『FREE CULTURE』を読んで
−法と規範、物質と情報−

1.はじめに
 本書について、まずは共有ファイルを探し出す検索エンジン、「カタログ」を作った少年が訴えられた、という話について考えてみたい(日本でWinnyの作者が逮捕、裁判が開始されたこともあるし)。この新たなメディアを悪用したから彼らは悪いのか?マクルーハンはメディアの問題が使う人によるとすることを「現代の夢遊病患者の意見である」(注1)として非常に嫌った。「新しい技術形態の中で自分自身が切断され拡張されていることにいい気持ちになっているナルキッソスといった体で、メディア、いっさいのメディアの本質を無視している(中略)どんな技術も既存のものにそれ自体をただ付加するだけなどということはありえない」(注2)。個人的には悪意を持って新しいメディアを使った人物に対してはあまり同情の余地はないと考えるが、だからといって新しいメディアを切り捨てて(自分自身が切断されて)いいということにはならない。それは意味を作り変えてしまうものであり、どうも不可逆的であるものなのだ(身体の変化とそれにともなって受け取る意味の変化が不可逆であるように)。罪を憎んで人を憎まないことに僕は賛成であるが、この件に関して言えばそもそも罪とされているものは罪であるのか、ということを考えなければならない。
 そしてそのことを考えるのに有効であるのが、著作権のそもそもの成り立ちである。実は日本でこの種の研究例は多く論じられており、白田秀彰が『コピーライトの史的展開』を著し、最近でも名和小太郎が『ディジタル著作権』を著した。また、webサイトで著作権がどういったものかについて歴史的な見地を考えずに論じることに増田聡は苛立ちを隠していない(注3)。その理由についてかなりの部分を本書で理解することができる(注4)。日本の著作権関係に携わっている人たちがすでに書いていることを翻訳書で読むということは不勉強さを露呈していると言われても仕方がないのかもしれないが、大事なのはこの著作権史を常識化することであると思う。そのためだけにもこの本は読むべき本であるだろう。ただし、以下では僕の読んだ『FREE CULTURE』として、もう少し(独善的ではあるが)深く論じてみたい。

2.法と規範
 レッシグの主張はすごくシンプルだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。この一言で本書の、それどころか前の二著作である『CODE』、『コモンズ』の議論は要約されてしまう。しかし、これらの本の中で何が「過ぎたること」をしているのか、それについては若干異なっているところがある。
 『CODE』ではリバタリアニズム的考え方が、自分の首を絞める結果になってしまうという逆説的な結論を導き出すということを「アーキテクチャ」という概念を用いて論じた。またその意味で、『CODE』がネット空間だけの話としてとらえられてしまったというのもわからないことではない(注5)。また、『コモンズ』では邦訳の副題にもあるとおり、ある程度の著作権フリーな空間をネット上に残すこと、その方が結果としていいものがたくさん作られるのだ、現実世界上でも実際誰でも使える空間を残すことで私たちは発展してきたではないかという「市場」的なことを論じている。『コモンズ』においてはサイバースペースについて現実空間を引き合いに出して論じてはいるが、やはりそれは現実空間が持つ事実をもとに、サイバースペースについての説明に紙面の多くを割いていた。
 ただし、本書の議論は少し違う。「カタログ」の章で検索エンジンを改良した学生、そして何より「エルドレッド」の章で書かれている問題が示すように、今回はサイバースペースの起こす問題が現実空間に多大な影響を与えつつあるという、これまでのサイバースペースにおける自足的な影響関係、もしくは現実空間をモデルとして、現実空間からサイバースペースへ影響関係とは違う、全く新しい影響関係が生まれていることを論じている。そしてそれは彼の議論に使われるコントロールの四概念(法、市場、規範、アーキテクチャ)のうち、これまではアーキテクチャや市場といった概念を使って論じていたものが、残り三概念それ自体をコントロールしうる概念である法という概念を問題にせざるをえなくなったということにほかならない。
 ちなみに本書は一般向けに書かれているということもあるがレッシグの議論の核となる「法」、「市場」、「規範」、「アーキテクチャ」についてわかりやすい説明がなされており、より深く考えることができるようになっている。レッシグ自身や訳者も含めた日本人による同人誌市場を説明している箇所があるが(注6)、それは日本の状況をアメリカに紹介するということともに、日本の読者の立場からすればいわばこのコントロール分析の四概念の紹介になっているとも言える。この四概念について論じる際の重心の移し方については先に前二著との比較を行ったが、これを日本で適用するならばどうなるか、ということについて同一点、相違点の簡単な例を挙げておこうと思う。
