスをテロに使う可能性の方が大きい。

 

2.     ハマス綱領

 

ハマス綱領は、活動開始から8ヶ月後の1988年8月18日に公表された。前文、後文のほか5章36条からなる。これは精神的指導者であるアフマド・ヤシンとその側近グループが起草したものと見られるが、生成・決定過程ははっきりしていない。クルアーンの言葉がそこここに引用されており、政治的文書というよりは宗教的性格が非常に強い。したがって最大の特徴はそのイスラム性にある。それに対してPLOのパレスチナ憲章は世俗的・政治的文書であり、当然のことながら改正、廃止の可能性も内蔵している。現にイスラエルとの交渉の結果、憲章の対イスラエル条項が削除された。しかしハマス綱領は、クルアーンが有機的に組み込まれているために改正、廃止の可能性は最初から否定されていると見るべきであろう。

(1)前文

 「アッラーの名において・・・」で始まる前文にはクルアーンの「イムラーン一家の章」109-1119(井筒訳では108【112】)が引かれている。この引用の直後に「イスラエルは、イスラムが(イスラエルの)前駆者たちを消去したようにイスラエルを消去するまで興り、とどまるであろう」と書かれており、引用部分の直前にある「啓典の民」(ユダヤ人)とイスラエルが同定されている。またハマスはアッラーの与える役割を果たすものとして起こったものと規定される。

(2)第一章

2条: ハマスがパレスチナにおけるムスリム同胞団の一翼である。ムスリム同胞団は世界規模の組織であり、現代における最大のイスラム運動である。またハマスは信仰のほか政治、経済、教育、社会、司法、芸術、出版など生活すべてを統べるイスラムを十全に理解するものとして規定される。

5条: ハマスの最終的目標はムハンマドをモデルとし、クルアーンを憲法とするものである。そのためハマスのダイメンションはムスリムのいるところすべてに広がる。(イスラム原理主義国家の希求)

6条; ハマスはパレスチナ全土にアッラーの旗を揚げることをその目標とする。(領土的譲歩の否定)

7条: ハマス運動は普遍的なものである。またシオニストの侵略に対抗するジハード(聖戦)の鎖の一環をなす。その闘いは1936年の闘いにおける殉教者イッズ・アッディン・アルカッサムとその兄弟たち、1948年、1968年以降の闘いにつながるものである。(パレスチナ闘争史との一体化、アルカッサムは後にハマス軍事部門の中でももっとも先鋭的な戦闘部隊の名称となった)

(3)第2章

9条: 現代はイスラムが生活の現実から減退している時期である。したがってハマスの目的はイスラムの回復にある。(イスラム復活)

10章: ハマスはここ(パレスチナ)だけでなく、到達できるところはどこででも真実を実行し、悪を滅ぼす努力を惜しまない。(イスラム本来の国際性)

(4)第3章

11条: パレスチナの地は救いの日までワクフである。どんなアラブ諸国、王、大統領も、それがパレスチナであろうとアラブであろうと、それを否定することは出来ない。

12条: ハマスは民族主義(ワタニーヤ)を信仰の一部であると見なす。最上の民族主義は、イスラムの地に足を踏み入れる敵に対するジハードである。その義務は男女すべてのムスリムに対するものであり、女は夫が反対しても、奴隷は主人が反対してもジハードに参加しなければならない。(イスラムと民族主義の一体化、こうした傾向はすでにバンナに見られる)

13条: いわゆるパレスチナ問題の平和的解決、国際会議などはハマスの信念に反する。パレスチナの地の割譲は信仰の割譲に他ならない。(和平プロセスの否定)

14条: パレスチナ解放の問題は、パレスチナ、アラブ、イスラムという3つのサークルに関係する。パレスチナが第3の聖地であり、ムハンマドが天に昇った地であるからだ。(エルサレム問題の非政治化、宗教化)

15条: (シオニズムをふくむ)帝国主義は十字軍の後継である。

16条: 若い世代にイスラム教育を与えることが必要である。

17条: ムスリムの女性は男性に劣らず解放戦争に重要な役割を果たしている。彼女らは男を産み、指導し、教育する。

19条: 芸術はイスラム的でなければならない。

20条: イスラム社会は連帯の社会である。

(5)第4章

25条: ハマスは他の解放運動が東の共産主義、西の十字軍に対して忠実でないかぎり、それを尊敬し、援助する。

26条: 父、兄弟、親戚、友人をふくむPLOはハマスにもっとも近い。しかしPLOは、宗教的考えとは正反対にある世俗的アイディアを採用した。ハマスは世俗主義を採用することは出来ない。(PLOとのアンビバレントな関係)

