Old Diary
(2003/1/1〜2003/6/9)
(更新情報含。非常に不定期。2003年1月〜)
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(6/9)
『水に似た感情』、186〜187ページに釘付けになる。以前に「中島らもはジョイスっぽいところがある」と言われたことがあるけれど、まさにそういった感じだったからだ。186ページの電話のシーン。
「今、日本に帰ってきました。はい、元気です。…え、はい大丈夫です。でね、山寺でテジャ老師におれは約束しましたよね、もう一度バリに来るって。ええ。何ですか。ちょっと電話が遠い。はいそうです。だから本当に近いうちに行きたいんです。仕事抜きでその島に。はい、素敵な島だと思います。だから今のうちに決めてしまおうと思って。クラブ・ヌサドゥアの空き状態はどうですか。え?十月の二日から空いてる。よし、それで押さえておいてください。行くのは多分四人から六人です。ではそういうことで、はい、さようなら。」(集英社文庫版より。下線による強調は引用者による。)
僕は(ジョイスをほとんど読んでいなかった事もあって)デリダの『ユリシーズ グラモフォン』がどうしてもいまいちピンと来なかった。イエス、ウィの問題はなんとなく感じてはいたけれども。しかし、このように電話のシーンで何となくひらめきを感じた。つまり、電話ではとにかく声を聞くものとしての「はい」がいる。そしてその「はい」は、新たな会話を導くが、当然それも「はい」を必要とする。ここで大事なことは「はい」は<受け答え>の「はい」、つまり受けと答えが、確認と同時に届けることが行われているということだ。同じくジョイスから多分の影響を受けているマクルーハンのメディア論。身体の延長としてのメディア、メッセージとしてのメディア。それが身体をどうにかして受け取るしかないものであるならば、そしてそのことまで見越して(言葉遊びの領域も含めて)、マッサージであるならば……。
これだけだと単にデリダ(ジョイス)を中島らもさんに読み込んだだけになるので、もうひとこと書いておこうと思う。中島らもさんのよく書く言葉に「ロックはある精神状態をさす」という言葉がある。そしてそれを転じてバロウズ、ミラーはロックだという(『リリパット・アーミー』ばらし編、『バンドオブザナイト』など)。さて、ロックの歌詞にやたら「yeah」が出てくるものだとしたら、まさにジョイスはロックだといえないだろうか。何にイエスというのか、どうしようもない世の中か、それともそこに救いを見出してくれる神イエスにか?そうじゃない。イエスはどこにでもあること、連呼すること、こういってよければ汚され、錆びつくことによってイエスはイエスになる。「きれいは汚い 汚いはきれい」、これも中島らもさんの好きなフレーズだが、ロックとは、イエスとは、汚くしてきれいにすることだ、そう思う(愛とか平和とか、聞くだけで反吐が出そうな言葉もそうだ。どうしようもない嫌悪と、どうしようもない憧れの両方を感じなければそれは愛でも平和でもない)。もちろん、変な矮小化になっている恐れもたぶんにあるんだけれども。
(6/8)
『幾何学の起源』、今日中に終わらせる。今現在10:40だけど、明日はもちろん仕事があるけれど、やるぞ(これ書いてたら11時5分前になっちゃった)。
古本屋で『水に似た感情』を買う。最近この本の著者である中島らもさんの判決(クスリでつかまっちゃってた)が出たみたいで、とりあえず一区切りがついたみたいでもある。
僕は高校生の頃に彼のラジオからエッセイ、小説にじょじょにハマッていったクチだ。『今夜、全てのバーで』、『人体模型の夜』、『バンドオブザナイト』は感動しながら読んだのを覚えている。彼の小説は混乱しているようで、透明だ。これ以上の感想を今書いたが消した。うまく書けそうにないからだ。ただ、クスリは依存していたのだが、その依存を認めてしまうほどの何か(弱さ?アンピュイサンス?)が彼の文章の美しさになっている。クスリを僕は認めないが(このことは明言しておく)、その何かは認める。そこにはどうしようもない倫理、力、その混合物があって、今の僕にはどうしようもない。
わかぎゑふさんが愛媛新聞にエッセイを連載してた。
倫理で思い出したけれど、デカンという人の書いた『フランス現代哲学の最前線』(廣瀬浩司訳、講談社現代新書)を読んでいると、カントの三批判書を科学、倫理、芸術と読み替えていて、それが僕には面白かった。『哲学とは何か』で問題にされている分野と似ていたから。もう少し、哲学、倫理、存在論、そういったものの異同を見分ける能力があればうまく比較できるんだろうけど。月末に『無人島』。
(6/7)
『知覚の現象学』の中で「相対的に絶対的」という言葉があって面白かった。
というのも、以前僕はこの言葉を(そういうことを知らずに)使ったことがあるからだ。もちろんこれはおかしな概念で、そのとき聞いていた先輩には笑われた。このときにはちょっとだけ自分の感性に自信を失ったが、今回の読書でその分は回復した。
ヘーゲルの『法の哲学』をパラ読み。意外に抵抗なく読めるので、一節分だけ読んだりしている。そのため、まだまだ序盤なのだが(そもそもこれを読書ルーティンには入れない。あくまで暇つぶしだ)、その中で意外だったのは「直接的無媒介」という言葉(訳語だけど)があったことだ。僕はこの言葉をむしろ徹底的に反ヘーゲル的な立場から覚えたので新鮮だった。もちろんヘーゲルはあんまりいいようにはこの言葉を使っていないけれど(というよりも、ヘーゲルの偉いところはそこで、何だかんだいって強靭な理論だと思う。だからこそ「直接的無媒介」なんて言葉は生きてきたのではないだろうか。ちょうど病原菌をわざわざ体の中に取り込んで抵抗力をつける免疫のように)。あと、『法の力』とはまた違った法(権利、正義)哲学があって、そしてこっちのほうが常識的(というより、やっぱりこの議論を下敷きにしないとわからない)。
青山拓央さんの『タイムトラベルの哲学』買う。まだ読んでいないけれども、時間を見て。
突然だけれども僕はあんまり時間論というやつに興味がない。最近は何かそこから抜け出せそうな感触をつかみつつはあるのだが。
(5/29)
今月の『現代思想』所収のJ.デリダの「ならずもの」を読む。
…。あえて独り言的感想を言うなら、この部分を訳すか!?ってことか。
何かデリダにしては常識的過ぎるというか、脱構築的読解もひねってないというか(『法の力』読んどけばわかる程度しか書いていないような)。これはデリダの新刊の一部らしいので、もう少しひねっているものだと思う。思うだけに、もうちょっと違うところの訳を載せてほしかった。
デリダの名前が出たついでに、デリダとドゥルーズについての雑感を。
彼らに「どちらが具体的で、どちらが抽象的か」という問いをたてるのが無意味だと気づいた。
なぜならドゥルーズはずっと経験のレヴェル、話ができるレヴェルで書き続けるので具体的である。しかし、その話によって指し示されるもののメタモルフォーゼが強く、早く、めまぐるしく変わるので、その点では抽象的である。一方デリダはあくまでもその対象から離れることがない(ソシュールのテキストならソシュールのテキスト、フッサールのテキストならフッサールのテキストなど)。その点で彼の書くテキストは具体的である。しかし彼は相手にするテキストが話す以上のことを、話ができないものをそのテキスト自身からひっぱってくる。だからデリダは抽象的だ。
今月前半にあった学会の発表での感想が形になりそうな気がする。
