第一章 インドに関する概略
 
第一節 インドの基礎データ

 インドの国土面積は3288000kuと日本の9倍の広さを持ち、世界第7位である。現在の人口は2001年の国勢調査によると、1027015247人である。この10年間で人口は2億人近く増加した。国語はヒンディー語であり、英語は政治等において使用されるofficial languageとして位置付けられている。宗教ではヒンドゥー教の人口比率が最も多い。しかし、インドでは他のイスラム教などが国教となっている国とは異なり、ヒンドゥー教を国の宗教には指定していない。独立後インドは「政教分離(セキュラリズム)」を原則とした国家運営を行ってきたのである。

第二節 インドの経済指標

1970年のインドのGDP529億ドルと世界第8位であり、発展途上国の中でそのGDPをしのぐ国は一つとしてなかった。1999年にはGDP4422億ドルであるが、これは人口が巨大なためであり、一人当りのGNP450ドルと依然として低開発国の中にとどまっている。

 しかし、経済成長率については独立以後4%‐6%と推移していたが1991年の自由化以降、GDP成長率は比較的高水準を保っていた。とくに外貨危機の影響で生産が停滞した1990年、1991年を除けば、GDP成長率は年率6.3%を記録した。(表1-11-2参照)


表1-1 経済成長率の推移

(年率、%)

 
 
50年代
60年代
70年代
80年代
90年代
92-98年代
GDP成長率
4.0
4.0
3.0
5.9
5.7
6.3

注 90年代は、90-98年度

出所 Government of India, Economic Survey 1999-2000

表1-2 90年代の経済成長率の推移

()

 
 
GDP成長率
農業
工業
サービス業
1990

91

92

93

94

95

96

97

98

5.4

0.8

5.3

6.2

7.0

7.3

7.5

5.0

6.8

4.8

-2.5

6.1

3.7

5.0

-0.9

9.6

-1.9

7.2

7.2

-1.7

4.2

6.6

9.2

11.8

6.0

5.9

4.0

4.3

5.3

5.4

7.7

7.0

10.3

7.1

9.0

8.3

出所 Government of India, Economic Survey 1999-2000
 

 インドは独立後、確実にその産業構造を変化させてきた。インドにおける農業者はかなりの人数であるが、経済自由化を境に観光業、保険業、ソフトウェア産業といったサービス業の創出するGDPが増大してきた。(表1-3参照)
 
1-3 インドの産業構成
()

 
年度 農業 工業 サービス業
1965 44 22 34
1980 37 26 37
1990 31 29 38
1998 29 25 46

出所 World Bank, World Development Report(各年)

 
第三節 インド工業化発展の挫折とIT産業の勃興

インド独立直後は「社会主義型社会」を目指すJ・ネルー首相によって五カ年計画が始まった。それは自立的な国民経済を建設するためには自国の生産財産業を持つことが決定的に重要であるという価値観に基づき、重工業などの基幹産業は国家部門が握り、消費財産業とサービス産業を民間の手に委ねるという、公企業に重点が置かれた混合経済のシステムであった。そして、マハラビノスの成長モデル、産業(開発・規制)法、産業政策決議はネルー時代の開発戦略の基本的な枠組みであったのである。

 しかし、これらの開発戦略は1960年代半ばの政治経済危機と「自由化の失敗」を転機にして1969年から1973年にかけて大きく変容した。企業への政府の介入が増大し、公企業は消費財生産部門やサービス部門にまで進出、またあらゆる部門にライセンス制度がはびこり、貿易統制、価格統制、金融統制、流通統制が強化された。さらに、パキスタンとの国境紛争の再燃や、二年間にわたる旱魃によって、インド経済は長期にわたる停滞を余儀なくされたのである。

 インド政府は世界銀行からの借款に依存、ルピーの切り下げや、製造ライセンス品目の若干の規制緩和、輸出補助金の削減などの自由化措置を採用した。しかし、パキスタンとの関係悪化を理由にアメリカがインドへの援助を打ち切ったことで、世界銀行からの援助は削減され、一連の自由化政策は成果をほとんど上げることができなかった。

