雑記帳3(考察部分)
02.06.29
自分にとって哲学とは何か。
与えられた環境下での経験からくる、思考および行動、そしてその結果である。
なぜならば、それだけが自分にとっての本当のことといえるからである。
すなわち、自分の人生の軌跡こそが、自分にとっての哲学というものなのではないだろうか。
そのように感じた。
03.03.27
免疫における自己認識というものがある。
免疫というものを働かせるには、自己というものを認識しなければならない。
この場合、自己というものをどのように認識していくのか。
それは、外界の刺激に触れることによって、一つ一つ自己と外界の違いを認識していくことによって行われる。
外界との違いの認識の一つ一つが自己の輪郭となるのだ。
自己認識というものは個々の外界との相互作用をとりまとめて、総体として止揚したときに生まれる、一つの構造ではないだろうか。
そしてこの構造を反復によって生まれやすいように訓練することにより、自意識というものになるのではないだろうか。
そんな気がした。
あれ、ちょっと免疫のとこから離れて、精神のほうの自己認識になってしまった。
02.03.25
意識は、外部世界と内部世界の狭間において自己組織化される、一時的な構造である。
構成された意識は、外部世界には行動として、内部世界には脳内物質などとして双方に影響を及ぼし、フィードバック的に働く。
行動は社会、生態系といったシステムを構成する力となり、意識は再びその影響を享受することになる。
内部世界においては、脳内物質やシナプスの伝達物質などが、神経のネットワークの繋がりの強さ、広がりに影響を与える。
これも当然、意識のほうにフィードバックし、その構成時に影響する。
これが、現在の自分の意識というものに対する、自分の認識だ。
そう、意識というものは、外部環境、内部環境の相互作用によって形成される、永遠の仮初なのだ。
我々生物は、行動し、考えることにより、環境をより良く変化させた変異体が残ってきた。
行動し、考えることは、必ずしも良い結果をもたらすものではない。
しかしながら、行動し、考えない者に福音が訪れることは、決してない。
03.03.23
エンロンの崩壊を見て思った。
資本主義がうまく機能するための条件として、人としての誇りや道徳心が金銭の価値を上回る必要があるのではないだろうか。
金銭を手に入れるためには、心を捨てるのが最も効率的だ。
しかし、心を捨てきることのできる人間が少なく、また、心を捨てることが人にとって幸せを意味しない以上、それぞれが誇りや道徳心を抱くことが重要となる。
幸せは心を耕してこそ手に入れることのできる、農作物のようなものだ。
深く耕せば、それだけ豊かな実りを期待することができる。
上手くいかないこともあろうが、失敗をばねにし、手をかけてこそ、豊かにもなれば、美味にもなる。
そういうものではないだろうか。
まあ、万人に共通する豊かさや、美味しさというもの自体は、存在し得ないのだが。
しかし、一つだけいえるのは、可能性の地平を探ることができるのが、ただ、生きている間だけということである。
02.03.22
マスコミはその性質から、共同幻想製造機関とも取れる。
その中でも、テレビ、新聞は最大の共同幻想製造機関といえよう。
瞬間的に人々の間に共通のベクトルを作り出す、そのためには最も適している。
(時間はかかるが、最も有効なのは、小学校などの教育機関の、指導要領などかもしれないが)
しかし、これらマスコミの与える情報の切り口には、どうしても偏りが生まれる。
そう、資本主義社会においては、意識的にしろ無意識的にしろ、全ての場合において金銭の流動が絡んでくる。
金銭とは、いうなれば、あらゆる物に変換することのできるエネルギーという幻想である。
変換できる物、範囲、レートは共通了解によって変化する。
マスコミは当然ながらそれを変化させる力を持ち、その変化が再びマスコミにフィードバックする。
現在、ほとんどの資本主義国家においては、情報が多様化し、ベクトルが偏ることが少なくなってはいる。
情報が多様化しすぎているため、個人が情報を選択するのですら、難しいのである。
しかし逆にそのことが、テレビ、新聞といった巨大マスコミに力を与える結果を生んでいるのかもしれない。
