J.デリダ『法の力』(堅田研一訳、1999年、法政大学出版局)を読んで
最初にこの書評ページの背景選択の理由から話すことを許してもらいたい。法や掟とはこの背景のように無機質な紋様がこの背景のように無際限に続いている、そのようなイメージは誰もが一度は持ったことがあるのではないだろうか。そしてこの著書はまさにそのようなイメージに基づいての法哲学が語られている。
1.義賊は、そして僕は考える
時代劇にしろ現代劇にしろ、「違法的に正しいことをするヒーロー」という図式の話がよくある。古くはねずみ小僧、必殺仕事人、舞台が現代に移ってもピカレスクものとしての話の数々は人気である。少なくとも、話の筋として確立されている(そういえば大阪に住んでいた頃、日曜になるとやたら『ミナミの帝王』が流されていたことを思い出す)。
一方、僕は中学から高校の時期に「合法的に悪いことは可能か」ということについてえんえんと考えていた。合法的に悪いことをした場合、それは罰せられることはない。むしろ、それ以前に裁かれることすらない。そのときの悪さとは正しさをもつものなのか。そういうことを考えていた(暗っ!)。つまりは、法と正しさとは非常に近しい関係である(というよりはほとんど同じだとみなされている)にもかかわらず、法と正しさの関係とは非常に不安定なものであるということを感じていたのだと思う。では、その結びつきそうで結びつかない関係とは何か。どの点で法と正しさは結びついており、どの点で相反するものとなるのか。正確には本書はもう少し広い射程を持っているとは思うのだが、主要テーマの一つではあると思うので(そしてその方向で書いてもそれほど書くことが外れないとは思うので)少しこの考えにそって自分の考えたことを書いてみたいと思う。
2.脱構築と正義 (1) 正義と法の関係、脱構築とそれらの関係
初めのほうにデリダは自分自身は決して正義や掟の問題について考えてこなかったわけではなかったとして、いくつかのテキストを挙げている(こうして僕の読まなければいけないテキストが増えるというわけだ)。具体的には「暴力と形而上学」、『弔鐘』、『掟の門前』などである(1)。また、ここには書かれていなかったが、法と正義の関係の一つにperformative、行為遂行的なものについての言及が多くあることから『有限責任会社』も必読文献になると思う(2)。そのような予防線的リンクを貼った後でデリダは法と正義の関係について議論を話し始める。彼はまず、脱構築的問いかけが、文学科や哲学科よりも、むしろ法学部に近いということを述べるのである。この発言自体の検討も後で行うのであるが、とりあえずはこの意見が米国でもそれほど一般的な意見ではないだろうということは押さえておいたほうがいいだろう(3)。
その後で法と正義の関係について、パスカルとモンテーニュを引き、「法/権利を正義から区別している」(4)ということをまずは第一段階とする。しかし、これは考えてみればわかるがすぐにおかしなことになる。なぜならば法/権利は正しいものでなければならないからだ。このことに厳密に法/権利と正義の関係をとらえなおすと、
「一方では法/権利は、あくまでも正義の名において自分を押し及ぼすのだと主張するし、他方では正義としても、実行に移さねばならない何らかの法/権利のなかに身を落ち着かせねばならない」(5)
という関係であることがわかる。そして、法/権利は正義の名において自身で基礎付けられている(力、それもある種の暴力をもって)ということ、正義は法/権利には回収されない何かであるということから、デリダの脱構築的結論が導き出される。それは正義については「法/権利の外または法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない」(6)ものであり、法/権利は「解釈し変革することの可能なさまざまなテクスト層をもとに構築されているから」(7)、もしくは「法/権利の最後の基礎が定義によって基礎づけされていない」から(8)という理由で脱構築可能である。そして、もう一度正義について考えるならば正義は法/権利の彼方にあるのだから脱構築できない(むしろデリダのニュアンスに近づけるならば脱構築のしようがないのである)し、脱構築自身もまた脱構築できない。そもそも正義も脱構築も現実に存在するかどうかはわからないものではあるが、しかしあるとしても脱構築はできない。つまり、正義も脱構築も同じものであり、この本の有名な一節につながる。すなわち、「脱構築は正義である」(9)。
ここで初めて私たちは一体どうすればよいのだろうかという問いになる。それは脱構築され続けていくことを覚悟の上での決断である。キルケゴールの「決断の瞬間はある種の狂気である」(10)という言葉を引用し、また「行為遂行は、理論的な合理性の求めるさまざまな要求にはもはや応答しない。それは一度も応答したことがないし、応答する力をもったことも一度もない」(11)という言葉を引いて、その不可能性そのものを問題にし続けていかなければならないと、高橋哲哉の言葉を借りれば「脱構築は終わらない」(12)ということだろうか、そのような結論に至るのである。