27条: イスラエル周辺のアラブ諸国はジハード戦士のためにイスラエル攻撃の道を開くべきである。

31条:  イスラムの下でこそイスラム、キリスト教、ユダヤ教のメンバーが安全に共存できる。

32条: 世界シオニズムと帝国主義勢力はアラブ諸国を次々と対シオニズム戦線から脱落させ、パレスチナ人を孤立させてきた。(エジプトに対する警告、1994年の平和条約調印以来はヨルダンにも適用されよう)

(6)第5章

34章: パレスチナは世界の中心である。

 

3.     ハマスの活動

 

 ハマスはインティファーダが始まった時、イスラム・ジハードに対して闘争の面で出遅れた。その意味では民衆に直接接触した社会福祉活動を行ってきたハマスでさえ完全に偶発的・草の根的に始まったインティファーダを捕らえそこねていたと言えるかもしれない。先行したイスラム・ジハードはガザを中心に若者の人気を集めた。そのため若手が指導者のヤシンにハマスの結成を迫ったと伝えられる。しかし結成後はその動員力、資金力においてイスラム・ジハードとは比較にならないほどの底力を発揮した。しかし双方とも出発はインティファーダ前になる。イスラム・ジハードが結成されたのは1981年、後のハマスになるアフマド・ヤシンのグループは2年後の1983年であった。しかしインティファーダまでの時期にははっきりした闘争集団にはなっておらず、活動の中心は依然として社会福祉活動におかれていた。

 インティファーダは当初、パレスチナ民衆によるイスラエル占領軍に対する投石で始まったため、それが自然発生的なものかどうか、動員されているとすればどの組織によるものかが分からなかった。ハマスの動員力が明らかになったのは90年代に入って民衆運動としてのインティファーダが終息段階に入ってからのことである。その後のストライキ戦術、イスラエル製品不買運動、パレスチナ社会の浄化運動などではハマスの力が大きかったと見られるが、これも必ずしも明らかではない。

ハマスが有名になるのは90年代以降、大衆運動としてのインティファーダの失速が明らかになってからのことである。それには二つの方向があった。一つは原理主義としてムスリムのイスラム離れを牽制した動きである。具体的にはパレスチナ人によるスト破り、麻薬の売人、売春婦に対する制裁などに現れた。80年代末から90年代初めにかけて主としてエルサレムで何回か起きた闇両替商の放火、焼死事件はハマスの犯行であると見られている。特に凄惨を極めたのが売春婦狩りであった。若い女性が多少派手な服装をしただけで売春婦と認定されて殺害されたケースは多い。こうしたリンチ事件の多くはハマスを自称する末端組織が中央とはなんと関係もなく起こしたものと考えられている。犠牲者数は約1000人に上ったものと見られる。中には対イスラエル闘争とはなんの関係もない個人的恨みなどでハマスに密告した例もあるらしい。

しかしハマスが国際的マスコミに大きく登場したのは1993年のオスロ合意以降のことである。2のハマス綱領に見たように同組織が解放しようとしたのはパレスチナ全土であり、その使命は天与のものであってなんらの妥協もありえない。ところがPLOがヨルダン川西岸、ガザだけにパレスチナ領土を限定してその第一段階として1994年から開始した暫定自治はそのハマスの方針に反するもので、大きな危機感を感じたものと思われる。そのため1993年9月のオスロ合意から1995年4月にPLOがハマスとの対立姿勢を対外的にほのめかすようになるまでの2年半におけるハマスの活動は非常に活発なものになる。この間にパレスチナの対イスラエル攻撃は172回に上ったが、そのうちの152回はハマスによるものと見られている。この間に死亡したイスラエル人の数は78人、負傷者は230人に上った。この時期に自殺テロが登場する。自殺テロは元々レバノンのシーア派が1982年に起きたイスラエル軍のレバノン侵攻時に使い始めたもので、大きな被害を出したものとしては平和維持軍として進駐したアメリカ海兵隊、フランス軍部隊に対する攻撃がある。

