我々という存在(05.09.08)
我々は生命である以前に、ある種のパターンだ。
ある入力に対して、ある出力をする。
たとえば美しいと感じるものを見たとき、
それを見つめていたいと思うか、
手に入れたいと思うか、
壊してしまいたいと思うか、
それら心を掠めた行動を実行してしまうのか、
それともただ通り過ぎるのか。
そのパターンの累積と組み合わせ、
そしてその相互作用が我々だ。
我々は自分というものを、
「自分」という言葉により「存在する」と思い込んでいる。
しかし、結局のところ、我々というものは、
一種のパターンの発現なのである。
言葉を割り当てることによって分節されたある物理的存在が、
ある環境が与えられた場合に、
どのように振る舞うのか、
その振る舞いのパターンそのものなのだと思う。
よって我々は厳密には存在しないともいえる。
言葉というルールによって、
仮初の認識が成されているのだ。
言葉というルールが広く、
言葉により分節された、
沢山の自分という存在によって認識され、
共有されているがために、
ある種の幻影として存在しているのだ。
この文脈からみるならば、
我々は確実に存在しているともいえる。
ただ個々の「自分」という分節された存在を見てみると、
自らの過去の情報を何らかの形で記憶し、
それをもとにある情報の入力に対して、
ある振る舞いを選択するという共通項が見られる事は確かだ。
ということは、情報の蓄積と、それを基にした振る舞いの変化こそが、
我々の本質なのかもしれない。
それでは生命とは?その本質は何なのか?
私が考える限りでは、
この生命というもは我々と同様に、
一つのパターンであると思う。
ただ、生命を生命たらしめている法則があるのだと考える。
それはパターン自身が、
その自らの複製を作り出すものであるという事。
また、ある偶然によりパターンに変化が与えられることがあること。
その変化がたまたま他の複製のパターンよりも、
高い確率で存在が維持されることに貢献するものであること。
そして結果として、
経時的により高い確率で存在し続けるパターンとなること。
これが私の考える生命の本質であり、
この性質を持つものが生命であるのだと思う。
(話は変わるのだが、現存している生命の複雑さは、
個々の生命同士の相互作用が寄与しているものと思う)
そういった文脈から、
我々の意識という一つのパターンは、
生命と言い切れない部分を含むように思う。
一見して、めちゃくちゃすぎるのだ。
しかし、たまたま自らの生存率に寄与することもあるだろう。
厳密に解析していけば、
多様性の維持という意味で、
生存に寄与しているのかもしれない。
まあ、結局はどの視点からこれを捉えるかという事になるのかも。
演繹的に捉えるのか、帰納的に捉えるのか。
まあ、どっちでもいいや