自分の文章は、自分の好きなパターンや、とりとめのない方向に脱線していき、まったくもって美しくないと思う。というか、まとまりがない。その上、好き勝手絶頂、論理も飛躍してるので、救いようがない?まあ、趣味だしな。なにより飛躍するのが楽しくて書いてるみたいなもんだし。

大人というものについて考えてみた結果(02.06.29)

大人になるというこは、いかなることだろう。
自分のもつ大人というもののイメージから少し考えてみたい。
自分が大人という言葉から連想するイメージは、自立、安定、責任である。
それはどういうことなのだろうか。

自分は大人とは社会という文脈の中で、自分の位置付けをきちんとできている状態を指すのだと思い至った。
自分を位置付けることができるということは、すなわちこれが安定を意味する。
しかし残念なことに、ある組織において安定した存在が、他の組織においてもそうとは限らない。
そういった意味では、社会という文脈の変化に対する適応力というものも、大人の条件となるかもしれない。
また、社会という文脈の中で自分を位置付けるということは、相互扶助の輪の中に入るということである。
そのためには当然、自立と責任、さらには協調性というものも求められるだろう。

一般的には、特に国家や自分の所属している大きな組織の中で、その文脈を構成する安定した要素となることが大人とみなされるための条件である。
しかし、残念なことに幾重にも折り重なった組織の階層構造の中で、ある個人が所属する組織全てにおいて安定した構成要素となることは難しい。
人間というものが複数の役割を演じるには限界がある。
特に、より適応的で大きな力を持つ組織においては、要求されるもののハードルも当然高いものとなり、条件はより厳しくなるだろう。
厳しさを理由にその他の自分の所属する組織をないがしろにしてしまうという例は、数多く見かけられる。
まあ、それはそれでその人の選んだ方法なのかもしれないが。
よく考えてみれば、組織において大人であろうと、そうでなかろうと、最終的に生き残って子孫を残す・・・これが生物としては大人といえるのかもしれない。
人間の場合、自分の所属する組織の強さが自分の生き残りに直結することが多いのだが。

遺伝子という観点から人間を見た場合、遺伝子と環境からの情報の相互作用において、環境から情報の影響が非常に大きいように思える。
人間は巨大なミームプールを持ち、外部からの情報によって遺伝子の適応度を下げるような行動にすら走る。
人間は遺伝子と情報の相互作用、すなわち苦痛と快楽の中で、ある特定のパターン形成を行っている。
それが美学であり、信念である。
人間にとって美学や信念に沿って迷うことなく生きられるというのは、とても幸せなことである。
しかし移ろいやすい世の中においては、強固なパターンを形成するのは困難であるし、たとえ形成することができたとしても、世の中の移ろいに心を痛めることになるのは必定である。

・・・で、だからどうした?という話。