はじめなので、早くも第二弾。
相変わらずの長文を書く才能のなさ、記憶力のなさ、表現力の低さが悲しいですが、まあ昔のことを少し思い出すことができました。
小さな頃(02.06.17)
小さなころ世界はただ不思議で、美しく、何やら心ときめくものだった。
小さなころはよく自分の感覚というものを疑っては不思議に思っていた。
この目に見える色は果たして人の目に映っている色と同じなのだろうか?
この目に映るもの、世界が自分にとって当たり前に感じるのは、なぜなのだろうか?
世界はなぜこんなに、ただ今見える形が選ばれてここにあるのだろうか?
胡蝶の夢。
自分の存在の不確かさというものは、疑っても、疑っても尽きることはない。
また自分の存在の不確かさと同じように存在する、当たり前という感覚、自分の存在の確かさというものは一体何であるのか。
いくらでも浮かんでは消えていく疑問と、心を締めつけられるような景色のなかで、ぼんやりと切実に時を過ごしていた。
止まっているはずの月が自分についてくるのはなぜか?
目を閉じて波打ち際に立つと体が移動していく(感覚がある)のはなぜか?
自分がもう少し人見知りではなく、勤勉であるならば自分で調べてそれなりの答えを得ていたはずだ。
しかし、自分は勤勉ではなく、ただ疑問を反芻してはその不思議な浮遊感を楽しんでいた。
宇宙のスケールを知ったとき、分子や原始の存在を知ったとき、エネルギー保存の法則を知ったとき・・・
新鮮な驚きと新たな疑問、ある問題は解決を迎え、世界の輪郭は少しずつしっかりとしたものになっていった。
それでも自分はそんなに賢くもなく、勤勉でもなかったので、ただ疑問を反芻し、漠然とした何かを捜し求めているだけだった。
究極の何か。
ラプラスの悪魔。
それ以上の、あらゆる可能性を網羅することできる、無限の知性。
ただそんなものに憧れていた気がする。
人が小さなころに憧れる、自分の想像の限りのなかでもっとも大きなもの。
中学生のころ、一度両親にそんな究極に近い存在について語ったことがある。
人が脳だけの存在になって、その内部で永遠にあらかじめ自分が設定したドラマを無限に続けることができたらすごいんじゃないか?
というような内容であった気がする。
五感以上のあらゆる感覚を作り出し、あらゆる喜びや苦しみのドラマをその度記憶を消して演じていくのだ。
自分はその想像にひどく興奮していたような気がする。
しかし、当然というか、両親には一蹴されることになる。
一言でいえば「冷たくて、気持ちの悪い世界」。
まあ、当たり前といえば、当たり前の反応だ。
このとき、自分の感覚を両親が共有してくれなかったことにひどく落胆した覚えがある。
想像力の欠如。
そうとしか思えなかった。
しかし、今の自分の状態を考えると・・・
たとえそのようなことを思いついても、そんなに興奮するとは思えない。
誰しもが経験する、どんなに下らないことでも輝いて見える、一過性の時代というものがある。
幼い頃、思春期・・・世界がまだ曖昧で大きく思えた頃。
そんな時代を経、さらに多くの思いもよらない経験を経て、人は神経の反応パターンという堅固な世界を築き、それぞれの日々や人生を送っていくのであろう。