初めに : 2000年12月24日、クリスマス・イブ。私も26歳になりました。私もそろそろ駄目人間として取り返しのつかない年齢に入ってきているのではないかと思う今日この頃。そこで26歳になった記念に、この『駄目人間研究会』なる団体を発足してみることにしました。駄目人間について考察してみたい方、駄目人間の方、参加お待ちしております。まあでも、加入する人間もおらんだろうなあ・・・。
研究成果 :
01.06.21
主観(by konisho)
当たり前だけど、結局は全て主観だ。
01.05.17
独善(by konisho)
独善の押しつけ。
私はこれが、個人的に嫌いである。
しかし、実際、世の中は独善的な多数派集団により構成されている。
当然、自分もその集団の構成員の一員である。
普段は自覚がないが、ちょっとした出来事などをきっかけに、そうであることに気付く。
保身のために、自覚の無いまま集団に迎合している自分に気付く時がある。
気付かなければそれは真実ではないが、気付いた時点で真実となる。
吐き気がする。
ある意味、最高の瞬間といえるのかもしれない。
一瞬にして自分が、この世で最低の存在になれるんだから。
正論と多数派の暴力によって、少数派をひき潰す、独善の押しつけ。
それに気付きながら、保身のためになにもせず、個人的な罪悪感によって自分勝手な贖罪を済ませ、逃避としての享楽に耽る。
そんな構図ができあがるのだ。
確かに、独善的な集団というのは、人間社会において、良くも悪くも、非常に大きなな牽引力となる(人間社会の是非は問わない)。
そして、独善的な集団が掲げるのは、往々にして善である。
しかし、そんな集団が少数派をひき潰す時、善悪ではなく、ただ、吐き気がするのだ。
その集団にも、自分にも。
しかし、所詮、私のこのような認識は一時的なものでしかない。
結局認識などというものは、人格・自意識の産物であり、肉体を活発に動かしているとき、(脳の神経系のうち、体を動かす部分が活発になっているとき、心と体が一致しているときとでも言うべきか)にはほぼ消失している。
人間が生物としての生を送っているときには、意識の産物である、迷いの迷宮に入りこむこともない。
それが自分にとっては救いだ。
そして、また、意識の上においても、この世が地獄であるか、天国であるかなど、個人の認識にしか過ぎない。
自分なりの独善というものを自覚しながらも追求し、それに磨きをかけていくことができるならば、それに代わる幸せはないのではないだろうか、などと思うこともある。
生きているということは、ただそれだけで本当に素晴らしい。
しかし同時に、本当に、くだらない。
01.04.19
『コンプレックス』と『見栄』(by konisho)
コンプレックスと見栄・・・。
なんか、いわずもがな、って感じでしょ?
01.02.16
『和して同ぜず』と『同じて和せず』(by konisho)
自分的に『同じて和せず』というのは、駄目系だと思う。
やっぱり、『和して同ぜず』が良いね。
特に日本人に多い駄目人間パターンだと、自分は考えてる。
この2つは、自己と非自己の認識の問題から見て、決定的に違う。
一般にいう、大人と子供の違いとも大きく関連するかな?
誰にでも身に覚えがあるはずのことだと思う。
とりあえず、自分には間違い無く、身に覚えがあるからねえ。
それどころか、現在進行形か?
自分ではっきり認識できとらんし、べつにいいや。
いやあ、難しいもんですな。
01.01.10
ピンクフロイドの『狂気』(会員No.2)
会員No.2の方から紹介されました。
聞きましょう。
01.01.01
『外部評価』と『自己評価』(by konisho)
駄目人間を規定する基準は、『外部評価』と『自己評価』の2種類がある。
『外部評価』というものは単純だ。
それはもう事実として存在しているものなので、そう受け止めればいいだけの話だ。
それ以降は人それぞれのリアクションをすればいい。
それに対して『自己評価』というものは厄介だ。
自分だけの基準、外部評価に対する恐怖、プライド・・・そういった諸々のものが絡み合うことになるのだから。
ともすれば、自己満足や逃避行動に発展していく。
結局、『外部評価』というものも、自分の内部に入る時点で自分というフィルターを通すことになり、『自己評価』に変換されているのだが。
00.12.28
『社会通念』と『セルフコントロール』(by konisho)
社会的な人間の価値を規定するのが『社会通念』である。
厄介なことに、この『社会通念』というものは、それぞれの社会、人間の集団によって違っている。
ある『社会通念』が存在する社会において、その『社会通念』が規定する規範に従うことのできない者は、駄目人間ということになるだろう。
それは当然、目に見える結果によって評価される。
多くの場合、『セルフコントロール』ができない者は、『社会通念』が規定した規範というものに従うことができない。
しかし、境遇や才能に恵まれたものは、『セルフコントロール』ができずとも、それをクリアすることが可能な場合がある。
この場合、境遇や才能は、逆に『セルフコントロール』を学ぶ機会を失わせるものと捉えることもできるのだが。
まあ、どちらにしろ最終的に重要なのは規定された規範に従うということである。
『セルフコントロール』ができようと、境遇や才能に恵まれようと関係がない。
『自己責任』(by konisho)
『自己責任』を負うことができないというのも、駄目人間の条件なんだろうなあ。
自分の行った行為に目をそむけ、結果的に自己憐憫や自己正当化に汲々としてしまう。
もがくという行為が、結果として自己憐憫や自己正当化になってしまう気がする。
つーことは、自覚症状もないと考えらるので、一番性質が悪いということになってしまうのか・・・?
