雑記帳1(考察部分)


00.12.24
 テレビを見ていると思考が自分の思う通りに流れない。
勝手に物語が展開して行く。
なぜか自分の感情が引き出されており、はっとする瞬間がある。
それは本などを見ていても同様だが、テレビの場合、そのペースが強制的なのだ。
五感から進入してくる情報によって、脳が勝手に物語を作り上げる。
自分自身の意思など関係なく、自動的にである。
意味の無い音と光が脳の中で勝手に翻訳され、意味を持つ虚像が作り上げられる。
それはまるで単体では意味を持たないDNAが、細胞内で翻訳され、タンパク質を作り上げ、更なる上位の構造を形作っていくかのような現象とはいえないだろうか?
だからどうしたと言われれば、それまでだけどね。
あ、これってもしや「自己組織化」がキーワードとなる現象になるのかな?

00.12.24
 我々は外界から情報を得ると、自動的に脳内に現実という物語を作り出す。
我々が現実に即した一つの物語を作り出すのにあたっては、情報の量・正確さ、自分の過去の経験が重要な要素である。
情報の量が少なければ、現実に即した物語を作り出すことが出来ない。
情報が正確でなければ、現実に即した物語を作り出すことが出来ない。
それを補い、また情報から物語を作り出すにあたり、材料を提供するのが過去の経験である。
しかし、現在の現実に対して、その経験が当てはまるものであることを保証するものは、なにもない。
つまり我々の内部に存在するこの現実と思われるものは、現実の外界と比較して不正確なことがほとんどなのだ。
またそれだけでなく、物語を作り出す人間というものは、感情に左右され易く、そこに希望的観測を滑り込ませる習性がある。
それは幸せを求めてしまう人間の悲しい性だ。
こうして人間の個体の内部に作られる物語は、誤りを含むことになる。
そして誤った物語に即して行った行動は、多くの場合、誤った結果を導く。

00.12.24
 人間の脳はよくよく辻褄合わせを行うのが得意であるらしい。
わずかな情報から勝手に物語を構成する能力がる。
それは、それまでの自分の経験から得られた、物語を構成するための部品が自分の中にそろっているからだ。
経験の乏しいものは乏しいなりの、豊富なものは豊富であるなりの物語を作り出すことが出来る。
しかし、その構成された物語は、間違いなく完全に正しいものではありえない。
その人間とってのみ意味のある、物事の一面を映すだけのものだ。
人間の認識能力には当然限界があり、物事が持つ全ての意味を自分の中に映し出すことは不可能である。
そういった意味で人間の認識能力に見合った規模の、必要且つ、十分な物事の一面を抽出した物語を作成するのは、非常に有用なことといえる。
人間の歴史の中で、生き延びるために不必要な物事の一面に拘泥することは、時には死に繋がることもあったのではないだろうか。
そういった意味で現在ここまで生き延びてきた我々の先祖は、非常に合理的でスピーディーな思考回路を持っていたのではないかと予想できる。
しかし現在の我々の状況を鑑みるに、純粋に生存するためだけの思考回路というものの価値が下がってきているように思われる。
農業による食料の余剰が、我々に考える暇と余裕を与えたのだ。
だから現在の我々は、生存に不必要と思われるような様々な物語を作り出すことが出来る。

00.12.24
 人間は生涯自分自身という幻想から抜け出すことが出来ない。
その幻想を
自分自身という地獄と見るか、
自分自身という極楽と見るか、
自分自身という牢獄と見るか、
自分自身という自由と見るか、
・・・そういった諸々の状況は人それぞれであるが。
形成されてしまった幻想にも変化の余地はある。
しかし、その変化は自分の思い通りになるのものではない。
なぜなら、変化しようという思いが既に幻想の内に含まれているからだ。
変化の渦中にいる人間はそれに気づかない。
変化の後、自分の過去との相対的な比較によって初めて変化に気づく。
そして、自分が幻想の中にいたことに。
だからこそ人間は、自分が現在も新たな幻想の中にいるのだろうと推測することが出来る。
しかし人間にとっては現在の自分自身の感覚こそが、本当にリアルな現実なのである。
たとえそれが自分自身だけの幻想であろうとも。

00.12.21
 自分はどうしても喜びと苦しみという問題について考えてしまう。
そしてそれは大体が実生活において役に立たないものばかりだ。
しかし、自分にとってこの考える行為それ自体が、生きる目的となっているのかもしれない。

00.12.21
 現在、我々はあらゆるレベルの集団と、複数の個人と触れ合いながら生活している。
我々は集団や個人のそれぞれと共感や反発などといった、なんらかの関係を結んでいる。
このそれぞれの関係同士は、多くの場合、矛盾している。
この矛盾は我々にとって大きな苦しみの一つなのではないかと思う。