多様な情報のうち、最も広く行き渡り、理解しやすいテレビや新聞が、どうしても一歩ぬきんでる結果を招いてしまうからだ。
また場合によっては、テレビ、新聞内ですら、その情報の多様さから、全ての重要な情報を提示しているような錯覚を、人々に与えるのに成功しているのかもしれない。
そして人々は次々に提示される情報によって、見事に踊らされる結果となる。
この場合、次々と情報を与えられることによってネットワークが定まらず、移ろい安定した構造を取りにくいというのが救いなのだろうか。
もし、現在見られる一部の社会主義国家のように過度な情報管制を行えば、まとまってはいるが硬直したネットワークを形成することとなり、流転する世の中の中においては、大きな崩壊を強いられる結果となる。
人々のネットワークは、人間の体内において例えるなら、人間を一つの神経細胞とした脳のようなネットワークと取れる。
テレビや新聞は、その影響力から、目や耳と取れようか。
目や耳から入ってきた情報で多くの神経細胞が興奮し、それが他の神経細胞にも波及し、意思決定を行っていく。
そうだとしたら、日本というのはどんな国、いや、人だと考えられるだろうか。
多すぎる情報に翻弄され、結果的に享楽的な情報を選んだり、また、考え、それが過ぎて迷い、悩む。
そのせいで、体の動かし方もろくに覚えることもできずに、その潜在能力を生かせずに衰えさせていく。
まあ、人間だったらそんなタイプのイメージなのではなかろうか。
引きこもりの、プライドだけ高い、もと秀才、こんなところ?
自分個人が感じたイメージはそんな感じだが、実際はどうなんだろうか?
個人、法人、民族、国家、人間、生物・・・集団には色々な単位がある。
それぞれの集団の内外にはネットワークがあり、互いに相互作用している。
この場合、その内外のネットワークの狭間において、一時的に構成される構造というのは、意識と呼べるものなのではなかろうか・・・。
なんとなく、そう思った。
いや、意識と呼べるレベルのものが生まれるには、構成要素の密度など、いろいろ必要な条件が多いとは思うが。
あと、もしあるにしても、意識という構造と比較した場合、共通点があるって程度なのだろうが。
02.03.15
『ダンサーインザダーク』が自分にもたらした波紋は、割合大きなものだった。
しかし、それを記録する暇もなく、その波紋は小さくなっていってしまった。
残念。
でも一応、断片だけでも探してみることにした。
大切なものを失うことへの不安。
視野狭窄。
命より大切なもの。
それが金銭により贖えるものであったなら・・・
願いは金銭という同軸上に乗ることになり、ぶつかり合う。
愛するがゆえに、恐怖に囚われ、視野狭窄となった愚かさ。
可能性の空間を探ることもできずに立ちすくみ、最も愚かな選択をしてしまう。
その選択は時として周囲に大きな歪みをもたらす。
そしてその歪みは、この世界において決して珍しいものではない。
世界は変わらない。
しかし、それは酷薄にも、幸にもなり、不幸にもなる
生き物にとって、苦痛や快楽、幸不幸、葛藤や矛盾こそが、自らを残すために必要なものであったのであり、必然的な業であるといえる。
いくつかの状態をゆらゆらと行き来することにより、選択と行動を行う。
そしてその結果として、残ることができるのかどうかということ。
その原因が幸不幸どちらであろうと、さして重大な問題ではない。
強いていえば、その両方が必然であるのだ。
ゆらゆらと揺らめいて、ただ残ってゆく構造物。
個人的には、それが少なくとも自分にとって美しいものであればな、と思う。
なんとなく、そう思う。
生き物一つ一つは一つの構造物であり、世界と相互作用する限り、その中には一つの世界がある。
世界。
決して交わることのない、ただ、個々の実感のみの。
ここでちょっとずれてしまうが、共時性、共感という幻を実感すること。
これは人間にとって結構、切実な問題かもしれない。
ああ、そういえば、人間という存在自体が、人と人との関係の中から生まれたシステムだったっけ。
共時性や共感という実感なくしては、人間の精神というもの自体が成立し得ないのかもしれない。
・・・まあ、とりあえずそんなとこか。