1995年4月からオスロ合意2(1995年9月調印)に至るまでは比較的平穏だった。この間のテロ事件は73件(死亡者21人、負傷者185人)にすぎない。しかし西岸地区の主要7都市が暫定自治に加わることが決められたオスロ合意2以降はハマスによるテロが急増し、半年間にイスラエル側に死亡者65人、負傷者344人を出した。この間に136件のテロ事件が起きたが、そのほとんどがハマスによるものと見られる。96年1月にハマスの先鋭的戦闘部隊イッズ・アッディン・アルカッサム旅団(名前は「旅団」だが構成メンバーが20-30人以上になったことはないと見られる)の中心的人物で自殺爆弾、時限爆弾の製作者と見られていたヤヒヤ・アヤシュがイスラエルの手によって謀殺される事件が起きた。ハマスはその直後の2月に5回の自殺テロ事件を起こし、イスラエル側に死者59人、負傷者200人を出した。そのため自治政府はアメリカ、イスラエルの圧力を受けて3月にハマスの大量逮捕を行う。その数はパレスチナ側によると600人だが、ニューヨークタイムズ紙は400人、AP通信は400人と見ている。

1996年5月に前年ユダヤ人テロで殺害されたラビン首相の後を受けて総選挙が行われた。選挙直前には大きなテロ事件がハマスによって起こされ、それが右派リクードのネタニヤフ政権を招いたと考えられる。ネタニヤフ政権はパレスチナのテロに対して強硬な姿勢で臨んだが、そのせいかテロ活動は少なかった。これに関しては二つの解釈が可能だ。一つはラビン首相の後継者として和平に積極的なペレス労働党党首が首相になった場合、パレスチナ人の間にも希望が生まれる結果、ハマスが望んでいるイスラエルの抹殺、全パレスチナのイスラム化が難しくなると判断した。したがって交渉に消極的なネタニヤフ首相が誕生したことで目的を果たしたと考えたという解釈だ。もう一つはネタニヤフの強硬政策とあいまって1998年からはイスラエル・パレスチナ臨時自治政府の協力関係ができあがってテロがしにくくなったという解釈も成り立つ(これに関しては5を参照)。

1997年以降の主な事件を以下にあげる。

日付

対象、場所

死者数

負傷者数

方法

犯人の死亡者数

犯行声明

97.03.21

テルアビブのレストラン

3

48

爆弾

1

 

97.05.09

イスラエル軍パトロール

 

 

爆弾

 

 

97.05.12

イスラエル軍パトロール

 

 

爆弾

 

 

97.07.30

エルサレムのマーケット

13

168

爆弾x2

2

ハマス

98.08.20

入植地

1

 

ナイフ

 

 

98.08.20

テルアビブのゴミ箱

 

14

爆弾

 

 

98.09.04

エルサレム中心街

5

?

爆弾x3

3

ハマス

98.10.13

エルサレム郊外

1

1

 

 

98.10.19

ベールシェバの中央バス停

 

59

手榴弾

逮捕

ハマス

98.10.29

入植地のスクールバス

1(護衛兵士)

8

爆弾自動車

1

ハマス 

98.11.06

エルサレムのマーケット

 

20

爆弾自動車

2

ジハード

99.08.08

ヘブロン入植地

 

2

 

ハマス

99.08.10

ベツレヘム

 

2

1

ハマス

99.09.05

テベリア、ハイファ

 

 

爆弾自動車

2、1人逮捕

ハマス

 1998年以降、ハマスの活動は極端に低調になった。上記98.10.19の事件は逮捕された犯人の自白から背後関係のない単独犯であることが判明したにもかかわらず、ハマスは事件直後に犯行声明を発表してヒッチハイクをねらったほどに行動力が低下していた。また99.09.05の事件はいずれもイスラエル国籍パレスチナ人の犯行だった。しかも2台の爆弾自動車に乗った3人のうち1人が直前におりて逮捕されたほか、爆弾自動車は駐車場で爆発しており、死者は運転していたパレスチナ人2人だけだった。もしかするとハマスはガザなどパレスチナ自治区内でのリクルート能力を落としているのかもしれない。この3人はいずれも合法的イスラム団体のメンバーだったが、この事件をのぞいてその団体がテロに関係したことはない。人的資源が枯渇したハマスによって一本釣りされたとの見方が強い。