00.12.21
 人間はなぜこんなにも苦痛と快楽に翻弄されるのだろうか?
それはミーム(模倣子)が人間の苦痛と快楽をコントロールして、自身の情報の伝達、増殖を人間に行わせるからだ。
ミームの生き残りのための競争というのは、即ち、人間の苦痛と快楽を翻弄することなのだ。
ミームはDNAと比較して、その変異の速度も、増殖の速度も圧倒的に速い。
だから現在、人類の中に蓄積されたミームは非常に大量で、多様性に富むものとなっている。
そんな大量のミームに日々触れている我々が苦痛と快楽に翻弄されているのは、当然のことといえないだろうか。

00.12.21
 人間はなぜ他の生物を圧倒することが出来たのか。
それは人間が他の個体を模倣するという形で、遺伝情報以外に新たな情報の伝達、および蓄積の方法を得ることができたからだ。
生存する上で有利な方法を模倣することが上手な個体は、当然、生存する上で有利となり、生き残ることになる。
言語を含んだ様々な文化なども、模倣によって集団全体に広がって共通了解となったものと考えられる。
共通了解というものが集団内に広まると、集団としての統制が取りやすくなる。
集団の意思を統一して力を合わせることは、集団全体の生存を有利なものとする。
よっておそらく、集団内で共通了解を守り、個体同士で共感する能力のあるものが現在の我々の祖先になったのだろう。
模倣による情報の伝達と蓄積、共感能力、さらにそこから生まれる集団への帰属意識というものは、我々にとって本当に大切な本能といえるのではないだろうか。
だから、他人と共感できたという感覚は気持ちの良いものなのであり、疎外感は苦痛となるのだ。

00.12.21

十人十色といわれるが、世の中には本当にいろんな人がいる。
100人の人間がいれば、100の真実と現実が存在し、60億の人間がいれば、60億の真実と現実が存在することになる。
当たり前のことだけどね。

00.12.17
 人間とは定められた運命に翻弄されるのみの存在ではありえない。
より存在すべく、より複雑に変化してきた生命の営み自体が選択の証拠と言えなくはないだろうか。
生命はカオスの縁(ふち)において、常に存在すべく選択を行ってきた。
人間も生命であり、縁と縁の結節点において選択を行っている。
目に見えない縁と縁が激しい綱引きを行う中、まれに生まれてくる平衡状態。
そこで我々は選択を行い、結果として、自ら消滅することを拒否したもの。
ただ、それだけが残る。
しかしこれはあくまで「結果として」である。
ある主体がいくら強く存在することを望もうと、いや、そう望むが故に滅ぶことすらある。
結局、大事なことは選択の結果、残るものと、残らないものが出てくる、その1点だけといえる。
それによって全てのものは、より存在する方向へと変化していくのだ。
現在はあらゆるレベルでシステムが存在し、それら全てがある時は共存し、ある時は綱引きを行う。
ただひとつの「より存在する」という単純なプログラムが、我々をここまで複雑なシステムに押し上げてきたのだ。
我々はそのプログラムの主体であり、一部である。
あらゆるレベルのシステムが選択を行い、それに翻弄される中、自分が選択する機会にも出会う。
その時に、自分が思う通りに選択を行えば良いのだ。
ただ、周囲のシステムのことを考えない選択をすれば滅び、自分のことを考えない選択をすれば滅ぶのだろう。
これも所詮は結果論であるが。


00.12.14
 生まれることは、それ自体、罪なのだろう。
なぜなら人は生まれることにより、一つの縁となって世界に存在することになるのだから。
人は生まれながらにして縁という宿業を背負う。
縁に善悪など無く、ただ人を翻弄する。
縁は関わった者を望む、望まざるに関わらず、そのしがらみに引きずり込む。
縁が重ければ重いほど、縁は人に重い鎖を与える。
そしてこの縁の複数の絡まり合いが人を引き裂き、翻弄し、身動きをできなくする。
これは「生きる」という呪いと言えなくはないだろうか?
絡まり合った縁は、影響を受ける主体を正反対の両者、いずれへも導き得るものである。
そして、その結果として、両者のどちら側に転ぼうとも、悩み、翻弄され、導き出したものであるという意味で等価なのである。
栄光も挫折もそういった意味で等価である。
しかし悲しいかな、人間はそれを理解できない。
絡まりあう縁を直接的に感じ取れる感覚器官を持たないからだ。
人間は悲しみと喜びを織り上げて、一つの旋律を奏で、この世を去ってゆく。
ただそれだけの話だ。