全く自分のためだけにヒントを書いておく。
存在と時間。カルナップからクワインへの問題。そこに組み合わされるべきグッドマン、クリプキ。青山さんの本の一節。etreではない、etの意味。それをこの人たちの話に組み替えるとどうなるか。
(5/28)
ちょっと趣向を変えて、自分の中にある断片をいくつか。
光と影の関係。
光があるところには必ず影があり、影のあるところには必ず光がある。
しかし僕は想像の上では「完全な光の世界」、「完全な闇の世界」を考えつくことができる。
そしてこの二つの完全な世界を考えた場合に、完全な闇の世界の方がありえそうな気になる。
なぜなら、「完全な光の世界」と記述した時点でその世界には自分がいることになり、
僕の存在が影を作ることになるのに対し、
「完全な闇の世界」と記述したとしても、つまりそのような世界に自分がいたとしても
自分が光となることはないように思えるからだ。
ということは、闇を基調に思考すべきなのだろうか。
しかし、完全な闇の中で書く、言うということはありうるのだろうか(「闇」という字を見てもわかるとおり、闇の中では音さえも閉じ込められている)。そもそも闇という言葉自体が光なき状況では考え付かないのではないだろうか。これまでの考えをまとめてみると、
(完全なる光の世界)<(完全なる闇の世界)<<<(<<<<・・・)
ありとあらゆる属性を挙げていくと、最終的に残るのは
「存在するもの」「存在しないもの」の差異。しかし、その瞬間に
「言葉上で存在するが実在しないもの」「言葉で語られることもそもそもない存在しないもの」という、
存在そのものが存在の差異を呼び寄せる。
記号は何かを表象しているだけではなく、何かに表象される運命にある。
何かに表象されるということは何かを表象していることの逆であるということ以上に、
何かを作り出すという運命を担わされている。
バタイユが理性と差異について触れていた断章があったはずなのに(『呪われた部分 有用性の限界』ちくま学芸文庫)見つからない。僕の記憶の中では理性と差異について書かれた言葉の中でもっとも納得した断章であったような気がする。結果的に僕の立場と違うんだけど、こういわれたら納得するしか仕方がない、そういう印象を抱いたはずなのに……。
NHKの外国語講座のTVはあざといキャスティングをしているように思える。
ドイツ語の人って、たしかリプトン紅茶のCMに出ていたような。あっちではイタリア語だったような。
他にも英語は加藤夏希だし。フランス語は何か声優っぽかったし。
CMと外国語で思い出したけど、NOVAうさぎの汽車編のオチが好き。
(5/26)
書評を若干変更。今日からメルロ=ポンティに復帰。ちょっとずつの精神で。
斉藤慶典先生の『デカルト』出てたのを見つける。
天気は雨。そろそろ梅雨か。僕はそんなに雨が嫌いなわけじゃないけれど、通勤中には雨具を使わなくてもいい程度に降っていてほしい。別に僕が家、ないし職場についたとたん大雨でもいいから。
やっぱり図々しいか。
(5/24)
たまには日記らしい話を。
先日、職場の人とお酒を飲む機会があったのだけど、いろいろためになる話を聞けた。
特に印象に残っているのは「君はハードというよりはソフトの面を扱う仕事だと思う。でも、こういうハードを扱っている人の話もしっかり聞いといたほうがいい」という一言だった。ここでいうハード、ソフトとはものを扱う仕事と人を扱う仕事と言い換えても構わないと思うのだけれども、とても興味深かった。ものを扱う仕事、いわゆる技術系、工学系の反応は言ってみればイエスかノーかはっきりさせることに重点が置かれる。統計とかを考えると、はっきりしないものもはっきりさせようとする姿勢だと思う。一方、対人の仕事は簡単にイエスかノーか言えるものではないと思う。ただ、だからといって、どちらが優れているわけでもないことが大事で、むしろそういう価値観をしっかり自分の中に取り入れることが僕自身に必要だとあらためて思い直した。ちなみにこの言葉をかけてくれた人はハードを扱う仕事に属する方なのだが、自分なりに広い価値観をもっているからこそ僕にそういうことがいえるのだと思うと、まあ先輩には恵まれている職場なのだと思い直した。職場の感想をついでに言っておくと、みんなのエネルギーが外に向いているというイメージを持っている。エネルギーが外に向くということはそれだけ強いエネルギーを生み出す力があるということ、そしてエネルギーが変質しない、率直に言ってしまえば腐らないということで、僕はそこが第一に気に入っている。
デカルト追記。
今回はロジックとレトリックの関係をからめつつ(そしてそれはさっきのハード/ソフトの話にもつながると思う)。
前にちょっと触れたデカルトの一直線性を少し別に考えてみたい。もっとも、これについてはデカルト自身の著作を読めば、すぐにわかる。それは「良識」(『方法序説』)である。デカルトは『省察』でもっと過激に、神を信じない人には理屈で説明してやる必要がある、バカに対してこちらが説得するっきゃないでしょ、というようなことを書くわけなんだけれども、なるほどと思わせる。人はどうしても考えてしまう。このことはまだいいんだけれども、問題はそれが(理性の持つイメージではあるのだが)、何か頭でっかちなものとすりかわってしまったことにあるのだと考える。で、デカルト以後の人はああでもないこうでもないとケンケンガクガクなわけなんだけれども(そしてその中には僕もいるんだけれども)、僕がおかしいなと思ったのは「良識はみんなにそなわっている」というテーゼを批判している人は良識がみんなにそなわっていることを批判しているところである。自分で書いてて???なので、少し言い直すと、僕が疑問に思うのは、じゃあみんなにそなわっているとデカルトが思ったものは実際にはなんだったのかという問いの立て方がほとんどない、ということなのである。「良識は」「みんなに」「そなわっている」と仮に三つの部分にわけたとして、その部分部分に対する考察が抜けているように感じるのだ。デカルトを批判するということは良識を否定するのではなく良識がどのようなものなのか、どういうものがみんなに備わっているといえるのか、あるいはそうでないのか、そしてそなわるとはどういうことなのか、先天的なものなのか、後天的なものなのか、そういうことを(丹念でなくてもいいから)考えることなのではないだろうか。
で、ロジックとレトリックの話に戻るんだけれど、普通レトリックを使った答えというものは詭弁とみなされ、「ロジカル・シンキング」なんて本がよく売られていることからもわかるようにロジックが優先はされる。だけれども、はたして本当にそうなのか。デカルトの議論を読んでいると、ロジックも使っているんだけど、ロジックを使いながらレトリックの場面に踏み込んでいる箇所、例えば神の証明なんかがあると思う。つまり、ロジックとレトリックの間にはある連続性があるんだけど、そこにはちょっとした質的変化が起こっているのではないかと考える。そして大事なことはレトリックがなければ言えないことがあるということなのだ(前出のウィトゲンシュタインはそこを放棄させたという点で、そこをストイックに考えた人だと言うことができると思う)。ただし、ここでレトリック>ロジックと考えるのはあまりも早計で(デリダの脱構築ではそうなりかけそうなんだけれども)、ロジックがレトリックより精度が高いと考えればいいのではないだろうか。つまり、レトリックの妥当性を(レトリックのほうが正しいという可能性をあくまで排除しない限りにおいて、ではあるが)測ること(つまりそれが詭弁になるかどうかの第一チェックポイントになること)であると考えればいいと思う。僕はデカルトの良識とはロジカルなものだけではなく、レトリカルなものを考慮に入れて再考されるべきなのではないだろうかと考える。