 ハマスに近いファレスティン・アル・ムスリマ誌は99年4月号で前年の年次報告と総括をしているが、98年には時限爆弾、手榴弾、銃による作戦が多く、自殺テロは1件だけだったと退潮ムードを強調した。またスポークスマンのイブラヒム・ゴシェはヨルダンのアル・ウルドゥン紙(98.10.24)のインタビューに答えて、5月11日にヘブロンで射殺されたアウダッラ兄弟(5の表、「主な対ハマス作戦」参照)の報復が出来ないのはイスラエルとパレスチナ自治政府(PA)が協力関係を結んでいるためであると嘆いている。ゴシェは、この状態ではより綿密な調整と物資、準備基地を必要とする爆弾による作戦は難しくなってくるので、今後は銃とナイフによる作戦に切り替えざるをえないだろうと予測している。またハレド・マシャルはレバノンのアル・ディヤル紙のインタビューで、ヒズボラは自国政府、シリア、イランに応援されているが、ハマスはPA,イスラエル、CIAに圧迫されていると嘆いた。またハマスのムハンマド・アル・ザハはロンドンで発行されているアル・マジャッラ誌(99.8.15-21)に、ワイ合意(98年10月23日調印)以降作戦遂行は難しくなり、直前にキャンセルされるものも多いと語っている。

 

4.     ハマスの活動家たち

 

 精神的指導者のアフマド・ヤシンをのぞいてハマスの主要メンバーの中で宗教的バックグラウンドを持つものは極端に少ない。概観的に言うことが可能であるなら、高学歴で主として理科系の教育を受けているのが特徴といえるだろう。

(1)  アフマド・ヤシン: 1938年、ガザに生まれる。10歳の時の第一次中東戦争でガザに難民として移住。子供のころの怪我で車椅子生活を強いられている。宗教教師として有名になる。1983年にイスラエルに対する反乱謀議、武器不法所持で13年の刑を受けて服役。日本赤軍の岡本公三が釈放されたPFLPとの捕虜交換で1985年に釈放。1991年に再逮捕で終身刑の判決を受ける。1997年ヨルダンで逮捕されたモサド。メンバーとの交換で釈放。ガザ在住

(2)  ハリド・ミシャアル: ハマス政治部門責任者。1956年生まれ。1967年から1990年までクウェート在住。物理学士(クウェート大学)。

(3)  ムーサ・アブ・ズーク: 1951年生まれ。工学士(カイロのエイン・シャムス大学)

(4)  イブラヒム・グーシェ: スポークスマン、1936年エルサレム生まれ。工学士(カイロ大学)

(5)  アブデル・アジズ・ランティシ博士: 1947年ヤブネ生まれ。6歳で難民としてガザに移住。医学博士(アレキサンドリア大学)

(6)  ムハンマド・ナツァル: ハマスのヨルダン代表(1999年に追放)。1963年アンマン生まれ。化学修士(カラチ大学)

 

5.     PAとハマスの関係

 

ハマスとPAの関係は2.(5)に見たようにアンビバレントなものだ。一方でPAはハマスを交渉のテコに使ってきた面がある。イスラエルとの交渉でパレスチナ民衆が譲歩を受け入れないとする理由付けにはハマスのテロ行為があげられた。オスロ合意2の前後に見られるテロ事件の増減はそれを明らかにしているものと思われる。PAは当時対イスラエル交渉でハマスのテロを根絶することは不可能だと主張していたが、1998年以降の展開を見ると、それが単なる口実でしかなかったことは明らかである。それでも民衆が政治集団としてのハマスを支持しなくても、その精神的指導者ヤシンに対して抱く敬愛の念を無視することは出来ないし、特にガザにおける民衆の宗教性も無視できない。非宗教的であるはずのバース党の指導者、サダム・フセイン・イラク大統領が第1次湾岸戦争に勝利したときに伝統的衣装でモスクに行ったように、アラファトもハマスが代表する宗教性を否定することは不可能だ。

またPAが長い民族解放運動の歴史の中から持ち越してしまった腐敗とネポティズムはハマスが持つ潔癖さと対比される。それは、ハマスがテロを開始する前にはUNRWAが援助物資配布の末端組織として使っていたほどだ。ハマスの社会福祉運動が成功している一つの理由は援助が途中でなくならない点にあり、PAの腐敗が日本初め各国の援助の効果を目減りさせている現実と鋭く対立する。CPRSの世論調査に見るように、その現実をパレスチナ人の多くが認識している中ではなりふり構わぬハマス弾圧はやりにくい。

それでもワイ合意のためにPAはハマス対策に本腰を入れてイスラエル当局と協力せざるを得なくなった。その前後の主な対ハマス作戦を下の表にまとめた。この表からイスラエルとPAの協力関係はハマスに対してかなりの効果をあげたのが見て取れる。

主な対ハマス作戦

日付

場所

内容

執行者

98.01.14

ナブルス

ハマス・メンバー逮捕

PA

 

98.01.14

ラマッラ

ハマス・メンバー逮捕

イスラエル、PA

 

98.01.14

ベツレヘム

ハマス・メンバー逮捕

イスラエル

 

98.01.14

ナブルス

爆発物700kg、ガスマスク

PA.