 相違点の方から考えてみると、日本の場合は特に規範的コントロールが強いということが挙げられると思う。吉本隆明であれば十七条の「憲法」がそもそも法というよりは道徳だ、ということを指摘するかもしれない(注7)。例えば、レッシグもとりあげていた同人誌の中でも、ポケットモンスターのピカチュウ事件があったことを指摘できる(注8)。これは一応著作権侵害という理由の上で逮捕されているが、あれだけ数のある同人誌においてこれだけが逮捕になるのは法以外のコントロール、それもアーキテクチャでもなく市場でもない、規範のコントロールにあることがわかればすっきりと整理することができる。
 しかし、それは規範に触れるのであればアーキテクチャの改変が違反行為であることにもつながり、残念ながらアーキテクチャの改変は(それが法か規範かという違いはあるものの)規制される傾向にあるという点では日米間に変わりはない、と言えるかもしれない。例えばゲームの命名という場面を考えてみよう。ドラクエ5の主人公の命名や恋愛シミュレーションにありがちな主人公の命名はアーキテクチャによって規制されているが、同じようにアーキテクチャを改変、つまり自分の好きなように名前をつけられるようにすれば、前者は罰せられることはないと考えるだろうが、後者はその逆であろうと思う(注9)。以上のことから、僕自身は日本の法によるコントロールは意外と少ないと同時に、その分が規範によってコントロールされているのではないかと考える。規範によるコントロールは確かにレッシグにとってはアメリカの伝統が「アメリカ以外の文化で実に生き生きと息づいている」(注10)ように見えたことだろう。ただし、規範によるコントロールは一方で非常に不明確なコントロールとしても機能してしまう。法と規範のバランスについては、それはレッシグの議論を受け入れるならばのことではあるのだけれど、僕たち自身が考え直さなければならないことであるように考える。
 そして、もう一つ考えておかなければならないことは日本の司法制度が変わろうとしていることである。その一端としてのロースクールの新設を考えてみよう。ロースクールの理念としては、「社会人経験者を受け入れ、幅広い視野をもった司法関係者(弁護士、検事、裁判官などのいわゆる司法試験合格者)を増やそうと言うのが狙いである」、と言う(注11)。たしかに、これまで規範によるコントロールが中心であったとするならば、現在のグローバル化の流れについていくためにも法によるコントロール方法を知った人材が必要であることは理解することができる(注12)。ただ、レッシグ自身もロースクール出身ではあるが(注13)、どうも微妙に違うような気がするのは僕だけだろうか。「高等教育の国際的な競争力を高めるために、高度専門職業人の育成が声高に叫ばれる時代を迎え、大学院における法律教育も大きな変貌を遂げざるをえなった」(注14)ことはもちろんわかるし、僕は法律のことは専門外なのでもしかしたらレッシグの言うことが正しくないかもしれない、と考えることはできる。けれども、それにしても国際的な競争力を高めるために、高度専門職業人の育成をするということははたして正しいのかどうかと言うことが心配ではある。
  ところで、レッシグの弁護士に対する態度は複雑だ。日本の法律家との会話だとしたうえで日本には弁護士が十分にいない、だからこんな(同人誌のような)事件を訴追するだけの余裕がないのだ(注15)と書いているが、これはある意味でレッシグの本音でもあるだろう。弁護士が多くなるということは訴訟を増やさないと食べていけない世界でもあるということだからだ。訳者の山形さんは「弁護士を減らせ」と後書きに書いてあるけれども(注16)、事実そのとおりなのかもしれない。しかし、レッシグはその弁護士を育てる立場でもある。彼の立場からすればいい弁護士、著作権問題に理解のある弁護士を育てるという方向に向かうしかない。その意味で少しここは複雑な問いとなっている。僕自身の見解(といっていいかどうか)からすれば法律をつかさどるものとして司法のみを重視することになってしまいかねない現行の体制に対しては疑問が残る。カントは『永遠平和のために』の中で法律家を立法にたずさわる法律家と職業的な法律家との二種類に分けて論じているが、後者は現在ある体制こそが最善でなければならず、それに取って代わる体制がある場合はそれが最善でなければならない。しかし、職業的に法律に従事するあまり、自分が法律を操れるものであるということ(法の上位に位置するもの)と考え、国際法に手を加えようとすればどうなるか。それは「現在支配している権力におもねって(自分たちの私的な利益を失わないように)」(注17)いるということにほかならなくなってしまうことをカントは指摘している。