(余談を一つ。大学時代の演習のときに先生が相対主義について話をされ、「何でみんなが違うということからみんなが尊重されなければならないという考えが出てくるのか僕にはわからない。普通、みんなが同じであるからこそ尊重するものだと思うんだけれど」というようなことを話されていた。そのあとは固有名がでたこともあり内容は伏せるが、僕はこの先生の考えに共感する。もちろん、この考えが排除を生み出した、という指摘も成り立つのだが、それを先生が知らないはずもなく、むしろそこであえて共通点を見つけ考え抜いていこうという姿勢は勉強になったと思っている。僕のデカルトに対する読み方の態度の一つには、明らかにこの時の出来事が影響している。)
デカルトではそこがあいまいになるが、あいまいだからこそこちらはそのあいまいさを尊重しなければならない。つまり、人には何かどうしても考えてしまう生き物であるということが大事で、実は理性とか観念とかの内容についてうんぬんしていても、あんまり生産的ではないと思うのだ。例えば、デカルトの考えを推し進める形でのフッサール(『デカルト的省察』)やデカルトがどのようにそう考えたか、その考えを自分たちなりにパラフレーズするならばどうかと考えた西田や小林の読み方は結論や考え方に違いはあれど面白かった。でも、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』ではデカルトが観念的であり、でも神の問題を考えるにあたってはボロがでて迷ってしまっているというデカルト像しか見えてこない。ある意味ベルクソンに対する態度のほうがよっぽど前向きであるようにさえ思えるのだ。もっとも、ここをあんまり激しくつっつくと今度はメルロを生産的に読むことが難しくなってしまうので(つまり、他の場面での示唆に富む内容をも封殺しかねないからではあるが)、あまり書かないが、僕が『知覚の現象学』を読んでいて一番不思議に思うことはそれである。
ちなみに先日の学会の際に、ある本の解説を読ませてもらったのだが、そこには「すなわち」と「だから」の違いが論じられていて、センスのよさを感じた(デカルト的にはいいセンスはみんなにあるはずなんだけど)。ここの問題系で言えば「すなわち」はレトリック的な接続語であり、「だから」はロジカルな接続語である。しかも驚くべきことはこれが理系の人によって論じられているということだ。正直な話、「すなわち」も「だから」も∴←コレで代用する人たちだという偏見を自分が持っていたことに気づかされた。問いを触発したものの一エピソードとして書いておく。
最後に再び日記らしく。
「MAXX UNLIMITED」の踊をようやくクリア。激は僕には無理。
「HOD3」、ついに220k台突入。しかし今や撤去との戦い。
(5/18)
『法の力』(J .デリダ著、堅田研一訳、法政ウニベルシタス、1999)を通読。
「内容が薄い」というコメントをどこかで読んだことがあるけど、それは一面真実なのだろうと思う(じゃなかったらこの土日だけで読めていないはずだから)。ただ、一回読んだらそれでOKかというと、どうもそうではないみたいだ。まずベンヤミン『暴力批判論』をはじめとする諸作品。それに加え自らの著作との関係(『掟の門前』、『暴力と形而上学』etc
.)。そういったものをもう一度読まないとわかったとは言えなくなってしまう。何せ読んでないし、読んでないけど大事なことだけはわかるというのが何かムカつくし。
ところで、この本の主題をものすごく、それこそ暴力的に切るならば「なぜねずみ小僧とかの義賊ものの時代劇を面白く見れるのか」ということに尽きると思う。また、『知覚の現象学』(こちらはまだ読書中)も同じように「『伊東家の食卓』をつきつめていくとどうなるか」というように言えるとも思う。うさんくさんくなるけど、実際「伊東家の食卓」で「地の上の図」のこととか「アリストテレスの錯覚」とかは(もちろん企画に合わせてある程度形は変えられていたけれど)やられているのを僕は見たことがあるからだ。これらの著作は問題意識が率直に出ていると今感じている。もっとも、その洗練のさせ方、しつこく考える強さは僕には到底真似のできないものなのだろうけれど。
(5/17)
某学会に出席してきました。というよりはお手伝いなんだけど。しかもそんなにお手伝いしてないし(汗)。しかも結果的に何食かはタカってしまったし(滝汗)。そのときの簡単な様子は掲示板のほうにカキコしたので、気になる人がもしいたらそっちを読んでください。
さて、帰ってきてから(そう言えば連休の挟まっていない週だった)読んだこと、考えたことなどを。
『哲学』(島田紳助、松本人志著、幻冬舎)をようやく入手して読む。とても面白かった。大事なことは僕の今書いている「笑いについて」で使うので、あまり詳しいことはかけないが、印象だけを。この本は二部構成になっていて、第一部が笑いの哲学について、第二部が人生哲学についてというようになっている(島田と松本の往復書簡のような形式になっている)。そうなんだけど、僕には第一部は納得することしかできず、第二部のほうが笑えた。つまり「〜哲学」の〜の部分とその反応が逆なのはちょっと面白かった。これはベルクソンの『笑い』を読んだときにも思ったことなんだけど、笑いを分析する文章は笑えないという性質を持っていて、そのこと自体が結構笑える。ただ、最後のほうは若干考えさせられたかな、という印象。解説は…。まあ、二人じゃない人が書いたということで。
そう言えば解説で思い出したけど、今回の岩波『思想』に『帝国』の書評が載っていた。けど、あれは書評というよりは要約になっているような感じ。毎日新聞で以前三浦雅士さんが『帝国』の書評を書いてたけど、あれも全体にコバカにしているようなニュアンスが出ていてあんまり好きになれなかったような気がする。書評(ないし、本を前に発言すること)は実はとても難しいことなのだと思った。しかし、同時にそれが思考のこの上ない訓練になるとも思った。僕の友人が今週その種の発表を行ったそうなのだが、同じような感触を得たのではないだろうか。
(余談ながら、ネグリの自伝を立ち読みしたけど、あれはよかった。彼の社会活動的な側面と哲学的な側面、彼の言う「トニ・ネグリ」と「アントニオ・ネグリ」の接合面が「N」のネグリの欄でよくわかったような気がする。)
たてとよこ、つまり時間と空間の関係について追記。
このたてとよこという言い方を僕は西田幾多郎に負っている。例えば彼はこういう。
「一度的なるもの即ち縦に直線的なるものが、絶対矛盾的自己同一者の自己限定として、即ち場所の自己限定として、横の一直線として自己自身を有つということは、絶対否定を媒介として自己自身を有つということである。それはすぐ逆に、縦に直線的なるものが、横に直線的なるものからということでなければならない。私のいわゆる場所においての直線とは、いつもかかる意味においての矛盾的自己同一でなければならない、時間的空間的、空間的時間的でなければならない」(「自覚について」、『西田幾多郎哲学論集3』、岩波文庫1989に所収、202ページ)。
大体これで僕の考えてることも言い尽くされちゃっているような感じもするが、つまりの空間も時間もある程度の互換性をもって語られうる、ということだ。もちろん、この二つは似て非なるものなわけで安易に混同してもらっても困るんだけど、その境界上で存在するわれわれは思考し、言葉にしているということは頭の片隅にでもとどめておいたほうがいいと思う。
