「怖さ」の循環構造-あるいはある二人の女優-


1.「怖さ」を生みだす二人の女優

 今日の芸能界において女優の数は多いけれども「怖さ」を感じさせることのできる女優は少ない。ベテランである女優(例えば岸田今日子さんなどを筆頭とする)を除く、「若手」になるとそれはほとんど皆無といっていい。そのような中で「ホラー女優」として名を挙げられる人物が二人いる。その一人、菅野美穂さんはホラー系の作品で常に異彩を放つ存在である。特に代表作「催眠」では不気味な怪演技をみせ、「ホラー女優」の名を不動のものとした(TSUTAYAの宣伝帯にもそのような記述がなされている)。もう一人の女優、彼女の名は佐伯日菜子。彼女には悪いがあんまり知られていないと思うので説明しておこう。もともとは「毎日が夏休み」というコメディータッチの作品でデビューした(とはいえ、すでに怪俳優である佐野史郎さんと共演していたことが彼女の未来を暗示しているといえばしているのだが)。その後鈴木光司原作の映画「らせん」の貞子役や、伊藤潤二原作の映画「うずまき」でのヒロインの友人役、最近では大槻ケンジ原作の映画「Stacy」に出演が決まるなどホラー女優としての地位を確立しつつある。

 この二人、単に僕がファンということもあるのだが、それ以外にも気づかれにくい接点がいくつか存在している。その中のひとつが『エコエコアザラク』という作品への出演である。正確には菅野さんは映画一作目に準ヒロインとして出演(ヒロインは吉野公佳)、佐伯さんは映画三作品目とその前に放送されたテレビシリーズでのヒロインとしての出演ではあるのだが、彼女たちはヒロインということもあって、それほど怖がられる役どころではなかった。それがなぜ二人ともホラー女優として人を怖がらせるようになっていったのだろうか。また、彼女たちは伊藤潤二作品に出演しているという点でもまた共通点がある(菅野さんは『富江』、佐伯さんは『うずまき』)。この論では二人のホラー女優への登竜門となりながらあまり知られることのなかった作品を分析することで怖さというものがどういうものかを少しでも明らかにしていきたいと思う。

2.「対岸の火事」としての「怖さ」−『エコエコアザラク』の分析−

 まず最初に『エコエコアザラク』(以下、「エコ」)の分析からはじめよう。最初にストーリーの簡単な解説を。もともとはマンガで、原作は古賀新一氏。「少年チャンピオン」誌に連載されたあとに「サスペリア」誌で連載。一話完結形式で主人公の黒井ミサという少女が黒魔術を操り数々の怪事件を解決(もちろんホラーなのでアンハッピーエンドもあるが)していくが結局はみんなの前から姿を消し、次の話は別の人物との関係で描かれる、といったストーリーである。それではまずこの解説の中からいくつかの分析を行ってみようと思う。まずは黒井ミサという名前そのものが「黒」という色のイメージ、「ミサ」という閉鎖した宗教集団の集まりから黒魔術を操る魔女といったものを暗示している。そして「黒魔術」についてだが、一般に事件を解決するものは正義であるという先入見に反してあえて悪の魔術とされる「黒魔術」を使っている(普通の作品なら「白魔法」とか、「神」とかを持ち出してくるところだろう)。このことはある種の同質性を意味し、後述する特徴と合わせてある重要な役割を果たしている。また、みんなの前から姿を消し、転々とする行動は魔術を使うが故の拒絶(周りの人々からの、また自分から自分への)を意味している。ここで話は逸れるのだが、飯田譲治という脚本家が小島秀夫というゲームクリエイター(「メタルギア」とかで有名)とよく似たことを話しているので引用してみようと思う。

(小島さんが飯田さんの作品「NIGHTHEAD」に触れて異端者の、影としてのヒーローを描いた点で新しいといったことを受けて)「それってトラウマかもしれない(笑)。手塚治虫の『どろろ』のね。」

 同時期に似たような性質の主人公が生み出されていくことの鍵がここに潜んでいるような気もするのだが、さしあたってここでは異端者、影としての主人公の存在ということに注目するだけにしておこうと思う。

