元収容所跡の建物の内部には、ここで死亡した人々の顔写真が展示されている。写真が残っているのはもちろん亡くなった人たちのほんの一部でしかない。

 ドイツ第三帝国はさまざまな宗教・政治思想の人、捕虜と一般市民、強制退去させた町や村の住民、偶然手入れの時に捕まえた人、そして人種として絶滅させる予定だった人々をアウシュヴィッツ収容所に送り込んだ。
 SS司令官ハインリッヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ収容所をユダヤ人の絶滅センターに選んだ。その動機を所長のルドルフ・ヘスは、回想録のなかで次のようにヒムラーのことばを引用しながら説明している。「これより東にある虐穀場では、大規模な行動が実現出来ない。そこで私はその目的のためにアウシュヴィッツを選んだ。交通上の立地条件は有利で、しかもこの地域を周囲から隔離して、遮断することも可能だ」。すでに1942年1月にユダヤ人の大量虐殺が始まった。最初の死を宣告されたユダヤ人が、シレジア地方と総督管区(ポーランド)からアウシュヴィッツに護送されてきた。また、春になるとスロバキア、フランス、そしてベルギー、オランダのユダヤ人も大量に送られてきた。そして、秋からはドイツ、ノルウェー、北ポーランドとリトアニア、またほかの占領された国々からもユダヤ人が連行されてきた。
 ナチス・ドイツがソ連を攻撃して間もなく、アウシュヴィッツにはソ連の捕虜もまた収容されるようになった。収容所へ12,000人の捕虜が送られてきた。そしてほぼ5ケ月以内にそのうちの8,320人が命を奪われた。ある人は毒殺され、ある人は銃殺され、残りは衰弱し、死んでいった。その犯罪の証拠の一つ1こなるのは、その奇怪なる死亡者名簿である。この名簿は博物館に保管され、何ぺージかの複写が展示されている。
 特に着目すべき点は、5〜10分の間に死んでいった捕虜の死に対して偽の原因が書込んである名簿である。
 また。アウシュヴィッツ収容所は、約21,000人のジプシーの虐殺場でもあった。その証拠の一つは、囚人によって盗まれて隠されたジプシー収容所の囚人名簿である。その複写も辰示されている。

 アウシュビッツ収容所2号「ビルケナウ」跡。映画「シンドラーのリスト」でも使われたこの収容所は、アウシュビッツ1号収容所から3キロほど離れたブジェジンカ村に造られた。写真に見える線路の果てにガス室があり、その向こうは森になっている。広大な敷地に建てられた収容所で、線路の左側が女性用収容所に、右側が男性用収容所として使われた。
 アウシュヴィッツ収容所へ殺害されるために送られてきた人々のほとんどは、東ヨーロッパに移住させられるだけと信じていた。特にギリシアとハンガリーのユダヤ人たちは騙され、ナチスから存在しない農場、土地、商店などを購入した。また収容所に着いた人たちは自分の財産の最も価値のあるものを持参していた。

 逮捕された人たちのなかには、2,400キロもアウシュヴィッツから離れたところから運ばれてきた者もいた。この人たちは、多くは密閉された貨車で、食料なしで旅をさせられた。貨車に身動きひとつできないほど押し込まれ、オシフィエンチムに着くまで7日間から10日間も旅をさせられた。
 列車はオシフィエンチムの貨物駅、そして1944年からは、ブジェジンカに特別に設けられた鉄道引き込み線(積み下ろし場)に着いた。ここでSS将校とSS医師が選別を行った。労働できそうな人たちは収容所に入れられ、仕事ができないと判断された人たちはガス室へ行がされた。ルドルフ・ヘス元所長の証言によると、選ばれてきた人間の70から75パーセントがガス室へ送られていたという。

 第2焼却炉・ガス室では、「シヤワーを浴びさせる」とSS隊員に騙された人々が洋服を脱がされ、シヤワー室にみせかけた地下の部屋まで歩かされた。天井には水が出たことのないシヤワーが取り付けてあった。210平方メートル(約636坪)の部屋に、約2,000人が押し込まれた。そして、扉を閉じてから、天井の穴からSSの衛生兵がそのなかへチクロンBを投入した。なかに入っていた人間は、15分から20分のあいだに窒息して死んだ。その後、死体から金歯が抜かれ、髪の毛が切られ、指輪とピアスが取られた。そして死体は一階にあった焼却炉へ、そして死体が多すぎる時には、積み上げるために外へ運ばれた。博物館の部屋の壁には、ある囚人か1944年に密かに撮影した写真が展示されている。その写真は、ガス室へ向かう女の人たちと積み上げた死体を焼く場面である。

大量虐殺に使われた毒薬、チクロンBの空き缶の山。

 チクロンBという毒薬は、デゲッシュ社が生産し、1941年から1944年の間にそれで約30万マルクの利益をあげた。
 アウシュヴィッツだけで、1942年から1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用された。ヘス元所長の証言によると、約1,500人を殺すのに6から7キログラムの毒ガスが必要だった。開放後、収容所の倉庫には使用されたチクロンBの缶の山が残り、中身の入った缶もあった。陳列戸棚にはチクロンB結晶のほかに、アウシュヴィッツ収容所からデッサウのデゲッシュ社へ毒ガスを取りに行かせた命令書が何枚も展示されている。