ところで、時間と空間の出発点ともいえるのが「いま、ここ」だと思う。このことはもちろん当たり前のことなのだけど、だからといってそれは「いま、ここ」を当たり前にしていいということを意味してはいない。なぜなら、僕たちは「いま、ここ」を欲望するものでもあるからだ。以前一青窈さんのアルバムについてさんざん書いていた時期があったけど、その中に収録されている「イマドコ?」を僕が好きなのは、「いま、ここ」を欲しがるというものにとても共感したからでもある(ちなみに実家に帰った際妹と話をしたら「そんなに束縛する女、イヤじゃない?」と一蹴された。まあ、そうなんだけど…)。つまり、それを目的にしているあまり、それが出発点だという虚構を描いている可能性も充分あるというわけなのだ。まずはそのことを確認しておかなければならない。
で、僕が何を考えているのかというと、「ここ」について、つまり空間的、場所的なものに対して考えることが実は必要なんじゃないかってこと。実は「いま」、時間的部分の考察はものすごく多くの本が出版されている状況で(新書とかで入不二基義先生とか青山拓央さんとか、学術書でも中山康雄先生とか)、とりあえず考えられてはいると思う。でも、空間的なものはどうか。グローバリゼーションでもディアスポラでもいいけど、何か全体ということを言って終わってしまってはいないか、(僕の不勉強さを棚にあげてしまえば)そう思ってしまう。でも、本当に大事なのは「ここ」について考えることなんじゃないだろうか。
ここからはアイディアの素描(というより慧眼な人ならあっというまに何の議論をパクっているかわかる程度のものでしかないのだけれども)にしかならないが……。「ここ」の持つ「ここ」性とでもいうか、その安定性は、「ここ」とだれかが言うことによって確かなものとなっている。例えば僕が「じゃ、1時間後ここでおちあおうね」と言ったとする。この場合、僕が「ここで」ということを言わなければ「ここ」はないのである。もちろん、「ここ」が共有されない場合もある。例えば相手が「ここ」を僕より広い意味にとってしまえば1時間後梅田のビッグマン前で、携帯電話に「ここっていうたやんけ」とどなる僕と「えっ、ここって梅田駅のエスカレーターの前ちゃうかったの」という会話がおこることになるかもしれない(って、ローカルな例えだよな…)。つまり、「ここ」は「ここ」ということでのみその「ここ」性を手に入れることができるのだが、実はそのせいで「ここ」は「ここ」でなくなり「どこ」になってしまう可能性を秘めてしまう、そういうことなのではないだろうか。つまり、「ここ」を「ここ」たらしめているものの中に「どこ」があるということになる。しかし、それでは普段「ここ」が「どこ」に変わらずに機能しているとき、その機能を保証するものは、要するに「ここ」と「どこ」をはっきり区別させているものは一体何なのだろうか?
また長くなってしまった…(この文を知っている人はフーコンファミリーのマイキーにとりついた悪魔の声でお読みください)。ま、でもこの文を圧縮して送ったメールよりマシか(って、ソイツの迷惑も考えろよ>オレ)。
(5/7)
連休はあっという間に終わってしまった…。それなりに楽しかったからいいんだけど。
『知覚の現象学』、一巻の山場を越える。僕はその中でメルロ=ポンティとベルクソンとの関係に興味を持った。よく言われているように、メルロはベルクソンを手厳しく批判している。要するに物と一体化するような考え方はおかしい、そうメルロは論じ、そして彼を主知主義の仲間に数えている。だけど、ベルクソンの哲学の面白いところは<持続>にあるのであって、あるものが自身のうちに内包せざるを得ない違い、そしてその違いが展開していくダイナミックなところにこそあるのであって、そこを意図的とさえおもえるそぎ落とし方をしているのはやっぱりおかしいと思う(訳者もベルクソンを主知主義者に数えていいのか、という疑念を訳注で表明している)。しかしその一方でメルロ=ポンティはベルクソン的な言葉を使う。「メロディー」という比喩がそれで、彼は身体が世界と積極的に関わりあう様をこの言葉で肯定的に使っている。とすると、メルロがめざしたものは何か、ということになるんだけど、それはベルクソンがたての流れ(=時間)でとらえたものを半ば強引に横の流れ(=空間)に組み替えたところにあるのではないかと思う。以前僕はある研究発表を聞く機会があり、その中でメルロの「両義性」(アンビギュイティ)を「あいまい」と訳すべきだ、という発表を聞いたことがある。これはこの縦と横の関係を捕らえて初めてその根拠を持つのではないかと思う。
で、ここまでは実は前フリで(!)、現在僕が考えているのは記号論とニーチェ=ハイデガーという現代思想源流ベタベタネタのとらえなおしである。ニーチェのいう系譜学とか、ハイデガーの言う言葉の起源とかは実際の歴史学ではボッコボコにされている。しかし、そういうことが問題なのではない(事実ニーチェは『道徳の系譜』でそう書いているし)。大事なのは縦を横に組み替える、横を縦にする、その乱暴なまでの創造にあるのだということなのではないだろうか。そう考えたとき、ソシュールが(動機はどうであれ)通時態ではなく共時態に考察を移したことは重要な意味を持つ。つまり、パースのセミオシス(記号過程)では微妙な論点とならざるをえない時間の問題は(つまり意味の変遷を時間のみに規定することができてしまう)、ソシュールの記号論でより積極的にとり出される(つまり意味の変遷をより無限の時間と自らが生きる有限の時間において考えることができる)のではないだろうかと思う。恣意性の原理、線形性の原理は批判されているが、むしろこのように捉えた場合まさに自己矛盾的な原理であることがわかる。なぜならば両方とも無限の時間に属する原理であり、ソシュールが横に限定したにもかかわらずあらわれてしまった縦の性格をもつ原理だといえるからだ。恣意性の原理は時間を理想的に無限化しなければ言えない(なぜなら<今>、私たちはその意味でその記号を使っているのだから)し、線形性の原理は時間を要求する(たとえて言うならば意味はすべて同じ時速になってしまう!)。それでこの原理を批判してソシュール記号論がだめになるかというとむしろ逆で、そこで現在は無限の現在になることができる。つまり、ここまできて初めて「水あめのように伸びた時間」(小林秀雄)ではない時間を新たに考えることができる。そしてこれはもっともラディカルな(というより書いてる僕が思うのだが、これは半分狂っている)時間論、そして自分がどうあるのか、あるべきなのかという(あんまりこういう言葉は使いたくないが存在論とか倫理学とかという)問題を考えることができるのではないだろうか。
やっぱり書きすぎた…(自己嫌悪)。しかし、掲示板で予告した以上、もう一つのお題についても書かざるをえまい。もう一つは西田幾多郎とデカルトの追記。というのも、あのあと池田晶子さんの本を読む機会があり、そこで彼女はデカルトにとって矛盾などなかった。すべては説明できるものだったに違いないのだ、というような一節を読んだからだ。もちろん最初は何言ってるんだ、くらいにしか思っていなかったのだが、実際考えてみるとデカルトは十分そう読むことが可能である。ならば、デカルトを読むということはどういうことなのかを僕なりに考えてみなければならない、そう思った。以下はその考えたことの記述である。