 その後、インディラ・ガンディー政権下で、「社会主義路線」による統制が強化された。このころ、外国からの自立を求めて高収量品種の導入による「緑の革命」戦略が導入された。そして、その戦略を支えるための農業金融の強化と公共部門への資金供給ルートの確保のために1969年には主要商業銀行14行が国有化された。

 しかし、1970年代に入ってもインド経済は停滞から脱出することができなかった。そして、不順なモンスーンや第一次石油危機などの影響もあり20%を超えるインフレが生じた。その後インディラ・ガンディー首相は非常事態宣言を発したが、国民会議派は選挙で大敗し、ジャナタ党政権が発足、規制緩和策を出した。その後、緑の革命の成果もあって、1977年以降食糧自給が達成され、外貨準備金も1974年度の61億ルピーから1978年には522億ルピーへと増大した

 1979年再び経済危機が発生し、ジャナタ政権は崩壊する。そして、19801月の選挙で再びインディラ・ガンディーが政権に返り咲くことになる。インディラ・ガンディー政権の下で政治的規制は強化されることになったが、財閥資本に対する規制緩和やIMFからの巨額の借款に依存することで経済危機は克服されようとしていた。インドの経済自由化が本格化したのはこの頃のことである。

インドは重工業化を目指した輸入代替工業化政策が失敗し、国内生産力は生み出したが、国際競争力を持つことができなかった。そうした状況のなかで誕生したのがIT産業だった。

 インディラ・ガンディー首相暗殺後に政権を引き継いだラジーブ・ガンディーは、自由化を更に進め、そのなかでも民生用電子産業における近代化推進が目玉となった。この段階でインドはIT産業を政府の戦略として取り組み始めるのである。そして、この分野での外資導入の許可や、電子製品を中心とする製品輸入の大幅な自由化を断行したのである。

インドは自由化以前はほかのアジアの発展途上国などと比較すると輸出依存度が低かった。これはインドのIT産業が軍事・行政目的に主導されて発展してきたことによる。さらに、インドの輸入代替戦略がIT産業にもとられていたため、高コスト体質をつくりあげていたのである。

そうした産業構造を改革する手段として、ラジーブ政権は198411月「新コンピューター政策」を発表する。

1 コンピュータ製造に関するあらゆる規制をDepartment of Electronic (DoE)に一本化する

2 コンピューター製造を公共部門・民間部門を問わずあらゆるインド企業(外資出資比率40%以下)に開放する。ただし、メインフレームのCPUおよびスーパー・コンピ ューターの製造は向こう2年間公共部門に限定される。

3 組織部門の生産能力制限(年間総生産額2000万ルピー、5システム)を撤廃する。

4  Computer and Computer-based-Systemsという新しい産業分類を導入する。ソフトウェアの開発・製造もこの分類に含まれる。

5 コンピューター投入材の標準化の促進。

6 コンピューター輸入は最終利用者にのみ認可される。

同政策の中心はハードウェアに関するもので、ハードの輸入関税が大幅に引き下げられるなど、当時としては画期的な自由化政策だった。この政策でITを国際競争力のある輸出産業に成長させようとしたのである。198612月には「コンピューター・ソフトウェア輸出政策」が出される。これはソフトウェア輸出の促進を促すものであった。

1 ソフトウェアを輸入自由化品目(OGL)に指定する。また、OGLで輸入されたソフトウェアに対する従価税を、現行の145%から60%に引き下げる。

2 輸入ライセンス、およびマンパワー開発のため外貨使用ライセンス発給手続きを一本化する。

3 業者に対しては輸入引き当て外貨分の250%の輸出が義務付けられ、この条件を満たさない場合には重いペナルティーがかせられる。

これらのIT産業自由化の特徴は「外資導入」と「輸入自由化」によって技術力向上を目指している点である。それに加えて、アメリカに端を発した「IT革命」の熱狂にインドがうまく乗ることができたことも、現在の国際競争力を持ったインドIT産業成長の理由としてあげられるだろう。