昔考えた一人考察を思い出して、徒然と書いてみることにしました。
とりあえずはじめはこれかな?
「世界とは何か」に端を発する徒然思考(02.06.16)
「世界とは何か」という質問を考えてみる。
世界とはなんであろう?
ただここにある、あるがままの全て?
いや、まず考えなくてならないのは、「世界」という言葉を認識する質問者であり、解答者である。
それでは、「世界」という言葉を認識する主体にとって、「「世界」という言葉の認識」は何を意味するのか?
個人的な考えになるが、それは「「世界」という聴覚、もしくは視覚への刺激に対する、脳内の神経回路の反応のパターン」である。
そのように考えていった場合、自分にとっての世界とはいかなるものになるのか?
そう、はじめの質問に戻ろう。
世界とは何か。
自分の脳内で発したこのひとつの刺激に対する、自分の脳内の反応は以下のようであった。
「「世界とは何か」というのは大雑把な質問であるが、自分の答えとしては「認識のパターンと脳内物質に脚色された自分の中のひとつの世界」ということになる」
自分の中には過去の経験の反復によって形成された認識のパターンというものがある。
だまし絵というものを見て不思議に思った経験はないだろうか?
このだまし絵に対する自分の反応を考えてみると、自分の認識というものがどういうものであるか考えることができるだろう。
絵や写真は二次元の模様であり、もともと三次元のものとはまったく異なるものである。
アニメーションなども連続した動画ではない。
自分の認識の限界と、経験による認識のパターンがすべてこれらのものを自分の内部で形作っているのだ。
何度反復しても同じような結果が得られた事に関しては、自分の内部で強固な世界の骨格となる。
当然、正誤、もっともらしいものかそうでないか、はまったく別の問題である。
ここで上記の話と関連して、「分かる」ということがどういうものであるかについて考えてみる。
いきなり自分の結論から言うと、「分かる」というものの本質は正誤などではなく、自分の頭の中で位置付けができるか、否かにあると思う。
世の中には一を聞いて十を知る人間がいる。
これは自分の中の経験の蓄積による世界の大きさから、その物事を自分の経験の一部に位置付けることができるからだ。
また自分自身が分かったような気になる瞬間というのがある。
それは安易な言語や抽象概念や経験への結び付けで、たとえ間違っていたとしても自分の中では位置付けが完了してしまっているからだ。
そんな自分の観点からすると、理解力というものはいかなるものになるのか?
理解力という言葉も捉え方によって様々になるが、一言でいえばパターン化能力ということになるのではないだろうか。
アナロジーやトポロジーといった考え方をしていくと、世の中のあらゆる物には類型があり、また、いろんな形を見出すことができる。
理解力というものは眼に映るものから、その情報の裏に隠れる関係性の類型を推察する能力、といえるだろう。
問題解決の第一段階において、この能力は非常に重要である。
自分の中の問題から解決に至るパターンのいずれかに当てはめること、または新たなパターンを見出すこと、これらの能力は問題を解決する上では最初に必要とされるものである。
しかし、問題解決を行う上で一番重要となるのは、解決に向かう意欲・意思なのであるが。
能力というのがベクトルの方向付けだとすると、意思や意欲は力の大きさである。
方向は間違っていても、力さえ残っていれば、方向の修正を繰り返して最終的にはゴールにたどり着くことができる。
しかし、いくら方向が正しくとも、力がなければゴールにたどり着くことはできない。
まあ方向の修正がまったく見当違いでも、問題だが。
でもその場合、それはそれで面白いとこに行く人もいるかも。
しかし大体の場合、正しい方向への修正ができず、目標設定自体も変えることのできない人間は、力のある分だけ問題になる。
まあその場合でも、周囲に迷惑さえかけなければ、それはそれで良いことだろう、と自分は思う。
思った方向とちょっと違ってしまった。
もうちょっと哲学ちっくにしようと思ったのだが、なぜか問題解決の話なんかに・・・。
まあこれはこれでいいや。