デカルトを矛盾を受け入れて書いた人としてとらえることも(西田、小林)、すべてを理屈で説明しきったととらえるひとも(池田)、どっちにも考えることができる。これはデカルトがあいまいな書き方をしていることに起因するのだろうか。おそらくそうではない。どちらの立場の人もデカルトを正しく読んでいるということができると思う。それはなぜか。僕はそこに翻訳の問題を見る。翻訳といってもフランス語(デカルトだからラテン語もか)から日本語へというものではない。むしろ思考の翻訳というべきものがそこに行われているのではないだろうか。結論から言うとそういうことになる。ここでもう少し両方の立場に即して考えてみることにしよう。まずは西田幾多郎から。彼はある手紙にこう書く、「コギト・エルゴ・スムが矛盾的自己同一として既に歴史的世界構成の論理だと思うのです」(昭和十八年、西谷啓二あて、岩波文庫『西田幾多郎随筆集』p357)。ここで西田の思想とか固有語とかを一切排除して考えるならば、ある意味において「われ思うゆえにわれありは矛盾の論理だ」とパラフレーズすることができる。一方、その後の展開には彼は冷淡ですらあり、「デカルトのかかる考といい、(中略)、鋭利なる頭脳にふさわしからざることである」と書いている(「デカルト哲学について」、岩波文庫『西田幾多郎哲学論集3』所収、p281)。しかし、池田の立場から言えばこれはデカルトがすべてが説明できると信じていたことの、少なくとも積極的な意義に捉えられるべき証左である。で、なぜここに翻訳の問題を持ち込むのか。僕にはこう読めるからだ。つまり、矛盾的状態にまで考えを推し進めるのは、実は哲学の最終段階一歩前である。問題はそこから何をもって飛ぶか、どういう言葉を発するかにあると思う。そこでデカルトは何でも論理で切れるとばかりに論理を使いまくったのである。矛盾をおこした世界は当然<論理をも許容する>。矛盾のある公理系ではすべての命題が真になるのだから、論理によってえられた真なる命題は、真なる命題であり、ただ、論理によってえられない命題も真であるということで、相対的に価値が落ちることになる。しかし、そこに論理を通すということはどういうことになるのか。それは矛盾の世界を方向付けることになるのではないだろうか。つまり、それも一つの道なのである。一方、僕はそこにやっぱり矛盾を見てしまう。何でも理屈で切れるというのはロゴス中心主義といわれ、デリダによって批判されたが、彼もまた理性によって考えなければいけないことは否定してはいない。しかし、そこにちょっとまってくれと手を入れる考え、そこに翻訳が起こっていると僕は考える。どちらがいいというのでもないし、どちらが悪いというわけでもない。ただ、(何でも理屈で説明しきれるというデカルトから)そこで立ち止まってしまう思考への翻訳というのがあるということだけは事実のように思えるのである。なんだか安易な比較文化論と安易な相対主義の一歩手前(片足突っ込んでる?)になってきたので、ここで結んでおくのがいいだろう。
しかし、長い日記になってしまった。
(4/30)
給料貰う。決して多いとは思わないけれど、でも額じゃねーなーと思う(何より自分が額に見合うほど働いてなんていないことは自分が一番よくわかってるし)。単純にうれしい。
「夜逃げや本舗」見る。わりかし悪役に気を使っているような気がするのは僕だけだろうか。前回は篠井英介だったし、今回は秋野太作だったし。メンバーの中では生瀬さんと田畑さんがお気にいり。
今日で4月が終わる。怒涛の4月だった(一番しんどかったのは僕のような人物が入っててんやわんやだった同じ職場の人たちであることはおそらく間違いないが)。それでも研修を経ると、それなりにみんなが打ち解けてきているのが不思議だった(いくつかのグループに分かれて、しかもそれぞれが別日程のはずだったのに)。
4月といえば、新しい環境で一息ついたであろう人たちから(先輩後輩含め)、近況を知ることができた。いかんせん僕がなかなか自分から聞き出さなかったことが悪く、むしろ僕のことを心配してくれて、という感じになってしまったかもしれない。ちょっと反省。
(4/27)
昨日の追記。哲学のエッセンスシリーズは題名に人名ともう一つ、テーマが副題につくという性質がある(例えばカントなら「世界の限界を経験することは可能か」、ドゥルーズなら「解けない問いを生きる」など)。で、小泉=レヴィナスの副題は「何のために生きるのか」というものだった。しかし僕には最初この問題設定がしっくりこなかった。というのは、レヴィナスの一般的評価として「他者」「存在」というキーワードがあり、「何のために生きるのか」という問いは自己中心的な問いだと思われたからだ。自分だけの問いであれば存在なんてことをいう必要はない(デカルトのおかげかな?)し、他者の問題なんていうまでもない。しかし、ここに僕の思い落しがあったのではないかと思っている。
話は変わるが、蛍という詩人を知っているだろうか。以前『Quick Japan』で、彼女の詩の朗読と、それを聞いて感動する観客(ポエトリーリーディングというやつですね)という記事がのっていたのを読んだ。その時に蛍が詠んだ詩の内容は(ということは詳しくは忘れたということなんですが)余分な人たちなんて皆死ねばいいのに、みたいな内容だった。正直な話、なんでこれが感動なの?と思ったが、実はこれこそ僕が知りたいことなのかもしれない、と今は思っている。
「何で余分な人たちが死ねばいいというので皆は感動したのか」という問いは実はすごく他者的なのだ。そしてここに「何のために生きるのか」という問いのジコチュー性が重なる。自分が生きるということは他の生き物を犠牲にしている、なんてことはいまさらなことだけれども、それはつまり生きていくために死んでほしいという願いがある意味本質的であることを示している。なぜそうなのかというと、それは生きているからだ。つまり、生きている(存在している)ということから私やあなた、キミとボクというものがすでにはらまれているのだ。しかもそれはどちらが主でどちらが従というのでもない。ただ、いわゆる現代思想というやつは存在しているということを最初に直観していたのではないだろうか。そこから主体の形成なんてことを言い出すのだと理解しているが、僕らがその問題を受け継ぐことは、その二分性を徹底的に消すこと(を示すこと)でしか成功しないんじゃないかと思う。その思いがドゥルーズやデリダの二重肯定(前者は『批評と臨床』所収の「ニーチェによるアリアドネの神秘」、特に邦訳p206、後者は『ユリシーズ グラモフォン』所収の同名論文)やレヴィナスへの興味につながっているのだと思う。
しかし、もう一つ。なぜこれが興味なのかというと、実は僕は古風に、つまりはデカルトやカントみたいに自分というものを考えたいからなのだと思う。
何かまとまらなくなってきたので、今日はここまでにしようと思う。
(4/26)
NHKブックスのシリーズ・哲学のエッセンスから『レヴィナス』(小泉義之著)が出ていた。今日は確認だけだったが、ぜひ買って読んでみたい。レヴィナスは『実存から実存者へ』(西谷修訳、講談社学術文庫)を買ってはいたのだけど、イマイチ読みはじめることはしなかった。何かのキッカケになることを考えつつ。
(4/25)
研修から帰る。いろんな人と逢えて、それだけで勉強になる。
研修中に『知覚の現象学』を読み始める。最初はとにかく現状心理学についての批判なので、最初に読んだときはとっつきづらかった。しかし、今回読むとそれが結構面白い。いい意味で力が抜けているのだろうか、かえってメルロの思想にうまく焦点が合った、ように思えた。暇なときの読書だったため現在は「現象野」までしか読めてないけど、がんばってみようと思う。