 少なくとも、今のロースクールが生まれた背景を考えた場合、弁護士を減らさないといけないという意見をスレスレでも言ってしまうよう、レッシグのような人材は育たない。それが国際的な競争力を高めていることになるのかというと疑問だし、もしレッシグが正しいとするならば弁護士の増加がどういう事態を招くのかについては、一考の余地がないだろうか。

3.物質と情報
 レッシグの立場は「伝統」に基づいているし、本人もそのことを強く意識している。僕がレッシグを読んだとき、それはパースとジェイムズ(正確にはここにデューイを加えるべきであろうが)に代表されるプラグマティズムに考え方が似ているという印象を持った。ただし、実際に彼らの著作を読んでいると、意外に共通点より相違点のほうが目立つようになっている。一方は実在論者であるのに対してもう一方は唯名論者であるし、一方の議論は厳密で難解であるのに対してもう一方の議論は平明で通俗的ですらある。プラグマティズムという呼称さえ、後年パースは拒否をしている(注18)。ただし、二人に共通するところもあり、その一つが連続主義的立場である。連続主義とは「連続の観念を哲学におけるもっとも重要な観念として主張する哲学的思想の傾向である」(注19)。僕自身はあるものについて考えるときはあるものの連続性を考えざるをえない、というように理解をしている(『CODE』に出てくるGNUの定義、"GNU's Not Unix"(注20)にもこの種の考え方が出てきている、というのは考えすぎだろうか)が、それこそはレッシグの考えを形成していると考える。
 それはレッシグによる現行著作権への態度である。新しい文化は前の文化資源を使えば使うほど豊かになる、という考え方だ。そもそもレッシグの議論には二つの次元で保守/革新の区別を用いているところがあるように思われる。一つは政治的な保守/革新。これは本書の中で何度も論じられていることであるし、また、どちらからも協力をえられているということが(彼の理論的にも、事実的にも)明らかになっている。興味深いのは彼自身の保守性である。彼はあくまで著作権は(それが現在ある著作権の形ではないにしろ)認める、という立場であるが、例えばものではない情報であるものにそもそも所有権を認めていいのかと考える人もいる。先述したように日本とレッシグの議論の違いが法と規範のコントロール具合にある以上、著作権を考えずにすべてを規範化したほうがいいのではないか、と考えられるかもしれない(注21)。しかし、レッシグの中途半端な保守性は彼のやろうとしていること(そしてそれはおそらく日本でもやらなければならないことだ)にプラスに働いているように思われる。それは冒頭の言葉を使えば過ぎたるものにも及ばざるものにも働きかけることができる議論を作り出せている、という長所である。保守的であるということは既存の枠組みを重要視するということであるならば、既存の枠組みにはたらきかけることができるということであるからだ。
 ところで、物質と情報の所有権という問題は、「言葉と物」の問題が解決されていないという哲学的につながるのではないだろうか。「言葉と物」の問題は言葉と物の問題とそれが社会との相互関係にある問題との二つからなっていると考える。後者についてはまさにそのままの題名をもつフーコーの著作があるが、言葉と物についての関係はそのときのエピステーメー、知の枠組みに大きく影響を受けているというフーコーのこの著作がその後権力の分析にすすんだことはよく知られている。実際にレッシグもフーコーの『狂気の歴史』を『CODE』で参照しているが、フーコーの権力論を下敷きにしてみると(フーコーを読んでいるような人は)レッシグの議論はわかりやすいものになっていると思う(注22)。本書では「記録者たち」、「変換者たち」、「コレクターたち」の話が、現行の著作権制度の実例を通して、このままでは一握りの人間が文化をコントロールしていくことになるという結論を導き出しているところなどがわかりやすいものとなっているだろう。言葉と物は社会的な影響を受けているし、同時に与えているのである。
