雑記帳2(考察部分)


02.03.03
私を構成する全ては借り物だ。
肉体を形作る全ての物質は借り物だ。
精神を構成するあらゆる情報、狂気、喜び、絶望、悲しみ、憎しみ、全てが借り物だ。
ただ、その仮初の組み合わせのみが私自身なのだ。
物質現象と情報の組み合わせ。
おそらく、きっと、多分。
泡。
そう、泡のようなもの。
仮初であること、とどまらず、変化する過程。
それが私という存在の本質、である。

物質の状態は制限されるかもしれないが、その情報との組み合わせは無限の広がりをもつ。
存在し続けられる、可能な無限の情報の組み合わせ。
こうして可能性の迷宮を、ひたすら彷徨う。
繰り返し、繰り返し、
私の存在と、不在。

訪れるであろう、私の永遠の不在への恐怖は、一体、何処へ行ったのだろう。
すでに失われた、過去の積み木遊び?
今の私。
ただひたすら平坦な絶望。
ただの存在し得ない言葉遊びの羅列?
無意味なはずの言葉は、私の脳内物質とたやすく結びついてしまう。
それは自分だけの現実となって、私を苛む。
当たり前か。

02.02.17
狂気。
そう、自分はいまだ自分の中で恋愛感情以上の狂気に出会ったことがない。
生まれてからの時間の短さのせいか、タイミングによるものか、環境のせいか。
まあ、いずれもが要因だろう。
思うに、人間の正気というものは、複数の狂気による天秤のバランスなのではなかろうか。
なんというか、これまでの経験しjた感情、躁鬱の起伏の最大値が緩衝となって人の精神のバランスを支えているのではないかと思う。
これから生きていくに当たり、自分の生活というものはこれまで経験した程度の刺激を繰り返すだけのものなのだろうか?
確かにそれはそれで、その都度新しいものなのだろう。
いや、どちらかといえば全く新しい違ったものだとは思うが、なんとなくそんな風に思ってしまう。
そんな風に思ってしまうのは、おそらく、これまで以上の不幸や幸福を経験するのは自分にとって非常に恐ろしいことだからだろう。
自分の精神のバランスが崩れて崩壊すること。
これは自分の人生においてある意味本懐なのかもしれないが、すくなくとも今の自分にとってはとても恐ろしいことのように思える。
人生とはままならないものであるが、自分はいまだその方向づけですらままならない。
自分は愚かにも、狂気のままに走ることを拒否してしまう人間になってしまったのだろうか。
狂える自分と舵を取る自分、両方を共存させていけるといいのだが・・・。
・・・まあ面倒なので、やっぱ、どっちでもいいや。
結局、惰性で生きているのが、今の自分であるようだ。

02.01.01
人が生きているということ、自分が存在していることの要諦は周囲との関係性だ。
周囲との関係が自分という存在を浮かび上がらせる。
背景がなければ絵というものが存在し得ないように、空間がなければ物質が存在し得ないように、人は周囲との関係無しでは存在し得ない。
存在する意味を消失し、すぐに存在がなくなってしまうだろう。
いかに生きるべきかを考えるとき、自分のことしか考えられなければ、そのような存在はおそらく幸せではあるまい。
いや、幸不幸は別として、長く存在しつづけることはできまい。
それが生きる上でのルールとなっているから。
単細胞生物が多細胞生物となり生態系を形成したのは、そして人間にまで至ったのは、そのルールを何がしかの形で守ってきたからなのであり、その遺伝子は周囲のさまざまな環境との契約書ととれる。
自らが何らかの行為をするにあたって、本当にそれが他人と自分にとって良いことなのか分からない。
本当にそれができるかどうかも分からない。
それでも、自分なりに人にも自分にも良いことを求めていくのが、人としての幸せへの近道なのだろう。
自分は利己的だし、間違えるし、分かってない。
それは残念なことだが、生きている行為自体がそれを受け入れることを意味している。
それを嘆いても仕方がないのだと思う。
囚人のジレンマゲームにおいて、双方にとって良い道を選べるように行動すること。
喜びを分かち合い、苦しみを分かち合う。
それが人間の本能であり、そのルールに従ってきたからこそ、生物としての人間はここまできたのだ。
今の自分の結論である。
それを教えてくれたのは自分の周りのさまざまな人達、そして昨年の12月22日に亡くなった自分の祖母かもしれない。
これを祖母の冥福を祈る言葉にかえるとともに、これからの抱負にしたいと思う。
でもねえ、やっぱり人間て、思ったからってすぐ変われるものではないけどね(苦笑)。

01.08.04
猿の惑星でちょっと思った。
人間について。
自分は人間というものの本質は、後天的に与えられた情報をもとにした構築物だと思っている。
イメージ的には大豆と共生している根粒菌?それとも ミトコンドリアとか?
つまり、人間という生物に寄生する情報こそが、自分たちの意識というものなのである。
そういう意味では猿の惑星に出てくる猿たちは、本質的には人間といえるのではないだろうか。
その違いは、PC‐98上で動くWindowsとDOS‐V上で動くWindowsといったところだろう。
人間という生物はパソコンみたいなものだ。
ハード、ソフトの両方が揃って初めてまともに機能する。
そんな感じ?