00.12.13
少々鬱になっても動くことのできる、また多少なりとも気持ちの切り替えができる自分は幸せだと思う。
本当に不運なのは、鬱になって動く術を知らない人々なのではないだろうか。
鬱のもとになる脳内物質はセロトニンだ。
セロトニンには抑制作用がある。
鬱の人間に「死ぬ気になれば・・・」などという無神経な言葉を使うのはどうかという気がしていた。
鬱というのはセロトニンの作用のために、自ら死を選ぶこともままならない状態を指すからだ。
このセロトニンの影響を振り切るというのは、決して自分一人の力では不可能である。
いや、そんなことはない、という方もいるかもしれない。
しかし、自分の力というものは結局、過去に家族や友人など外からもらったものがもとになっているのを忘れてはいけない。
結局、周りの人々にいろんなものをもらうという幸運のもとに、始めてその力を自分のものにすることができるのだ。
決して自分だけの力によるものだ、とはいえない。
周囲の助けを生かすかどうかという問題ですら、本人によってままならない要素が絡んでくるのだ。
しかし、本人の選択によってどうにかなるという平衡状態も存在しているのではないかと自分は思うのだ。
その時、はたして自分はいかなる選択をしているのだろうか?
そう考えると、いやそれ以前に実感として、自分は恐ろしく無駄な存在だと思う。
存在すればするほど、無駄な存在・・・。
おそらくこれも一面の真実なのだ。

00.12.09
 自分の中には様々な矛盾がある。論理的矛盾、感情的矛盾、感覚的矛盾・・・これらもまたそれぞれ矛盾しあってる。自分はまさしく矛盾の中で生きている。いや、むしろ矛盾そのものなのだ。

クリス・ラングトンが示唆したように、生命が生まれたのはカオスの縁においてだ。カオスの縁はエージェントが秩序と混沌のどちらにも転び得る境界だ。なぜそこで生命が生まれたのか。ある特定の形が生成し、さらにそれを残すということを選べる状況がそこにしかないからだ。混沌による変化と、秩序による維持が混在する状況・・・形の変化と維持が同時に可能な状況。そんな狭間で生命は生まれた。秩序と混沌を組み合わせ、特定の形を作り、それを残そうという意思。それが生命の本質といえるだろう。

生命にとって重要なのは、形を形成するために選択が可能な状況に身を置くことである。選択することが不可能な状況では、生命というものが介入する余地は無い。よって生命は、エネルギーの流れを利用して、自らカオスの縁を作り出すようになったのだ。つまり、エネルギーを用いて、選択可能な範囲を強引に広げるようになったのだ。だから単細胞から多細胞への変化が起こったし、より複雑な仕組みが生まれるようになった。全て、少しでも選択できる範囲を広げ、より存在するためのことだ。

現在、地球上で人間ほど多くの選択が可能で、選択の範囲が広い生き物はいない。人間は多くのエネルギーと、物事を選択するための非常に複雑な仕組みを持っているからだ。繰り返しになるが、生命にとって重要なのは、選択が可能な状況、より良い選択を可能にするエネルギーだ。そういった意味で見れば、金にも、権力にも、腕力にも共通して「エネルギー」というアナロジーを見出すことができる。

人間個人個人の中に存在する矛盾や葛藤はおそらく、選択し得る範囲を広げたからこそ生まれたのだろう。個体の力を寄り合わせ、より大きな力とする。同じ遺伝情報を持った細胞の集合体である多細胞生物と違い、個体同士の集合体の中では、個体の目指すものと集合体の目指すものの間に矛盾が生じる。人間の個体は、幾重にも複層的に重なり合った集団に属する存在である。このそれぞれの集団は、リチャード・ドーキンスの提唱したミームを遺伝情報とする一つの生命と考えることができる。人間は複数の生命を構成するエージェントとして、重層的な生を送っているのだ。そして幾つもの立場の間で揺らめき、選択を迫られる。つまり人間は生命として、選択し、より良い形を作り、それを残すという呪縛を幾重にも受けているといえる。そう、こう語る私自身、ミームによって構成され、遺伝子と矛盾してしまった存在なのだから。

今という時代は一つの個体の属する立場というものが、あまりにも増えすぎてしまったのかもしれない。複数の呪縛に縛られた人間は、やがて動くことができなくなってしまうのだろうか・・・。いや、人間はそれでも選択を行っていくに違いない。DNAをもとにした生命の進化の過程で見られたように、ミームを遺伝情報とした生命にも淘汰はあるのだ。そしてDNAと比較して圧倒的に可塑性に富み、伝達性の優れたミームによる生命は急速な進化を遂げてゆくのだろう。これまで人間というエージェントを媒介として、文明と呼ばれるものが内包する様々な仕組みを発達させてきたように。おそらく、人間というエージェントを失うまで。

・・・と、大雑把に極論で言うとそんな感じなんではないかと自分は思う。