 それでは菅野さんが出演されたほうの映画ストーリー(以下、「エコ1」)の、概観しながらの分析を加えていくことにしよう。話の大筋は学園ミステリーものとなっている。結界として密室化された学園に残された主人公と13人の男女学生。13人の生けにえをもって悪魔を復活させようとする何者か、そして次々と殺されていく学生たち。誰が悪魔を復活させようとしているのかは本当に最後までわからず、それがホラーであるこの作品に一種のミステリー、謎解き感覚を与えている。とはいえ、ホラーとしてはかなり過激なスプラッター的演出が施されていて、頭は飛び散るかさもなくば首筋から血がほどばしるかといったもので、また手足に釘を打ち付けられた裸の少女など、なかなかにどぎつい演出がなされていたのである。菅野さんの役どころはというと主人公のずっと側にいて守ってもらうか弱い少女・・・だったのが最後に悪魔復活の張本人として主人公を刺し悪魔を召喚しようとする、しかし直前に身を守った主人公のため(もしくは悪魔の扱い切れない強大さのためか)、命を落とすという役どころであった。しかしこの作品を見た僕の感想からいうと、直前までいかにもダミーとしての犯人との攻防がありむしろそちらのほうが怖さのメインであり、菅野さんと主人公の対決はさほど怖くはなかったというのが正直なところであった。

 まず舞台として結界で密閉された学校ということに注目してみよう。これには二つの効果が期待できる。一つは見ている側の安心感である。密閉されているということはこちらに物語が侵入する余地はない、そういった考えが起こる。しかし同時に矛盾する次のことも言える。学校というありふれた場所で起こるということに対する恐怖である。こちらの恐怖はむしろ「学校の怪談」系の映像作品が多く出回り、こちらの効果をねらっているのだがむしろ多く出回っているだけに、いやもともとが自分も一度は耳にした、そして視聴者の多くはいまだそこに通っているというものである限りつきまとう恐怖だと言える。次に登場人物が殺されていくことについて。13という数字がそもそも不吉な意味を含んでいることはもはやいうまでもない。しかしここでむしろ重要なのは人が死んでいくと同時に密閉された空間がなくなってしまうことを意味しているとは考えられないだろうか。アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」は最終的にみんながいなくなることで世界=小説が終わる(ただ、そうしながらも最後まで世界を語ることに成功した点はすばらしいものなのだが)。生存者、特に主人公以外のそれはまさに「あっちの世界」と「こっちの世界」を結びつける存在なのである。次に演出の過激さについて。一般に「過激」といわれ問題になるものは二つ、性と暴力である。暴力のほうは後述するのでひとまず棚上げして、性についての描写を分析してみよう。これは全シリーズ共通していえるのだが、先述したように手足に釘を打ち付けられたり、生けにえとして犠牲になるといった一人のときに裸でいるといったときや、最後のシーンで菅野さんが主人公にキスをする場面など、非常に同性愛的なシーンがある。つまり、男という性が介在することがないのである。このことは洋の東西を問わず超自然的なものに相対するときに純潔といったものは重んじられる傾向にある。例えば日本では巫女、西洋ではやはりマリアの処女受胎など。このことより魔術をあつかう本作品がそういった傾向を含むのは当然ともいえるのだが、僕はもう一つ主人公も含め「女のみ」という同質性の意味ができてくるといったことを指摘しておこうと思う。以上で「エコ1」の大雑把な分析をひとまず終える。

 それでは佐伯さんが登場するほうの「エコ」の分析に移ろうと思う。先の書き方に習ってこちらを「エコ2」としよう。ただし最初にいってしまえば基本的なことはあまり変わらない。深夜放送ということで暴力的なシーンもかなりあったし、中心的なところはやはり女性が占めているし、主人公の属する集団が事件に巻き込まれ一人ずつ殺されていくという形式も受け継がれている。しかし「エコ2」には「エコ1」と比べて目立った特徴がある。まずはテレビシリーズということと一話完結という性格から主人公のみが変わらずに一話ずつ全く違った人物構成(主人公も学生、お手伝い、看護婦、古本屋のバイトというように、何か偏っているようにも思えるのだが、役割が変わる)となった。これにより主人公がその特殊な能力を持つが故に拒絶され、さまよわなければならないという側面が浮き彫りにされる。そのこととも関連するのだが、主人公は「都市伝説」の一つだという描写が与えられる。彼女の行為自身だけがひとり歩きし、しかし同時に彼女自体を言い当てることはできないという内容をあらわす絶好の「記号」が与えられたのである。

 ここまでにわかったことをまとめると、次のような構図が浮かんでくる。まずは「エコ」の世界は非常に「外部」、あっちの世界として描かれているということだ。そしてそれを支えているものとしてある種の同質性が強く働いている。「黒」というイメージで結ばれる同質性、「女」という性の同質性。記号論の創始者ソシュールは言語は差異によって意味ができるというようなことをいっているが、過剰な同質性の強調(バルトのいうコノテーション的な段階でとでもいうべきだろうか。つまり映画の中での世界がデノテーション的なものだとするとそれを見ている我々の世界はコノテーション的段階なのである)は差異を、新しい意味をうみだすのである。つまりここでは非現実的な世界が演出されることになる。非現実空間というものは何を意味するか。その答えは過剰な暴力の演出を許すことにあると考えられる。視聴者の側から見たときに首が飛ぼうが、鮮血がほどばしろうが所詮は「向こう」のことなのである。もちろん同時にこの暴力描写も非現実空間を演出する手助けを行っているだろうことは想像に難くない。そしてヒロイン自体の疎外性はそのまま視聴者の拒否反応とつながる。怖いもの(悪役、モンスター役)だろうがそれらから身を守る正義のヒーローやヒロインだろうがそんなことは関係ない。なぜならどちらも非現実空間の住人であり、どちらもこちら側から見れば恐怖の対象に過ぎないのだから。菅野さんを、佐伯さんをホラーから抜けられなくした理由として僕が得た結論は以上のようなものであると考える。