第二部のベンヤミン『暴力批判論』論ではもう少し脱構築される瞬間を記述している。それはゼネストであったり、死刑であったりするわけであるが、要するに法/権利が自身を基礎づけるために使っている力=暴力を使って法/権利に反抗するということ、このことがキーになっていると思われる。厳密に読むのであれば、おそらくベンヤミンの暴力のとらえかたの中にもある構築物があり、それを脱構築していくことを書かなければならないかもしれないが(そしてそれは僕にとっても問題にするべきものではあるのだが)、こちらは実例分析的な色彩をあえて出しておくことで、逃げさせてもらうとしよう。
かくして義賊や僕は安心する。なぜなら自分の考えていることや行動していることは正義にかなった行動であるからだ。もちろん脱構築されるべきものであるということではあるが、何よりも自らが今まさに脱構築しているのだから、そのようなことは問題にならない。僕は依然合法的な悪の可能性について考えるだろうし、義賊達は自分たちの正義を貫き通すだろう。めでたしめでたし、である。
……しかし、これで本当によいのだろうか。ここで僕は一人になり、自分の考えを深めることになる。僕は合法的な「悪」について考えていたはずであった。つまり、僕の考えに厳密にいくのであれば僕を安心させるのは正義ではなく悪であるはずではないのか。なぜ正義について論じられることで僕は安心してしまおうとしたのか。悪=¬正義で構わないのか。そんなはずはない、なぜなら正義は脱構築できない、つまりこのような論理式で書けるものではないはずだからだ(これは論理学をけなしているわけではなく、デリダ的に考えればと言うこと。つまり正義が何かを言えるのであれば、そしてその否定について書けるのであれば、その正義はもはや正義ではないことになる)。僕はもう少し考えなければならない。以下の記述はその観点からみたもう一つの書評である。
3.脱構築と正義 (2) 「脱構築は正義である」というテーゼについて
表題にも掲げた通り、そしてここまで紹介してきた通り、ここでデリダは「脱構築は正義である」というテーゼをうちだしている。これはそれなりに衝撃的であったようだが(たしかAERA
Mookの『哲学がわかる』で高橋哲哉氏がこのことを生徒との対話編として取り上げていたように記憶している)、なぜ衝撃的だったのか、そしてこのテーゼについて、僕なりの考えを述べてみたいと思う。
僕自身にとってもデリダのこの発言は驚きであった。というのも、デリダは正義に対して何かを言うことを禁じているように思えたからだ。それは『ニーチェは、今日?』に収められているデリダとドゥルーズの議論である。簡単に紹介(できるように努力)してみようと思う。デリダが<パロディのパロディ>という問題を提出する。リオタールはそれを「力(=権力)に対する一種のルサンチマンから成るもの」とあっさり退けるのであるが(13)、ドゥルーズはそれを「実物も複製も一度にひっくり返す」、「ニーチェが理解している意味での有効なパロディの判断基準だと」いう意見を表明するのである(14)。つまり、パロディのパロディという問題、それはもはや何のパロディかあるかどうかなどが問題にならない、つまり新しい形の価値基準(というと言い過ぎになるのかもしれないが、とにかく新しくあるべきもの)という点で二人の意見が一致している。問題はその後で、ドゥルーズはそのパロディのパロディを、「《正義》になりうるであろうもの、《正義》になるであろうものの今日的なレヴェルにおいて、それは、きわめて具体的な事柄だと思うのです」(15)とする。それをきっかけにデリダとドゥルーズの間に少しの応答がやりとりされる。いかんせん僕はこの二人に興味を持っているので、その二人が唯一文字として残されているやりとりとして若干この会話をひいきめにみているのだが、まずはその会話を引用しておこうと思う。
デリダ:一言だけ簡単に。正義の価値を、それにもかかわらずあなたはパロディの二つのケースの中に維持したわけですが、それもまた実物(モデル)に属しているものではないのですか。
ドゥルーズ:どうでしょうか。それは同じ価値ではありません。さもなければ、パロディは、依然として複製(コピー)なのです。
デリダ:依然として正義のことを言っているのはあなたですよ。
(16)
