11月26日レジュメ 文責 田井 一成

レジュメ1

大阪の沖縄人社会

 

@     関西への流入の背景

1920’s 沖縄経済の長期低迷(ソテツ地獄)

 大阪労働市場における大規模工業部門(熟練工)の拡大と紡績部門(単純労働)の下落

→経営維持のため安価な労働力が必要

→沖縄出身者の集中的雇用

 

A     戦前の沖縄出身労働者の属性

・低賃金でもよく働き酷使してもかまわない(被差別的性格)

・20年代の関西沖縄県人会における左派労働運動(反差別的性格)

 →『同郷人=沖縄人』という結集軸−労務管理における差別を想定

・労働運動などに見向きもしない『従順』な労働力(差部−反差別では捉えきれない側面)

→『同郷人=沖縄人』の否定(B)

B     自失に向かう同郷性

在日朝鮮人などとは異なり、上向可能な流動性を持った差別構造であった。

(差別的賃金体系が存在したのではなく、低い供給価格に起因するため)

差別からの脱出=順従で優秀な労働者になること(具体的には熟練労働者への上向)

        →技能以外に、「沖縄人」と「日本人」という対になった標識による測定

「沖縄人」を払拭し「日本人」になること

体系化された沖縄文化の抑圧ではなく、沖縄語での語らいといった沖縄出身者の日々の営みのなかに払拭すべき「沖縄人」が見いだされた。同郷的結合組織(県人会)が結集軸である「同郷性」の自失へと機能した。(1930’s生活改善運動)

→しかし、熟練化した層においても、その生活は同郷性に基づいたもの(同郷人の斡旋で成り立つ労働市場、沖縄人を対象とした自営業者など)であり、ジレンマに陥ることになる。

C 『沖縄性』を取り戻す動き(70’s〜)

1970年代、集団就職の沖縄人への精神的差別に対して、在阪2世などを巻き込んで押し殺していた沖縄人のアイデンティティを表現する動きがおこる。具体的には、かじまるの会によるエイサー大会の開催(今年で29回目)である。また、活発に沖縄文化の発信を行う関西沖縄文庫などの組織も開設された。現在、エイサーの担い手には本土出身者も多く、これらの新しい組織は、単純に同郷人結合組織とはいえず、異なった側面を持っている。

 

 

レジュメ2

大阪大正区平尾『沖縄風ホルモン焼』店主 沖縄2

 

最初、北恩加島に住んでいた。(移住してきたころ)平尾はねぎ畑だった。北恩加島はくぼ地だった。雨が降れば浸水する。北恩加島に住んでいたウチナンチュは大正区全域に分散していった。埋め立てた北恩加島にも多く集住している。平尾への移住は昭和29年から。大正区人口6万、三分の一が沖縄出身。なかでも北恩加島、平尾に住む人は多い。

沖縄といえば豚。昔からたべている。泣き声以外は全部食べる。こっちではホルモンというがむこうでは違う。大阪では豚というだけで敬遠された。内臓(ホルモン)といえば毛嫌いされた。いやな目で見られた。それが戦後、徐々に見直されていった。昭和30年ぐらいからこの商売を始め50年近くになる。ホルモン焼きを一番初めにやったのは肉屋。沖縄出身の肉屋が内臓をバラで、秤で売っていた。それを串焼きにして売り始めた。西成、大正など沖縄の人が多く住む地域にはだいたいある。しかし、みな沖縄風とはかかない。

北恩加島小学校のときは沖縄の人が多いので差別はなかったが、港区(港新地)あたりでは、こういう言い方はわるいが、「朝鮮人、琉球人、シナ人お断り」の看板が出ていた。なんかしたらすぐ琉球人といい後ろ指さされる。そうやって差別されて生きてきた。そういうなかを育ってきた。沖縄の人たちは沖縄の人たちで集まって住む。沖縄の人の住むあたりには朝鮮人、朝鮮の方も住む。貧しいところに住んでいる。そういう目で見られてきた。沖縄県は明治12年(琉球処分)からで、島津が征服したというのがあるから偏見があった。