3.「増殖」、燃え広がる「怖さ」−伊藤潤二の作品から−

 とりあえずの結論がでたので、「エコ」と女優二人との関係の分析は終わりとする。しかしこの論自体は「怖さ」、ホラーというものについての分析を二人の別の出演作で考察することで続けていこうと思う。最初に述べたように、この二人は伊藤潤二さんの作品に出ているという共通点を持っている。菅野さんが出演された「富江」と佐伯さんが出演された「うずまき」には他にどのような共通点があるのだろうか。

 『富江』という作品のストーリーはというと、まずx江翌驕Bしかし彼女と出会うと人は必ず彼女を殺したいという欲望に取り付かれ、実際に彼女を殺してしまう。しかし彼女はどのようになろうとも必ず復活し(切り刻まれてもプラナリアのように分裂してしまう)、自分を殺したその相手を破滅(発狂させたり、殺したり)させてしまう。映画では一話完結にしなければいけないこともあってか、主人公の視点は彼女と対決するという形に(いわば彼女は「ジェイソン」なのである)なってしまっているが、原作(つまり連載)では視点は富江のほうから、それぞれの富江が周辺人物を恐怖に陥れていくというオムニバス構成となっている。

 一方、『うずまき』は何らかの形でうずまきの形と恐怖とがつながっている、こちらもオムニバス形式の原作になっている。

 二つの話が共通しているところは明らかだ。それは一つのものが無限に増殖する怖さである。記号論的に言うと一つのシニフィエに対して無限を思わせる数のシニフィアンがあるということになる。生物的にはまずこれだけで相当不気味である。例えば自分の親友や恋人が同じ形でまるで判で押したように何人も何人もいたらそれだけで気持ちが悪いはずである。

 しかし「恐怖」という観点から見た場合増殖は重要な役割をはたしている、それは簡単な話「僕、私の周りにもいるかもしれない」といった恐怖である。富江のような人物がいるはずない、「うずまき」のような現象があるわけがない。しかし作品中でのその増殖は「もしかしたら・・・」というほんのかすかな疑念でも見ている人の心に生じさせることができればそれで十分なのである。もしかしたら富江はそばにいるかもしれない、うずまきが僕の近くに発生するかもしれない。それはエンターテイメントとして楽しめた「怖さ」とは違いある程度のリアリティーをもち見ている人に迫ってくる怖さなのである。それでは最後に「恐怖」の最終段階を考察してみよう。

4.「怖さ」から「怖い」へ〜外部からの侵入、そして恐怖は循環する〜

 これまでの論の進め方だとまるで怖さというものは外部として感じるもののようになってしまう。しかし人が本当の怖さを感じるときというのは自分の存在する内部の世界へ怖さが侵入してきたときではないだろうか。「怖さ」といった瞬間それは何か真実味を失ったものとなってしまう。本当の「怖さ」とは「怖い」と感じた、まさにその時だけのものではないだろうか。そういった意味で佐伯さんの出演した「らせん」は怖さを感じさせる作品である。以下は原作のほうからのあらすじなので映画とは少し違うところもあるかもしれないが、そこからの分析結果である。「らせん」では謎の死の原因が貞子の怨念をもったウイルスであることが突き止められるのだが、そのウイルスはさまざまなメディアを文字通り媒介にする。そのため「らせん」の主人公は前作「リング」の主人公が残した「リング」のレポートを読むことでそのウイルスに感染してしまうのである。まさにここで怖さが入り込んでくる。なぜなら読者である我々が今まさにそれを読んでいるのだから。最後に復活した貞子は自ら作品中のそのレポートがもとにされできた作品中での映画「リング」の主演女優となりウイルスをばらまくことを示唆しながらこの物語は終わる。僕がこの作品を読んだのは映画によって話題になる前ではあったものの、いやそれゆえにその後爆発的に売れてありとあらゆるメディアに進出する「リング」と「らせん」に何か引っかかるものを感じずにはいられなかったことを覚えている。