 しかし、なぜ言葉と物がそういう問題に役立っているのだろうか。実はフーコーの著作からはそれは見えにくい。それを架橋するためにもう一つの「言葉と物」問題に目を向けてみることにしよう。こちらは英米哲学、分析哲学などといったジャンルで考えられてきた問題である。具体的にはある物(これは「或る物」でもあるし「在る物」でもある)を言葉はどのようにあらわすのか、またその関係とは何かという問いである。鶴見俊輔さんは若いころクワインに教えてもらっていたとき(すごいうらやましい)、彼に言葉と物の関係がわかっているのはカルナップ、タルスキー、私くらいしかいないと言われたそうだ(注23)。たしかにそれはある意味あたっている。「無は存在するか」という問いがナンセンスであると論じたカルナップ、命題が真であることのあまりに単純に見える真理論を展開したタルスキー、そして言葉と物の関係を異なった言語の翻訳可能性という点から考えたクワイン。たしかに彼らは言葉と物の関係についてという意味でいえば、「わかっている」人たちであった。しかし、今度は言葉と物の関係が、つまり情報、記号、物の所有権が社会的にどのような権力を発することになるのか、というところまでは考えが及んでいない。
 レッシグの議論はこの二つの言葉と物問題を架橋する。言葉と物のそれぞれの所有権に対する違いが著作権というおとしどころとなって現れているからだ。レッシグが言うようにCDを盗むことは犯罪だ。だが、CDの内容を言葉にして人に話すことはおそらく犯罪ではない。では、CDの情報を吸い出して共有ファイルにつっこむことは犯罪なのだろうか。これは現在犯罪だ。しかし、どのような点で。言葉化して話すこととどう違うのか。どう利益が生み出される仕組みなのか。それは言葉と物、言葉に含まれる記号的な関係を正しく理解できていないことにもその原因があるのではないか。
 この考え方はあまりに哲学的なのかもしれない。そして、こういう実際的な問題に哲学は必要ないのかもしれない。ただ、このような面白い問題に対して哲学が何も言えないということは絶対にないと思う。そして何よりレッシグが正しいということはどういうことか、面白い文化が生まれるということはどういうことか、そしてそもそも芸術とは何かというきわめて哲学的な問題に接近しているということは指摘しておかなければならない。さらに言えば、先ほど挙げた著作権を昔から論じている日本の論者たちはそれぞれ美学、法学、工学出身という学際的な(所詮流行り言葉にしか過ぎないのかもしれないけれど、それはなぜ流行るのか、その現在の状況を映し出す鏡でもあるはずだ)人たちが論じていることの問題の一つは、これから増えるであろう「複製技術時代の芸術作品」(ベンヤミン)の正しさ、価値といった問題に踏み込まざるをえない(そしてそれらは哲学的な)問題であるからだ。
 僕はかつて記号を扱うという人間の特徴に着目すれば著作権の問題は解決されるとあまりに単純に考えていた(そしてこれからもずっと問題を単純にしてしまうのだろう)。今回、この本を読んで少しだけ付け加えなければならないと思う。著作権の問題は情報の所有権と物の所有権を同一視すること、つまりは言葉と物の関係を適切に見ていないことから生じるのであり、それはフーコーが示したような一つのコントロール体制を築き上げる。しかし、言葉と物の関係を記号という観点から見れば両方の関係を見渡すことができるし、何より人間が意味を受け取り、意味を作り出すという意味(?)において記号なのである(パース)。著作権の問題が記号論的に解決されるというのはあまりに楽観的過ぎるけれども、記号論的考え方はその再考方法、ヒントの一つであると言える、と。

注:『FREE CULTURE』については、該当ページ数のみを示す。

注1,『メディア論』、p11。
注2,同書、pp.11-12。
注3,以下のリンクを参照のこと。
白田秀彰『コピーライトの史的展開』、信山社出版、1998(amazon)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4797221291/
名和小太郎『ディジタル著作権』、みすず書房、2004(amazon)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622070766/
増田聡「本日つらつらと考えたること 著作権と「作者の権利」」
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/tsuratsura/tsuratsura3.html#99-01-18
注4,「創設者たち」の章を参照。
注5,p9。
注6,pp.40-43。
注7,『だいたいで、いいじゃない』、p189。
注8,僕自身は下記のように検索して調べてみた。http://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=UTF-8&q=%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E5%90%8C%E4%BA%BA%E8%AA%8C+%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A6&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
