関東学院大学小田原キャンパスの大学祭を『滄浪祭』と名づけた理由について
以下に述べてみようと思います。歴史を辿ると明治時代にさかのぼることとなります。
『滄浪』の名は現在、大磯の地で耳にすることのできる 『滄浪閣』から由来しています。
しかし、伊藤博文が小田原の海岸に接する地(御幸の浜十字三丁目六四三番地)に落城
したのは明治23年のことであり現在の大磯の『滄浪閣』は小田原の『滄浪閣』の名を
移したものなのです。そして小田原滄浪閣は明治31年より施行された民法の『原案起草の
地』なのです。明治政府は憲法の編纂とともにその他の諸法典(民法、刑法など)
の整備に力を尽くし、その結果、明治23年には商法や刑事訴訟法などが公布され、その
多くはその年中か、翌年には実施され施行されましたが、民法と商法のみ実施されませ
んでした。この明治23年公布の民法(旧民法)が実施されなかったのは穂積八束等により
争われた、いわゆる民法典論争のためでありました。これを受けて明治政府は明治25年
に旧民法の施行延期を公表し、明治26年には法典調査会をを組織し、内閣総理大臣
伊藤博文のもと起草委員として、穂積陳重、富井政章、楠謙二郎の3人の法学博士が
滄浪閣の一室で民法典の起草が行われたのであります。滄浪閣では民法第一編
『人』の部分が起草され、このような経緯から小田原は民法起草の地とされて
いるのです。
民法起草の地の滄浪閣のように関東学院小田原キャンパス法学部がここ小田原に
於いて来る新しい時代に世の中をリードする人材を生みつづけることを願い、関東学院
小田原キャンパスの大学祭を『滄浪祭』と名づけたのです。
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