 

アセトン、アルコールetc.押収

イスラエルの情報

爆弾自動車計画を自白

ハマス・メンバー4人逮捕

 

 

98.03.29

ラマッラ

爆弾自動車破裂、死者1人

 

テロ攻撃準備中の事故?殺人?

イスラエル盗難車押収

死者はハマスの爆弾作りムヒ・アディン・シャリフ

98.03.30

ガザ

爆弾工場7カ所手入れ

PA

押収物資の一部はイスラエルから

手榴弾、銃、対戦者ミサイル、

爆発物押収

98.04.06

ラマッラ

シャリフ殺人犯逮捕

PA

ハマスはPAの対イスラエル協力を非難

98.04.13

ガザ

ハマス中心メンバー数人逮捕

PA

 

98.06.29

マルカ(西岸)

5月のパトロール襲撃犯逮捕

イスラエル

アフラのレストラン襲撃計画発覚

98.05.11

ヘブロン郊外

ハマスの2人(兄弟)射殺

イスラエル

弾薬、変装用の服発見

シャリフ殺人、エルサレムのテロ関係者 1人は8.15にパレスチナ刑務所脱走

98.11.30

ジェニン(西岸)

テロ事件犯人逮捕

PA

 

99.02.01

ラファ(ガザ)

ハマス・メンバーを追ったカーチェイスでパレスチナ警官死亡(最初の例)

99.05.24

ガザ

爆弾作りのハマス・メンバー2人逮捕

PA

 

99.08.08

ガザ

ハマス・メンバー3人逮捕

PA

テロ宣言(インタビュー)で行政拘留

 

6.     ハマス支持の変遷

パレスチナ人の世論については1993年以前の信頼すべき資料はない。下の表はCenter for Palestine Research & Studies (CPRShttp://www.cprs-palestine.org/)1933年9月から年平均6-7回の世論調査をしているものから作成した。CPRSはナブルスに本部を置く独立の機関で資金的には在外パレスチナ人からの補助、西側諸国の援助によっているという。腐敗、ネポティズムなど自治政府にとってつらい調査報告も発表しており、同政府の影響は無視できるものだと思われる。1回目調査の直後に調印されたオスロ合意により将来選挙が予定されたところから、2回目以降は毎回「今選挙が行われたらどの党に投票するか?」という質問が行われているのに対するハマス投票率をパーセンテージで示したものである。

 

調査日

支持率

 

 

調査日

支持率

 

 

調査日

支持率

 

 

調査日

支持率

2

93.01

13.3

 

13

94.11

17.4

 

24

96.09

X8.1

 

35

98.7-8

X12.0

3

93.11

14.6

 

14

94.12

16.6

 

25

96.12

9.7

 

36

98,10

12.2

4

93.12

12.6

 

15

95.02

14.4

 

26

97.03

X8.6

 

37

98.11

10.9

5

94.01

14.7

 

16

95.03

12.4

 

27

97.04

10.3

 

38

99.01

11.2

6

94.02

14.7

 

17

95.05

12.3

 

28

97.06

X8.0

 

39

99.01

12.3

7

94.03

15.6

 

18

95.07

X13.1

 

29

97.09

9.3

 

40

99.04

12.2

8

94.04

15.9

 

19

95.8-9

16.6

 

30

97.11

X11.9

 

41

99.06

10.4

9

94.05

12.3

 

20

95,10

X13.0

 

31

97.12

X11.6

 

42

99.07

X11.2

10

94.06

13.7

 

21

95.12

X9.7

 

32

98.03

9.1

 

43

99.09

10.4

11

94.06

13.7

 

22

96.03

X5.8

 

33

98.06

12.1

 

44

99,10

X9.7

12

94.09

10.1

 

23

96.06

X7.8

 

34

98.06

13.4

 