注9,もっとも、現実の命名でも使える漢字を勝手に増やしたり減らしたり、子どもの名前を受理できないなど、命名そのものにも分析の価値はあると思う。
注10,p8。
注11,http://campus.nikkei.co.jp/know_law/01.html参照。
注12,一応ここでのグローバル化の流れとはアメリカ化のこととは区別される。規範を法と比較した場合、明文化されておらず、また相対的なものでもあるということがある以上、たとえ規範によるコントロールのままでいるにしろ、法の中でどうなるかということを考えることは必要だからだ。ただし、現在の法がレッシグが今まさに議論しているアメリカン・スタンダードなものであると言うこともまた確かである。この関係は複雑な状況ではあるが、区別され、理解される必要があると考える。
注13,「レッシグ教授の『コモンズ』を読む」http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/guest/030121/参照。
注14,注12参照。
注15,p42。
注16,p366。
注17,『永遠平和のために』、pp.83-84。
注18,『世界の名著 パース ジェイムズ デューイ』所収、「プラグマティズムとは何か」参照。
注19,同書p191、ボールドウィン編『哲学・心理学辞典』からの孫引き。
注20,『CODE』、p187。
注21, 特に日本ではそうなりやすいだろう。ただし、僕自身としては日本の状況について考えるにしても同じことだとは考えている。つまりそれはレッシグ自身の言葉を使って言うならば「右だろうと左だろうと」(p11)考えなければいけない問題だと考えている。まず、右な場合を考えてみる。この本はアメリカの憲法、伝統という主張が多く、ともすれば日本人には関係ないというように考えることもできる。しかし、これはアメリカのコンテンツ創造方法の提案でもあるわけだ。もし、レッシグの言う意見が正しくて、しかもそれがアメリカ本国で受け入れられて、爆発的なコンテンツ産業が向こうで生まれたとしたら。そして、それが日本との(市場的に)競争に大きな脅威となるのだとしたら。日本にとってこの本はそういう意味を含んだ本でもあるのだ。次に左な場合を考えてみる。おそらくこっちのほうが簡単だ。この本は少数の資本家がどのように権力を倍々ゲームのように増やしていくか、その丹念なレポートになっているからだ。もしくは(こういう言い方を好む人向けに書けば)、マルチチュードをつぶす帝国のやり口のレポート、そう言っていいかもしれない。こちらの立場の人にとってはこの種の運動は最終的にグローバルに行われるべきものであるし、憲法某条の護憲運動と同じく日本が率先してやらなければならないものだからだ。結局はレッシグの議論通りになってしまっているような気もするが、僕はどちらの立場をとるにしても日本との比較対照くらいは考えておく必要があるのではないかと考える)。
注22,bk1の山形浩生のコメントを参照。
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_rev.cgi/3f77766b22a1301007a1?aid=&bibid=01994879&revid=0000025725
また、『CODE』ではレッシグ自身、フーコーの『監獄の誕生』を参考文献に挙げている。『CODE』、注-16参照
注23,『二十歳のころ』、鶴見俊輔の項を参照。

参考文献
『FREE CULUTURE』ローレンス・レッシグ著、山形浩生、守岡桜訳、翔泳社、2004。
『CODE』ローレンス・レッシグ著、山形浩生、柏木亮二訳、翔泳社、2001。
『コモンズ』ローレンス・レッシグ著、山形浩生訳、翔泳社、2002。
『メディア論』、M.マクルーハン著、栗原・河本訳、みすず書房、1987。
『だいたいで、いいじゃない』、吉本隆明、大塚英志、文藝春秋、2000。
『永遠平和のために』カント著、宇都宮芳明訳、岩波文庫、1985。
『世界の名著 パース ジェイムズ デューイ』上山春平責任編集、中央公論社、1968。
『二十歳のころ』、立花隆他著、新潮社、1998。
白田秀彰先生のサイト
http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/
増田聡先生のサイト
http://homepage3.nifty.com/MASUDA/

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