つい最近綴った、いつもの如き内容(05.03.01)
瞬間瞬間の真実。
瞬間瞬間の自分自身。
変化し、移ろう。
思いが変わる。
与えられた環境により、新たに構成される。
どんなに強い思いも、
どんなに素晴らしい思いも、
どんなにつらい思いも、
環境の変化と時間の変化に飲み込まれる。
それが人の儚さ。
しかし、それでも人は時々思い出す。
沈んでは昇る太陽のように。
欠けては満ちる月のように。
人の心の不思議。
甦り、また失われる思い。
思いが種になることもある。
全てが芽を出すわけではない。
芽を出したものが全て生長するわけではない。
それでも、一部は生長し、残っていくかもしれない。
人は儚く、脆い。
個体のレベルで考える限り、それは変わらない。
個体を越えて遠くを眺めるとき、
ふわりと浮かび、違った景色が見えることもある。
それはもしかしたら、絶望的なものかもしれない。
しかし、時々は何か美しい風景に出会えることもある。
私達は一つの個体ではあるが、全体の一部でもある。
私は何に属しているのだろう。
属している複数の集団のうち、何を頂きに擁くのか。
集団毎のいくつもの矛盾する役割。
状況により生まれる、いくつかのパターン、仮面。
それはまるで果実のようなものではないだろうか。
自分という幹に付く、外界との交わりが織り成す果実。
私という樹木に、いくつもの仮面が実を結ぶ。
実を結び、膨らみ、やがて腐り落ちる仮面。
それとも、水面に広がる波紋だろうか。
只今のこの私という現象は、私という水面に広がる波紋なのだろうか?
私という水面に、ぽつぽつと降ってくる雨粒。
やがてそれは土砂降りになる。
そして、それは私という水面を掻き乱し、私は私自身の形を見失う。
私が私以外のものとの境界上で描くリズム。
私が楽器で、彼が演奏者?
彼が楽器で、私が演奏者?
おそらく両方なのだろう。
我々は演奏したり、されたりしながら生きている。
時に激しく、時に静かに。
時に醜く、時に美しく。
それぞれが思い通りにならない音楽を奏でている。
どうせ奏でるならば、美しい音楽がいい。
いや、それ以上に自分の本当に好きな音楽がいい。
例え聴衆などいなくても、自分が演奏し続けられるような音楽。
だだし、世界は音に満ちている。
自分自身が美しい音の世界の中で生きるには、
世界の音に耳を傾け、寄り添わなければならない。
世界に満ちる音に、上手に自分の音を添える。
そして、自分を取り巻く世界の音は、少しだけ美しいものになる。
ある偶然と努力の結果、主旋律を奏でる機会もあるだろう。
世界の外れでソロ演奏をする幸運に恵まれるかもしれない。
ともあれ、まずは周りの世界の音に耳を傾けることが、
全ての始まりなのだろう。
様々な音や音楽のなかから、自分の求めるものを選ぶ。
そして自分の目指すものを模倣していけばいい。
自分を奏で、相手を奏でる。
様々な奏者や楽器達との出会いがあるだろう。
そして、その繰り返しの中で、様々な音に出会えることだろう。
ふと、私自身を振り返ってみる。
現在の私はどんな状態なのだろうか。
私は少し人の集団からはなれた丘で、
人の奏でる旋律に耳を傾けるのが好きだ。
そして、時々思い出したように鼻歌を歌う。
また、時に思い立って人の集団の中に紛れ、
ちょっとした不協和音を奏でてからまた元のところに戻る。
そんな生き方をしてきた気がする。
これからはもっと人間の沢山いる、より流れの速いところへ行く。
そんな世界で私はどう変化し、どんな音を奏でるのだろうか。
まだ見ぬ世界。
私は一体、何処へ向かうのだろうか。