僕は最初何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。その後、最初にわかったのはドゥルーズの言い分だった。コピーのコピーは、パロディのパロディは、パロディとかコピーとしかいいようがないのに、なぜそれが正義のことをいっていることになるのか、そしてそれが指摘されなければいけないことなのか。そしてデリダは正義のことを言っていないのか、言っているのかをはっきりさせないままドゥルーズに指摘を行っている。何となくズルいんじゃないの、と考えていた。その後、デリダの言い分とドゥルーズの言い分が二重肯定の問題、僕の中ではレヴィナスの問題と重なってきた……と続ければこれだけで文章が多くなるので、もう先にすすもう。デリダの言い分が何となくわかったのは『現代思想 ニーチェの思想』(青土社)に収められた訳を読んだときだった。そこではデリダの言葉が「あなたが依然として正義のことを語るものですから」というような訳であったように思う。
では、なぜこれがヒントになったのかというと、それは「語る」という言葉にそのヒントがある。それは「語ることができないものについては、人は沈黙せねばならない」というあの名命題(?)である、そう思ったのだ。『法と力』でも一度だけ言及されているので、そこを引用しておくようにしよう。権威を基礎づけるもの、力と正義が混在するところについて言及する場面である。
「モンテーニュやパスカルが権威の神秘的基礎と呼ぶものを私は、単なる注釈の域を越えて、このような意味で解釈したいと思っている。われわれは常に、私がここでなしているまたは語っているものに立ち戻って、それをもとにして考える(中略)ことができるであろう。つまり、わたしがここでなしているまたは語っているものは、あらゆる創出作用の起源においてなされるものとして私が語るところのものにほかならないのである。だから私は、「神秘的」という語の用法を、私がむしろウィトゲンシュタイン的とあえて呼ぶ方向へと引き込みたい」(17)。
つまり、デリダにとって正義とは、脱構築とは語りえないものに語りの中から迫るものである、そういうことができるのではないだろうか。もちろん、文献的にウィトゲンシュタインとデリダを組み合わせるものはいくつでもあるが(18)、このように自身の口から自分とウィトゲンシュタインの関係が言われること、そしてそこからドゥルーズとデリダの違い、つまりドゥルーズはどこまでも正義を語れるものと―もっとも、彼がある種経験論的な立場に立ち、同時にそれに関してある種の超越を考えていた、ということを考慮すればわかりそうなことではあったのだが(19)―考えているに対して、デリダは正義をウィトゲンシュタイン的である神秘的なもの=語りえないものと考えているのだという違いがわかったということは、やはりそれなりに哲学の面白さではあると考える。
しかし、である。ならばそこをこそ突っ込んで考えなければならない。よくデリダに親近性の高い評価を与えている分析哲学者といえば、リチャード・ローティを指すかもしれない(20)。ただ、僕はもう少し違う人である(とはいえ、同じようにセラーズとかからの系譜なんだろうけど)ネルソン・グッドマンという人の考えを引いてみたいと思う。グッドマンは自身の本の中で記号機能について語れるもの(=外延指示できるもの)とそうでないもの―示せるもの(例示、表出機能を行うもの)―とを区別している(21)。そして彼、グッドマンはそれが何を示しているのかについて考察しているのである。それは正しさかもしれないし、それらしさかもしれない。絵画が匂いを示すこともあるだろう、というように。また、ウィトゲンシュタイン自身、語れないことについては沈黙するというテーゼをそれほどかたくなに守ったわけではなく、美学の問題について考えてもいるのである。そこでは、「美しい」ということは何を示しているのかということについて、スタイルはそのまま、つまり徹底的に語るレヴェルからではあるが、考察を行っているのである。
僕の言いたいことがわかってもらえるだろうか。つまり、デリダの脱構築は正義である、というテーゼに僕は少し付け加えをしたいのである。それはデリダの脱構築は記号機能において語りと示しの境界線を意識的に(脱構築の持つ性格上)侵犯し、お望みとあれば「汚染」するものであり、それが正義を示すこともありうる、そう付け加えたいのである。もし付け加えた場合どうなるかというと、当然脱構築が正義を示しているかどうかが問われなければならない。デリダが「法学と相性がいい」というのもこうなると法学が正義を前提していることを前提しているように見えてしまう。もちろん、脱構築を文学のものとして批判する人もいるんだけれども、僕からいわせればそれはおかしいはずで、脱構築が示しの分野に介入するものであるという意味にとれば、法学だろうが、文学だろうが、そしてもちろん哲学だろうが、必ず必要とされる機能である。要するに、文学とか法学とか言う事自体が僕にとってはナンセンスなのではないか、そう思えてしまうのだ。