どんより。
それにしても、自己批判って、行動に繋がらない限りは自己満足なんだよなあ。
つまり『自己責任』の回避の最たるもの?
あーあ、だる。
00.12.25
『自己完結』と『理論』の関係(by konisho)
人間の頭の内部では言語を用いて思考が行われる。
今回はこの言語を用いた思考体系を『理論』というものと定義して話を進める。
言語で形成される人間の思考は、言語で表しきれない経験をそのものとして捉えるのではなく、一度言語化してからその思考体系の内部に取りこむ。
人間は、そのままで捉えるには過剰な情報を持つ経験そのものを、扱いやすく言語化して思考に取りこむことによって初めて、明確な思考を行うことができたと実感できるのだ。
よって人間は明確な形で行うことができた思考を、曖昧にしか捉えることのできないあるがままの体験よりも、正しいものであると思いこんでしまう場合がある。
確かに『理論』には現実から抽出した普遍的真実を表すことができるが、それは現実のほんの一部なのである。
よって『理論』によって思考を進めていくことにより、普遍性を獲得すると同時に、目の前の現実とのギャップを深める結果を招く。
私は、この『理論』から生まれた明確な思考に対する確信が、『自己完結』に至る大きな一要因なのではないかと考えている。
追加:我々の思考体系には、過去の経験から形成された思考の素地となる経路が形成されており、五感から得られた現在の情報はその経路にしたがって、幾つかの文脈が与えられる。人間の中ではその文脈が組み合わされて、整合性のあるストーリーが形成される。このストーリーを形成する情報のうち、ストーリーの形成のきっかけとなる五感からの情報は、ほんの一部である。つまり、現在の情報から形成されるストーリーの正しさは、多くの部分が過去の経験から形成された、思考の素地となる情報や経路に依存しているといえる。だからこそ00.12.24の『自己完結』における3つの過程は、『自己完結』を形成する上で重要なものなのである。
00.12.24
駄目人間の条件その1『自己完結』(by konisho)
自己分析の結果、私は『自己完結』という駄目人間の条件を見出だした。
この『自己完結』に至るには、
・他人との対話を避ける、もしくは他人とあまり対話しない
・人の話を聞かない
・人の話を曲解する
といった過程を経る必要があるものと思われる。
このような過程を経て『自己完結』に陥り、周囲とのギャップを深める土壌を整えることが、駄目人間への第一歩といえよう。
駄目人間の条件その2『感情の暴走』(by konisho)
まあこれも自己分析の結果です。
感情がうまくコントロールできず、行動に直結させてしまうのが『感情の暴走』である。
その原因としては、
・激しい感情
・経験の不足
・そしてやっぱり、『自己完結』
ってとこでしょうか、思いつくところ。
やっぱ、『自己完結』というのが一番危険な要素だと思う。
留め金を排除してしまうから。
でも逆に強い感情が『自己完結』の引き金になってるような気もする。
まあとにかく、そうして『感情の暴走』は起こってしまうのだ。
コメント:駄目人間は分かっていても『自己完結』してしまうし、『感情の暴走』を起こしてしまう。結局、頭で「分かる」と、実際の経験として「分かる」のは違うのだよねえ・・・。人間は実際に感覚に訴えるものが無ければ、結局は動けんからね。なかなかままならないもんですなあ。
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