 一方の菅野美穂さんのほうはCMに注目してみることにしよう。「リカルデントガム」のCMでは彼女の出演するテレビドラマを男性が見ているという設定である。そこで彼女は刑事役で悪者の手下をつるし上げるがそこで自分の仲間が危機に陥っていることをいわれてしまう。そしてそのことを自分の仲間に伝えようとそこに急ぎながら携帯電話ではなしかけるのだがなぜかそれがドラマを見ている男性へとつながってしまう。そこで交わされる内容はガムの宣伝なのだが、だんだんと彼女は近づきついには男性の部屋にまで来てしまう、という内容である。ここでもホラーではないが菅野さんは外側であるテレビの世界からそれをみている内部の世界へと侵入してしまっていることがわかる。ちなみにこのガムのCM、彼女の前は常盤貴子さんだったのだが常盤さんの状況はあくまで同僚役としてその場にいる彼女がパソコン上に入ってくるといった設定だったため、外部/内部といったわけかたはできない。その意味でも菅野さんと常盤さんのCMシナリオの違いは興味深い。

 こうして「怖さ」は「怖い」へと姿を変える。しかしまさにその瞬間他の人によってそれは「怖さ」となり、これまでに示した経路を再び循環することになる。

 「怖さ」の記号的な性質のために外部の住人としての役目を背負わされた二人の女優。彼女たちはまた「怖さ」のもつ記号的な性質のために外部/内部への侵入を開始したのではないだろうか。

5.参考資料
分析に使用した、もしくは参考にした映像作品

映画
・「エコエコアザラクWizard of darkness」95'4'8公開
(テレビ版視聴のためビデオほかの存在は未確認)
・『エコエコアザラクMisa The Dark Angel』98'1'16公開(DVDの存在は確認済)
・『毎日が夏休み』(公開日不明、ビデオレンタル可)
・『らせん』(公開日不明、ビデオレンタル可)
・『富江』(公開日不明、ビデオレンタル可)
・『うずまき』(公開日不明、ビデオレンタル可)
・『催眠』(公開日不明、ビデオレンタル不明、多分可)
・『NIGHTHEAD』(公開日不明、ビデオレンタル可)

テレビ
・『エコエコアザラクThe Series』
(KBS京都、日曜23:15〜の再放送版を視聴、もとは不明。ビデオレンタル可)
・『エコエコアザラクThe Second』
(KBS京都、日曜23:15〜の再放送版を視聴、もとは不明。ビデオレンタル可)
もともとの放送期間中は神戸の少年Aの事件が起こったため途中で自主規制的に打ち切りとのこと。レポートとは逆に現実からホラーへの侵入が行われたと言える。
・「リカルデントガム」のCM
『エコエコアザラク』に関してはあと何作品か映画版が作られているが、見ていないのともうひとつのテーマである二人の女優が関係していないので今回は取り上げなかった。

文献

『らせん』鈴木光司、集英社ホラー文庫、1997。
『ステーシー〜少女ゾンビ再殺談〜』大槻ケンヂ、集英社ホラー文庫、2000。
『HYPERプレイステーション』ソニー・マガジンズ、1996年3月号。
『記号学の冒険』ロラン・バルト著、渡辺、沢村訳、みすず書房、1988。
『零度のエクリチュール』ロラン・バルト著、花輪光訳、みすず書房、1971。
『ソシュールの思想』丸山圭三郎、岩波書店、1986。
『伊藤潤二COLLECTION』←コンビニ漫画として発売。参考資料として挙げておく。

〜参考webページ〜
エコエコアザラクファンサイト
http://www.catnet.ne.jp/aso/

gagaホームページ
http://www.gaga.co.jp/

6.付記

この論は別目的で書いたものに加筆訂正をしたものである。そのため「エコ」の映画の最新版についてはとりあげていないのだが、一応の偶然として、あることを指摘して付記としておきたい。「エコ」の最新版ではヒロインが三代目加藤夏希さんとなった。その加藤さんと佐伯さんが共演しているのが最近公開の「Stacy」という映画である。この映画はある年代の少女がゾンビとなって人を襲うようになり、そのゾンビを殺すには(「再殺」)、その少女ゾンビの体を165の部分に分割しなければならないというもの。原作ではその中で生きる(死にゆく?)様々な人物関係を「外部的に」書ききった作品であった。映画もおそらくはそのストーリーを踏襲している。無論僕にはストーリーもそうだがそのストーリーに必然的に付随する「外部としての視点」のほうが重要であることは言うまでもない(165分割といえばもう人が人としての形をとどめていない。しかもその再殺道具としてハンディタイプのチェーンソーが使われている。この喜劇的とも取れる演出はまさに「エコ」の分析で示した「外部的」怖さの演出ではないだろうか)。そう、ここでの「エコ」ヒロインの共演はその意味だけにとどまらず、再び恐怖が「外部」的になり、循環がいままさにおこなわれていること、ホラー女優としてのバトンが受け渡されたことを象徴していると考えてしまう。

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