話を戻して結論にしよう。脱構築は正義ではありうる(つまり、正義を示すことはありうる)が、何を示しているのかについては明確ではない。それを明らかにするにはより示しの分析を行うこと、それはデリダ的には脱構築を行うこと以外ではありえない。すなわち、脱構築が終わらないということには同意するが、脱構築自体が正義であるかどうかということはそのことによってのみ示されるものでなくてはならないのではないだろうか。
4.再び僕は、そして義賊は悩み始める
というわけで、問題[もしくは問題を書いた手紙]は再び僕たちのほうに送り返された。それを前にして再び僕たちは悩まなくてはならない。なぜなら、法律と正義の問題は脱構築は正義であるというテーゼをそのまま受け取ったとしても、僕の解釈とは言えない解釈が仮にあたっていたとしても問題は実は解決してはいないからだ。前者は脱構築を続けていくことそのものが答えであり、後者はデリダが「示し」たものは何だったのか、そもそも「示し」とは何なのかということを考えることがまず第一の答えになる。ただ、その答え方が、結果として脱構築と呼ばれるものであるならば、それはデリダの手の中で遊んでいたに過ぎないのかもしれない。
いや、そう考えるのはやめにしよう。少なくとも僕は一歩先が見えたらその一歩先のところまで進んでいくしかないのだから。脱構築を分析することがデリダ派的な欲望に支えられてしまうという事態はすでに東浩紀がしたことでもあるわけだし(22)、大事なことはそれを引き受けるということではないだろうか。
注:『法の力』を指すときは邦訳版のページ数のみを表記。
1:pp .16-17。他のテキストも挙げられてはいるが、邦訳の有無との関係上いくつかに絞った。その他のテキストについては該当ページを参照してもらいたい。
2:この文章では触れられなかった署名の問題についても考えられているテキストだと思う。この本自体そんなに真剣に読んでいないのだが、挙げておくべきテキストだと思い、付け加えた。また、ここの議論をしっておけば注11のデリダの真意についても理解がいくのではないだろうか。
3:米国のデリダ受容については高橋哲哉『デリダ』(特にpp.36-37、pp.184-185)参照。ざっと触れておくと「人間諸科学の言説における構造、記号、ゲーム」(『エクリチュールと差異』所収)の後のイェール学派の形成をはじめとしていた受容は文学系が最初であったのである。
4:p27。
5:p54。
6:p33。
7:pp.33-34。
8:p34。
9:同上。
10:p67。
11:p69。
12:高橋哲哉『デリダ』、p286。
13:『ニーチェは、今日?』、p116。
14:同書、p118。
15:同上。
16:同書、pp.118-119。
17:p32。
18:個人的にはウィトゲンシュタインとデリダの安易な結び付け方は好きではない。『はじめての分析哲学』で大庭健氏がダツ・コーチクとウィトゲンシュタインを安易に結びつけた論文を「ヒトヤマナンボ」と揶揄しているが、もっともなことだと思う。今回もデリダ本人の発言ということがなければとりあげなかったかもしれない。
19:『ドゥルーズ 存在の喧騒』を参照。
20:『脱構築とプラグマティズム』などを参照。
21:『記号主義』、第一章、第二章を参照。
22:『存在論的、郵便的』を参照。ただ、彼の言う「郵便的脱構築」がもしかしたらここで書いてきた僕の問いへの答えになるかもしれない。僕が意識していたのはあくまで「ゲーデル的脱構築」のほうであるからだ。
追記:注4から注8までに対する注として。なぜデリダはヘーゲルの法哲学に触れてはいないのだろうか?もちろん、発表や講演という性格上、と片付けられてもよいのだが、ちょっと疑問に思っている。なぜなら、ヘーゲルの法=Rechtは正しさ、法、権力の全てを意味する単語であり、その意味でデリダのいうように法/権利と正しさは別物ではありえない。そして事実ヘーゲルはそのようなものとしてつまり正しさ=法としての法哲学を構想している。デリダの戦略として考えるなら、ヘーゲルの法哲学は十分検討するに値すると思うのである(もっとも、そこまで考えていて、あえて無視した形で本書が書かれたのかもしれないが)。
文献:
『法の力』J.デリダ著、堅田研一訳、法政大学出版局、1999。
『デリダ 脱構築』高橋哲哉著、講談社、1998。
『ニーチェは、今日?』J.デリダ他著、森本和夫他訳、ちくま学芸文庫、2001。
『ドゥルーズ 存在の喧騒』アラン・バディウ著、鈴木創士訳、河出書房新社、1998。
『記号主義』N.グッドマン/C.Z.エルギン著、菅野盾樹訳、みすず書房、2001。
『存在論的、郵便的』東浩紀著、新潮社、1998。
『エクリチュールと差異』J.デリダ著、若草他訳、法政大学出版局、1977、1983。
『脱構築とプラグマティズム』J.デリダ、R.ローティ他著、青木隆嘉訳、法政大学出版局、2002。