あと研修所の図書室で『世界認識の方法』、生松+木田の名コンビの本をそれぞれ見つけ読む。生松さんは本当によく勉強される方だと心から思う。ワールブルクの図書館を前にしたカッシーラーの言葉なんかには鳥肌が立った(その後同じ図書館を訪ねたのがユクスキュル、だったかな?)。あと、ランガーがカッシーラーのアメリカの弟子だと(はずかしながら)はじめて知った。木田さんの本によればパース、モリスの流れにも気を配っていらっしゃるようだ。ここまでいけば第二次世界大戦前後の哲学界がどのような流動を見せていたのかが少しだけわかる。木田さんといえばまず思い浮かぶのがハイデガーだけど、現代哲学の始まりがここら辺にかなり集約されているように感じた。
『世界認識の方法』では、吉本隆明が何だかんだ言いつつも『言葉と物』をかなり深く読んでいたことを知った。フーコーのウルトララディカルさに対する留保もよくわかる。何分時間がなかったのでザッと読んだだけだったが、吉本のフーコー読解ということだけでも十分に面白い対談だったと思う。
『世界の名著』のヘーゲルの巻を古本屋で見つけ、さっそく購入(100円!)。現在中公クラシックスからはこの中に収められている『法の哲学』が出版されているが、それが二巻本で、しかも値引きなしということを考えると、かなりお得だった。でも、僕が本当にいいと思ったのはその前の小編『精神の現象学 序論』である。あのそれこそ名著であるものの序論部分を、しかも山本信先生が訳していたのである。一応、本当に一応僕は山本先生から見れば孫弟子の関係にあたるのだけど(こんなこと書くと先生に怒られるかもしれないな)、この人は自身のわからないことに忠実だったのだという印象を大学時代の先生からの見聞で持っている。人は自分が知っていることにも鈍感だけれども、実は知らないことを無視していることが多いのである。ソクラテスが指摘したのはまさにそこであるし、デカルトは結局学問は何の役にも立たなかったというようなことを言い放っている。その意識を受け継ぐ先生が絶対知なんてことをいいだす本の序文を訳したのだという事実は忘れられるべきではないと思う(中公はマジでクラシックス所収を検討すべきだった)。こっちもぜひ読んでみたい。
(4/19)
西田幾多郎の「自覚について」(『西田幾多郎哲学論集3』所収、岩波文庫)をほぼ一年ぶりに読み返す(昨年の2月11日の日記を参照)。どうも僕は自身の不安を感じているときにこの論を読む癖があるらしい。ただ、今回の場合はデカルトを読もうというのがあって(といってもおそらく自分に不安を感じていた、という出発点はかわっていない)、小林秀雄の「常識について」(『考えるヒント2』所収、文春文庫)を読んだ後にトライした。
今回は前回よりもよくわかった。というよりデカルト哲学についてよりも長い分わかりやすくなっているのではないかとさえ思えた。西田はデカルトとスピノザをセットにするのが好きなようで(あとに収録されている「デカルト哲学について」もそんな感じだった)、しかもそれがナイスチョイス。僕の大学時代の先生は西田とベルクソン-ドゥルーズを重ねて読もうとしているが、そのあたりもバッチリわかった(というより、『シネマ』/『フーコー』間の絡み、つまり中期から後期への移行のガイド本として読めるのでは?)。デカルトといえば二元論であるが、デカルト自身を結節点にした、あらたに二元論を作り出すようにして読むその読み方はデカルト以上にデカルト的であるとさえいえると思う(そこにデカルトの「我思うゆえに我あり」という自覚を結節点として入れる西田、一方で<とりあえず>二元論を受け入れ、「我思うゆえに我あり」の境地に至り、<再び><そこからの>二元論を構想したものとしてデカルトを読んでいる小林)。同時に、立ち読みで『デカルト的省察』(浜渦訳、岩波文庫)も読んだけど、こっちはその結節点の徹底化として読めた。こっちはこっちで面白いとも思う。つまり、結節点の欠点に目が行くのもまた正しい態度だと思うからだ。
僕の読み方はわかるというよりは面白かった、といったほうが正しいのかもしれない。しかし、なんせ面白かったことということだけは明記しておこうと思う。
(4/18)
23歳になる。
昨日「ダウンタウンDX」を見ると、EDテーマがa.mia+key of life!坂本さんのHP日記で誰かと組むということ、タイアップがあるということは知っていたが、こういうことだったとは。何回もこの日記で触れているので繰り返さないけれど、本当に僕に与えた影響は大きい。思いっきりスノッブな、自己満足のためだけに彼らに関する文章を書こうと思ったこともある。
(追記:この後、坂本さんの日記で新曲の詳しい紹介がなされるようになっていました)
本屋で西原理恵子の『人生一年生』の二号を見かける。正直言って前回より面白い。前回はあまりにもごちゃついている印象があったけど、今回は一つ一つの内容がはっきりしているためにメリハリがついてよかった(これ以上ごちゃごちゃさせるとどこからどんな内容が始まっているのかがわからない前回のようなのになるし、あまりすっきりさせすぎると『鳥頭紀行』化する)。ただ、ある種の毒はぬけているような感じがするので、西原さん独特の毒が好きな人には賛否が分かれるものかもしれない。
「記号学の原理」読む。これで『零度のエクリチュール』を読了したことになる。橋爪大三郎さんは『はじめての構造主義』の中で二項対立できりこむ、というバルト像を書いていたけど、なるほどと思った。ただ、彼の二項対立は単純なものではないとも思う。切って切って切りまくったあとの何かが面白い。しかし、それは何かの形で歯止めを必要とする。ブルデューが何かの本の中でバルトは理論の人ではなく、実践の人だというようなことを話していたが、バルトにとって分析対象こそが二項対立分析に歯止めをかけるものであったのだろうか。しかし、そこさえも踏み越えて二項対立的分析を示唆する後期写真論とは何なのだろうか。バルトはこれからもちょっとだけ追いかけて読んでみようと思う。
(4/13)-2
某ゲームのパクリっぽく。
橋本治さんの三島論をパラ立ち読み。下に書いたことにも関係するけど、橋本さんの立場の方がすっきりしていると感じる。その価値観の断絶を追いかけているところが、逆にとてもわかりやすい。
『群像』の大塚英志さんの連載。今回はたまたま柳田國男をめぐる立場について本人いわく「寄り道した」回だったらしいのだが、そうだとすると僕は幸運だったのかもしれない。民俗学においてのこの問題は、哲学に話を移せば、まんま京都学派にも通じるものがあると思ったからだ。
『零度のエクリチュール』読む。難しい。言いたいことはなんとなくつかめるけど、なんとなくしかつかめない。要再読か。
(4/13)
ニーチェ関係のサーヴェイの寄稿をアップ。
フーコーがもし『ニーチェは、今日?』に参加していたら…という仮定に答えてくれる論文だとは思っていたが、読む限りあながち外れてもいないようだった。寄稿に多謝。
