辻加護判別クイズからちょっと無駄に考えた(02.07.23)

しばらく前、辻加護判別クイズというものをやった。
結果、自分の成績はいまいちだった。
それに対してある後輩らは非常に優秀な成績を収めていた。
その違いはどこからきたのだろうか?

まず、自分の場合人間の顔、特に女性の顔を映像として覚えるのが苦手なほうである。
2,3年前は芸能人の女性の顔などまったく見分けがつかなかったものである。
過去、小中高の同級生の女性の顔などもほとんど覚えていない気がする。
最近はそういった判別能力も高くはなってきたが、それでもまだまだである。
そんな自分であるから、辻加護は初め見たときに双子かと思っていた。
こんな自分に認識が可能であった彼女らの特徴は、前髪と胸の大きさであった。
よって、その二つの特徴が分からなければ、全くもってお手上げとなってしまった。

それに対して優秀な成績を収めた後輩達は、顔の一部の画像からも彼女らを見分けることが可能であった。
彼らはその一部の画像から彼女らの特徴を見つけ出すことができたことになる。

自分がざっと考えてみたところ、その違いは以下のようになると思われた。

・興味の大きさ
・画像として覚える
・特徴の言語化と思考停止
・苦手意識の存在

初めの興味の大きさというのは、人間の注意力や意欲、記憶力というものに対して決定的な影響を及ぼす。
興味の存在というのは当然、非常に大きい。
この場合の興味とは、興味に代表される人間を動かす力、というニュアンスである。
その人間を動かすだけの必然がそこにあるかどうか、ということである。

次の画像として覚えるというのは、画像を記憶し判別する訓練をしてきたかどうか、ということになるだろう。
ある似たような画像をはじめて見た場合、それを記憶し、判別するというのは非常に難しいことである。
しかし、同じような画像をみて判別するという訓練を重ねていくと、はじめはできなかった小さな特徴からの判別というものが可能になってくる。
たとえば、一般に日本で生まれ育った人間の場合、日本人の顔を見分けることは得意であるが、日本人と違った特徴をもつ外国の人の顔を見分けるのは苦手である。

そしてその次、特徴の言語化と思考停止であるが、自分の場合二人の特徴を言語化し、それによって識別を行おうとした。
特徴の言語化というのは、良くも悪くも情報量の減少を意味する。
言語化により他者へ伝えることも可能となるし、判別にかかる時間やコストを削減することが可能となるが、情報量は著しく減少することになる。
また、言語化によって固定観念というものを与える結果となり、思考停止を招く。

思考停止を生み出すというのは、次の苦手意識の存在も同様である。
苦手意識の存在はその人の消極性を生み出し、その人が持つ可能性を摘み取る。
思考停止と諦めを招くのである。

まあざっとそんなところだろうか。

無駄なことではあるが、ここでさらにトウガラシの分類を行っている自分の観点から辻加護判別クイズについて考えてみよう。
まずはじめに分かっている情報として、彼女らの生物学的特徴であるが、種および系統・年齢・性別はすべて同じであるということが挙げられる。
このように表現すると種内変異の解析か?などと思い、少しどきりとするが、二個体の識別という非常に限定された問題の解決であるかぎりは、それほど難しい問題ではない。
両者の間のある限られた特徴の違いをひとつ挙げるだけで問題は済んでしまう。
しかし、実際の辻加護判別クイズにおいては、実は不特定の第三者の情報も挿入される。
つまり、このクイズを大きく捉えるならば、不特定多数のホモサピエンスより辻希美および加護亜依と呼ばれる個体を識別せよ、ということになる。
識別のために得られる情報は外観の一部という情報がほとんどなので、ここから可能な限りの識別を行っていかなくてはならない。
同じ種であるホモサピエンスからの識別であるが、肌や目の色、肌のはり、髪の長さ、胸の大きさなどにより、性別、人種、年齢など、ある程度までの絞込は可能なものと思われる。
しかし、それ以上の識別というものは、情報不足のため非常に困難であると考えられる。
よしんば、識別が可能であっても、その判断を論理的に説明し、立証するのは非常に難しいものとなる。
可能ならば、指紋、DNA情報などの一般的に信頼性の高いという共通了解のある情報がほしいところである。
このように考えてくると、このクイズは予想以上に難しいもののようにも思えてくる。

しかし実際には問題の裏に暗黙の了解や文脈というものが横たわっている。
問題の製作者の意図や、問題の存在する状況や背景などである。
そういうものを共通基盤としてもっているか、いないかでこの問題の難易度は全く変わってくる。

人間社会というものは、その社会ごとの無意識的な当たり前というルールによって縛られているものである。
そのルールというものに余計なコストを支払わずに無意識的に振舞えれば、その社会に対してはより適応的であるといえる。
しかし、国際社会、自然環境といった自分の当たり前が通用しない問題に当たることの増えた現在。
何より新しい出来事に出会うことの繰り返しである人生。
当たり前という無意識的なルールを意識する必要性は確実に増えてきているように思われる。

・・・一体何?この終わり方。