45

99.12

X9.0

 数字の前にXを付けた項は、西岸のハマス支持率がガザのそれを上回ったことを示す。ハマスは前述のごとくガザで出発したものであり、リクルートの場はもとより、社会福祉事業の中心もガザを中心としているにもかかわらず、95年後半から97年後半にかけてと99年後半に西岸よりも支持率が下がっているのは大きなトレンドとしてのハマスの退潮を示すものだと思われる。

95年後半に起きたハマスの後退は以下の3点から説明できるように思われる。同年9月にはオスロ合意2が調印され、それまでのガザとエリコ周辺に加えてヨルダン川西岸地区の主要7都市がパレスチナ自治区に編入され、一般のパレスチナ人にとっては自治の果実が見え始め、将来に対する希望が生まれてきた時期である。それと並んで、またオスロ合意2を引き出すために95年4月からPAとハマスの最初の衝突が起こっている。PAはアメリカとイスラエルに要求されてハマスとイスラム・ジハードの取り締まりを開始した。この取り締まりは馴れ合いであり、数百人がガザの中央刑務所に収容されたもののそのほとんどは政治組織のメンバーであり、軍事組織には手が触れられなかった。さらに当時、房の鍵はかけられず、刑務所内を自由に行動していたと伝えられた。しかし大量逮捕は一般のパレスチナ人にある種のショックを与えたものと思われる。ハマス退潮の3番目の要因として、1996年1月20日に実施された選挙があげられよう。当時ハマスの強みは対イスラエル攻撃の華やかさと支持基盤の大きさが不明なところにあった。そのためハマス指導部で選挙への参加が討議されたとき、選挙の得票でハマス支持の実体が分かってしまうことを危惧して不参加が決定された。

1996年2月に5回の攻撃がハマスによって行われ、多数の死傷者がでたことからハマスは国際的な糾弾を受けた。そのためPAも今回は本腰を入れてハマスに対する弾圧を行わざるをえなかった。前述のごとくPAによると1996年3月には600人の逮捕者がでた。こうした一方で将来に対する希望、他方で弾圧がハマス支持を後退させたものと思われる。

1999年後半に起きたハマスの退潮は、同年5月にイスラエルで行われた総選挙と首相公選の結果、より和平に積極的と見られる労働党党首バラクが首相になってネタニヤフ政権に交代したことが原因の大きな部分になるだろう。

ガザでの支持率がヨルダン川西岸のそれを下回るのは、PAの本部がガザにあって事態を見る目がより的確であること、最近になるまで交通の手段がなくて行き来出来なかった西岸の方でハマスがより美化されて見られたことによるものと思われる。

 

7.     結論

ハマスはその綱領にあるようにイスラムの復活を希求しており、その手段として自分たち自身の教育を重視している。彼らにとってイスラエルの殲滅とパレスチナ全土の回復はジハードであり、そこから撤退する道はない。アラブ世界、イスラム世界との連帯を求めており、またその支援を当然のこととしているが、その限界もまた忘れてはいない。綱領の11条に見るようにハマスの方針がアラブ諸国に受け入れられないものであることは自覚している。ジハードは当面パレスチナにとどまり、それが完成した後にアラブ世界、イスラム世界を視野に入れようとしているように見える。彼らにとっての宿敵イスラエルのスポンサーであるアメリカですらこれまでのところその対象とはなっていない。その裏には12条にある民族主義との関係があるのかもしれない。一時期のPLOのように対イスラエル戦線が膠着すればすぐ欧米にあるイスラエル資産、イスラエル人に方向を変える柔軟性は持っていない。

4に見たようにハマスの主な活動家の多くは理科系の人間であり、高度な教育を受けているものも多い。しかしその行動原理は著しくイスラムに規定されており、彼ら自身が持つ能力の一部しか闘争の手段として使われていないようだ。将来の戦争の手段としてサイバー・テロの可能性が論議されている。もし彼らにその意志があれば、サイバー・テロの最初の対象に選ばれるのはイスラエルであるにちがいない。しかしこれまでのところハマスの10年以上に及ぶ活動の中でその種の攻撃を一度も行っていない。

したがってハマスやそれに似た構造を持つエジプト、ヨルダン、アルジェリアに見られるイスラム原理主義運動が何重もの段階を飛び越して日本のような物理的にも心理的にも遠隔な地に攻撃を掛ける可能性は極端に低いと評価せざるをえない。(了)