昨日、テレビで美輪明宏さんが出演していた。彼(といっていいのか?)の美学観が三島由紀夫とからめられつつ放送されていたのだが、何か違うような気がした。うまく言えないが、美輪さんは美に至上の価値を置き、そこに至ろうとしている。僕は美とは畏れるものでありこそすれ、そこに至ろうとは思わない。むしろ、美がどのように欲望されるかのほうに興味がある。そしてその違いは美輪さんの劇にもうかがえた。徹底した技法、倒錯、それらすべてが「美」のためだけに費やされている。僕はそうではなく、倒錯や技法こそに「美」が費やされるのだとしか思えない。もちろん、態度は微妙に違えど美に対しての態度として(美輪さんにとっては無条件に、僕にとってはそここそが問題であるという違いがあるが)それなりにかっこいいとは感じるが、やはりそこには畏れしかないし、そんな美をほしいとは思わなかった。
(4/11)
『ユリシーズ グラモフォン』をとりあえずは通読して、訳者あとがきを読んでいたら興味深い記述があった。訳者の一人、合田正人さんによるとデリダには軽くながら聴覚に障害があるらしいのだ(p198)。一方、中岡成文さんによるとハーバーマスには軽い発声の障害があるらしい(講談社『ハーバーマス』、pp
.190-191)。僕はこの二人の哲学者が好きなのだが、だからといってこういう障害を彼らの考えの違いに帰すなんてことはしたくない。けど、偶然にしてはできすぎているなと思う。二人とも自分の障害(生涯?)をもとに、声をそれぞれ独自のやり方で判断停止できた、しかもそれは軽くであったため、人との違和感を沈殿させられるようにしてできた、そんな判断停止が彼らの考えにはなかったか。違いに帰すことはしないが、学問がその人の表現である以上、よもやま話くらいの価値はあるかもと思って日記に書くことにした。
一青窈さんのアルバム『月天心』もだいぶ聞いた。飽きるまでにはまだ至らない(その「飽き」もただ集中して聞いたというだけの、一過性の飽きだろうけど)。どちらかといえば、飽きるよりも前に僕が考えることは岡本真夜さん、古内東子さんという先輩歌手との違いである。例えば、三人ともヒットは会話していることを歌にした歌である(「Tomorrow」、「大丈夫」、「もらい泣き」)。しかし、前二つが友達を励ます歌であると言う点では共通しているのに対し、後者の歌はともに泣くことしかしていない。このことは前に日記でも書いたのでいまさらなんだけど、もう一つは独白のシチュエーションも違いがある。前二者は独白は別れるとき、もしくは不安なときが多い(「サヨナラ」、「誰より好きなのに」。余談ながら、岡本さんのベストは別れるときの女の強さを歌っている二曲、「別れたいならそう言えばいいじゃない」と「サヨナラ」だと思う)。けれども、後者の曲はどちらかというと仲のよいとき、より彼を拘束したいときに独白形式の歌となっている(「sunny
side up」、「イマドコ」、両曲とも「月天心」収録)。
で、これだけだと単なる比較なんだけど、もう少し考えを発展させてみる(妄想を膨らます、とも言う)。岡本さん、古内さんと一青窈さんの間を分けているものの一つに「癒し系ブーム」がある。癒すということはどういうことかということを考えてみると、ある側面においては励ましであり、ある側面においてはただそこにいるだけで生まれる安心感に癒しがある、ということができる。つまり、これらの曲をつなぐ連結器として考えると、ある女性の動向を仮説づけることができるとはいえないだろうか。励ます→癒す→ただ聞くという一連の流れ。決してどれがいいとかは僕にはいえない。むしろ、どれも女性である、ということが重要なのだろうと思う。正確には、その動きの周期が女性なのだと僕は考える。ならば次はどう来るのだろうか。僕はゆりもどしが来ると思う。つまり、再び「励まし系」の女性J−POPが静かに売れてゆくのではないだろうか。もしくは聞くということすらしない、自分の世界にひたりまくった歌が共感をえられるという、考えてみればおかしな事態がおこっていくのだろうか。
(4/8)
今日はうたた寝をしてしまい、気づいたらドラマのクライマックスだった。そこでは泉ピン子扮する銭湯のおかみが、これから自殺しようとしている犯人役に扮している佐藤B作を説得している場面だった。「生きることを許されていない人間はいない」とか何とか言って説得されていたのだが、その際犯人を捕まえる刑事役が先日自殺した古尾谷雅人さんだった。
何という皮肉。ドラマはここで過剰な意味を持つ(バルトで言う神話だ)。一つは所詮ドラマはドラマでしかない茶番としての喜劇。もう一つはその救えなさという悲劇。自殺を前に僕は黙るしかない。黙るしかないけど、考えることはやめたくない。自殺をスキャンダルにも、単なる出来事にも落とし込みたくない。そしてそれが(アポトーシスとして)自殺をしている僕がさも自殺していないように語る不思議。いつ僕はこのことについて何か話をすることができるのだろうか。では、自殺を沈黙するものととらえないようにすればよいのだろうか。だけど、今の僕にそれは無理だというのも正直な気持ちだ。とにかく今は正直な気持ち、考えを集めておくしかないだろう。それだけではこの問題は解けないが、それすらもなくては問いの転換ができる、とは僕にはとても思えないからだ。
(4/6)
ニーチェ序文アップ。
あえてああいう形にしてみました。問題意識の異同を読んで欲しかったので。
ちなみに協力者は掲示板の常連であると同時に、大学で一緒の研究室にいた友人。なかなか面白いことを考えていて、学生時代は多くの場面で触発された。まだあと一人企画の発案者はいるので、序文かいてくれればな〜、と変に催促してみたり。
(4/5)
休日は本屋とゲーセン…って学生時代となんも変わっていない。
さて、それはそれとして、『ユリシーズ グラモフォン』を読んでいるわけだが、今一言で感想を言え、と言われたら「人がテレポートができるようになったとしたら、必ず<テレポート酔い>というものが起こる」ということである。彼の議論は錯綜している。しかし半分はわかりやすい。それは一つ一つを言葉的に読み解き、時には一文字にまで還元してしまうその方法だ。これはフッサールやバルトが最初の本となっている僕には何とか食いつける部類のものである。しかし、ここからデリダの強烈なところで、それは転移を開始する。しかも彼の差異はドゥルーズの内的なそれとは違い、外的な差異である。そのため、動いていく先はドゥルーズの平面を移動するというよりはテレポート、それもかなりランダムにテレポートが行われる。次々とめまぐるしく言葉が動いていく。僕は読みながら軽い眩暈を覚えていた。ところで、この<酔い>は言うまでもなく一種の環境不適応だということができる。しかし、それ自身、異なった環境とそこにいる者との二つの存在者を必要とする。つまり酔いとは、不適応ではあるが存在していることの何よりの証なのである。ここでサルトルの『嘔吐』を思い出すのも必要なのかもしれない。しかし僕は中島らもの『バンドオブザナイト』をあげておきたいと思う(余談ながら、ある人によると、この小説はかなりジョイス的らしい。実際そういう感じもするが、変な因縁だ)。最後に友人たちの葬送としてラリっていると言える場面、言葉が洪水のように駄々漏れしていくその場面、実は次のような言葉で締めくくられている。「俺は吐く、俺は吐く、俺は吐く。」
デリダ的には食べるというテーマで押すかもしれない。しかし僕は食べるということ、吐くと言うことをしっかり見つめなおすいい機会になったと思う(ただ、吐くことが楽しいとは思わないけど)。
『ARCADIA』。以前にはLISUさんをはじめとしたビートマニアトッププレイヤーの座談会を企画していたのだが、今回はチームガンパワーズの座談会を企画していた。いわゆるアーケードゲームは最近のネット対応もそうだけど、一番の情報源はやっぱり口コミである(ここが家庭用ゲームとまた微妙に違うところでもあると思う)ことを考えるとこういう企画はアーケードの性格をよく知っていると思う。積極的に顔バラシをしているのも(この本で初めてdj TAKAとかの素顔を知った人も多いハズ)好感が持てる。口コミ増強剤に十分なページ数を割いているのは正解だと思う。某雑誌のように休刊、なんてことのならないようにお願いしたい。