01.04.19
自分の中にあるあらゆる負の感情。
結局、これはコンプレックスとなって自分に跳ね返ってくるものでしかない。
とりあえず自分の場合そうだ。
そして、どーでも良くなる。
でもって、コンプレックスが深まる。
本当にどうでもいいな。
こんなシナプスの伝達パターンである自分は・・・。
・・・
コンプレックスの連環の中で、どんどん自分を嫌いになってゆく自分がいても、時々、そんな自分を冷静に評価する自分が浮上する。
だから、別に問題などない。
・・・と思える時もある。
所詮、自分というパターンは、刹那的なシナプスの重み付けのパターンなのだ。
例えるならば、点描による絵のようなおぼろげな像。
風に流される霧のようにとめどなく変化していくもの。
ただ、相互作用と繰り返しによる焼付けによって確率変動するパターン。
それが自分というものだと、私は自分を認識する。

01.02.09
結局のところ、真実・現実・法則・論理・秩序・正義・善・愛・美・努力・謙虚などなど、あらゆる抽象概念は無意味だ。
人にとって、

 どう感じ、
 なにを思い、
 いかに行動し、
 その結果をどう受け止めるか、

その繰り返しが全てなのではないかと思う。
その文脈の中で初めて、抽象概念も仮初の意味を与えられる。
抽象概念は決して個体間で一致することは無く、その共通部分がアナロジーとして抽出され、社会通念として扱われるようになる。
この社会通念は再び個体にフィードバックし、抽象概念は流動的に変化していくのだ。
少々断定的ではあるが、人が生きること、残ることに固執する存在ならば、そのように有り続けねばならないだろう。

01.01.?
人生は空白だ。
だから、感情と行動を塗りたくる。
人は行動するために存在する。
だから、空白は苦痛なのだ。
行動すれば空白が消え、苦痛も消える。
しかし、行動を誤れば更なる苦痛が待っている。
だから、行動する時は、間違えないように、間違えないように、気を配る。
間違いを怖れ、行動を停止すれば、また苦痛が待っている。
誤りは必然だ。
おそらく、過ちを犯しながらも生き続け、過ちを減らしていくプロセスを辿ること、それが望ましい生き方なのだろう。
しかし、人とは不思議なものである。
成功のみならず、失敗ですらパターン化されるのだ。
いや、この書き方は正確ではないかもしれない。
ある特定の個人が持つ、特定のパターンが存在し、それが行動のフィードバックにより強化されていくのだ。
ここで問題となるのは、フィードバックの要因となるのが成功失敗云々ではなく、刺激の絶対的な強さであるところだ。
自分という骨格・・・好み、癖、性格、行動、考え方・・・不断の日常によって強化されたパターン。
強化された神経のネットワーク。
人は自分という唯一無二の存在を、日常からの刺激を塵のように積み上げて形作ってゆくのだ。
自分自身というものは、過去の軌跡そのもの、刺激や思いの積み重ねといえる。
しかし、最終的に、神経細胞の死によるネットワークの崩壊と共に、全ては潰える。

01.01.02
 恐怖は人間を突き動かす強い感情だ。
昨日、『羆嵐』を読んで実感した。
特に闇に対する恐怖、これが実感として著しく大きい気がする。
これはなぜなのだろう?
目が見えないということ、いつも感じることのできる光が、感じれなくなるということ。
人間は視覚に大きく頼っているために、その喪失感が大きいのだ。
視覚がなくなった世界は、もともと視覚に頼っている人間にとっては未知の世界だ。
喪失感の大きさや、未知の世界に対する不安が、まず恐怖の土壌となる。
そして次に、未来を予測できる能力、それが恐怖の対象を作り出す。
いまだに起こっていない、未来という物語を自分の中に勝手に作りだし、それに恐怖するのだ。
たとえそれが現実的には起こり得ないものであっても、当の本人にとってはリアリティを持った現実の恐怖なのだ。
分かっていても、怖いものは怖い。
そして分かっていなければ、なおさら怖い。
だから人間は恐怖の対象を知ろうしてしまうのだ。
それによって恐怖のみに塗り固めた物語を打ち壊し、新しい物語を作り出すことができるから。
まあ、逆に遠ざけるって手もあるんだろうけど・・・。
あとは闇雲に否定して、壊そうとしたりね。
確かに自分は昔、クマの絶滅を心から願ったなあ。
ちゃんと考えるとアホだとは思うけど、そういうもんだよなあ。
自分は宗教こそがその最たるもんだと思う。
未来という物語を作り出す能力に長けた人間は、それだけ怖がりで、憐れな存在なのかもしれないねえ。