沖縄ブーム、ええことやと思う。昔みたいに差別されたらどうしようもない。自分は会社人間やった。日本でも五本の指に入る橋梁メーカーで勤めていた。昭和37年、沖縄の人は自分だけやった。それまでは沖縄というだけで採用されなかった。その当時は(そういう差別が)なんぼでもあった。昔はええ歌ができても売れない。いまは沖縄の歌がどんどん売れる。昔のことを思ったら今はええ。たしかに今でも沖縄は軍事的に支配されている。ええ場所は米軍に支配されている。もちろん反発する。しかし、あれで生活している人もいるからどっちがええかは分からない。沖縄が復帰したときに三つに分かれた。復帰派、アメリカ派、それと、もとの琉球王国にかえる(独立論)という人も少数ながらいた。いまだに独立論者はいる。アメリカ世、日本世、琉球世という。そういう言葉をつかう。

いまは、(大正区に)沖縄村があると思って修学旅行の視察に来る。この前は三重からきた。実際、沖縄村はない。むかしの北恩加島はほんまに沖縄村やった。朝から晩まで沖縄方言。朝から三線もする。そうやって故郷を離れた寂しさを紛らわした。いまはばらけた。このごろ、沖縄ブームで沖縄の店も増えた。舞踊をみせる店もある。こっち(本土)の人のほうがようけいく。エイサーのときも客がものすごく来る。豚のホルモンをめずらしがる。

沖縄の人がなぜ豚を大事にするか。食べ物も少ないし、蛋白源は肉が主やった。噛み初めではじめに口にするのは、沖縄では三枚肉の角煮。絶対祖先崇拝、豚肉を供えて先祖に拝む。生まれてから、冠婚葬祭、法事、葬式、すべて豚肉。豚肉を使わないと願いはかなわん。祖先への感謝をこめて豚肉を食べる。いまでもこのあたりにはその風習が残っている。

このへんでは南米から帰ってきた人はあまりいない。本島(沖縄)には多い。身内、祖先の墓があるから。大概、祖先のいるところに帰る。

いったん、大阪に出てきて移民する人もいた。ヤマトで儲きてぃ、ウチナーで家たてたる。農業しかないから貧しかった。いまでこそ裕福で行き来できるが、むかしは借金して出稼ぎする。統計を取ると、移民の多さでは広島についで二番目。貧しいから皆出て行く。香川県の人間、山口県の人間は大阪にはほとんどいない。なぜなら裕福やから。

沖縄と中国福建は昔から交流があった。日本は鎖国していたが沖縄は中国、インド、フィリピン、東南アジアと貿易をしていた。あらゆる文化が入ってきている。沖縄の音楽も日本とは違う。東南アジアと似ている。日本よりもアジアの影響が大きい。それを誇りに思う。ひとつの国だった。いちゃりばちょーでー(会えば兄弟)、ユイマール(結い)は一種のボランティア。楽しいときも悲しいときもともに助け合う精神。助け合いがあるから今の沖縄は仕事もないのに明るい。それは琉球王国から続いている。平均的に(一概には言えないが)外に対しても助け合う。

復帰のときの大正区、貧しく苦労して出てきてるから、日本に返還されたら裕福になると思った。パスポートもいらなくなる。検疫もなくなる。自由に行き来できる。復帰を歓迎した。ミヤギキョウイチさん、県人会の会長が復帰のとき熱心に活動していた。戦前は差別があったが、沖縄戦で沖縄(地理的な位置)がだんだん認識されはじめた。いまでは、沖縄の人がうらやましがられる。持ち家率も高い。それだけがんばってきた。貧しさから抜け出ると、認められる。いまは自慢して沖縄といえる。沖縄の人はあまりものを言わぬがまじめ、自分はそれを認められて会社で技術を身につけた。出世した人はたくさんいる。反骨精神、ナイチャー(内地の人)にまけてなるかという精神があった。