(4/2)
社会人2日目。順調、というわけではないがさりとて絶不調、というわけでもなく。先輩たちに支えられつつのよちよち歩きといったところか。生活が規則正しくなったのに普通に適応してるのに驚き。
『TJ Kagawa』の名コーナー、『笑いの文化人講座』、終わる。時代の流れか。あれほど方言で面白いのはほかになかっただけに残念で仕方がない。
(3/31)
社会人として現在松山に引っ越す。
でも特に今日はすることがなかったので、道後温泉を軸に自転車でゆっくり見て回る。
道後温泉ではいわゆる常連さんがいて、世間話に花をさかせていた。こういう雰囲気というか、風俗というか、そんなものをじっくり味わうことが大事だと僕は思っている。土地土地にはこういう自分でしか感じられない雰囲気があると考えているからだ。
で、この雰囲気をどう考えるかということは意外に大事だとも思っている。というのは、あくまで自分はよそものであり、そういう中からしか雰囲気というのを感じることはできない。そのため、<引き算>で雰囲気を感じ取ることもできる。しかし、雰囲気は自分でしか感じ取れないものでもある。そういう意味では自分を<足し算>することで雰囲気を写し取ることもまた真実だと思う。
<引き算>であり、かつ<足し算>である雰囲気?そこに見るのは引かれ足されぐちゃぐちゃになった雰囲気であり、そしてそれこそが実は雰囲気というものを一番よく表しているような気がする。
で、僕は世界とか、権力とか、みえないものはこういうぐちゃぐちゃな形態、つまり複数であると思っている。だからどう、ということはないのだけれど。
ハイデガー『存在と時間』のdas Mannをこれまで「ひと」と訳していたのを細谷貞雄さん(ちくま学芸文庫)は「世間」と訳した。なぜかそういうことを思い出しつつ、路面電車と一緒に家路についたのであった。
(3/29)
朝日新聞の土曜日版「be」に明和電機が出てた。芸術の見方に共感。やっぱそういう見方ですよね、うん。
『高校生のための評論』みたいな題名の本を立ち読みしてると、チャップリンの『独裁者』の最後のシーンの演説が載っていた。これは感動します。本当に。ヒューマニズムは本当にギリギリの線を見切るのが難しいと思うけど(うさんくさい、説教くさいのは山ほどある)、単純にいいものに思えた。この線を行くのは絶好調時の手塚治虫くらいか(『B.J.』、『火の鳥 鳳凰編』とか)。
(3/28)
今日は働くのに先立って職場を見学させていただく。懇切丁寧な説明に恐縮してしまう。
その後は本&ゲーム(←どこが恐縮じゃ!)。
『存在論的、郵便的』。本をすべて引越しパックにしてしまったこともあり、読み直しも必要だしということで買う。やっぱりいいですわ、これ。ユリグラ読む前に買ってよかった。
「HOD3」、20万台ようやく安定。でももうブームは過ぎたか……。
「DDR」、「MAX300」と「Ska a go go」のTRICKがようやく安定。でももう遅いか……。
僕はあるMLに入っているのだが、そこの議論に触発される。一応自分の議論は哲学、文化記号論と呼ばれるものから(勝手に)着想をえている(つもり)のだが、テキストを書いてみようかなと思う。
掲示板、初カキコ。感謝。感謝が過ぎて長文になってしまったのもまた御愛敬。
(3/26)
昨日、無事卒業式をむかえて卒業証書をいただく。これで本当に卒業かと思うと一抹のさみしさもないわけではないが、そんなに悲しくならないのは僕の楽天的な性格ゆえか。
卒業式後、クラブ関係と研究室関係の友人と話す。非常に月並みな言い方で嫌ではあるが、実際大学でいい人たちに恵まれたことを実感する。総じて社会人になる人(進学する人もいるので)のほうはすでに夢を持っているようだ。これは進学する人が悪いのではなくて、その適応能力の高さが顕在化せざるをえなくなってきているということなのだろうと思う。
で、学生生協や大阪との別れのしるしと言っては何だが、散財(引越しの荷物を増やしているという点にはまったく躊躇していないところは少し自己嫌悪するが)。前にも書いた一青窈のアルバム『月天心』。派手さはないが、しっとりと聞かせる良質のJ-POP。ジャケットに書かれている彼女の描く線描画的イラストも良。はっきり言って売れるアーティストではないと思う。ただ、安定する人だとは思う。
『省察』。デカルトの著作を三木清が訳したもの。岩波の復刊フェアかなにかで購入。ただ、版とか仮名づかいとかがまったく使いまわしっぽくて少し残念。とはいえ、三木の本は僕が旧仮名づかいであるにもかかわらずすらすら読めた本として印象深かったので、それほど気にはならない。
『ユリシーズ グラモフォン』。「こりゃ面倒なことに首を突っ込んじまったぜ」、という意味で買ったことを後悔する。なんというか、送り主不明のファイルを開けたらブラクラ系のウイルスで、ウィンドウが開きまくって困る、というような印象を持つ。しかし、この状況こそデリダが作り出したかったものであり、この先に、この中に何があるのか、とりあえずは見定めなければならないのかな、とも思う。しかしこの本、決して厚くはないが、訳者は困ったと思う。翻訳すること自体がもはや無謀だと思わせるが、そのおかげで自分が読めているのだから、非常に感謝している。ジョイスという面から「プラトンのパルマケイアー」、『郵便絵葉書』、『弔鐘』のコメントもあるので、役には立ちそうだ。
古尾谷雅人氏の自殺にショックを受ける。あれほど表現の幅の広い役者はそうそういないと思う。しかもその幅の広さをあくまでまじめに追究していた人だったと思う。そのまじめさが仇となったのか…。僕は自殺を容認することはできないので、とても残念に思うが、一視聴者として冥福を祈ろうと思う。合掌。
デリダ『ポジシオン』を読んで、を書いてみました。『ユリシーズ グラモフォン』も読む限り、まだまだという感じはしますが(何せ一文字単位にバラすんだもんなー)、デリダをちょっこっとだけ読んだことに対する、わりと全体的な(まとまりのない?)感想になっていると思います。
(3/20)
少しずつ社会人に向けて進行中。
大学の卒業式の情報入らずに困る。大阪の友人に問い合わせてみてもよくわからないとのこと。前にも書いたけど、もう少し事務側の配慮がほしいな、と卒業まで考える僕であった。
(3/16)
今日はひたすら運転をした日。なかなか上手くならないし、オートマばかりに乗ってるのでマニュアルの感触を忘れかけてるし…。
(3/14)
新聞を読む(以下、掲載されていた記事は毎日新聞大阪版の本日朝刊による)。
エキノコックスとかいう寄生虫が上陸してきたらしい。手塚治虫の『ブラック・ジャック』ではだだっ広い欧米式の農場地帯で、ブラックジャックがこの種の突然変異体に寄生されて自分で手術をして取り除くというストーリーだったはずなのだが、その環境と日本の環境とのイメージの食い違いにとまどう。やっぱり地球が温暖化している、ということなのだろうか。
新聞記者が流行語をもじって記事を読みやすいものにする。それはわかる。わかるが、新聞を一通り眺めるだけでテツandトモの「なんでだろう」をもじったものが3回も4回も出てくるのは勘弁してほしい。流行り言葉は新聞記者とか、会社の上司とか「普段は偉そうな人」がそれを話した時点で賞味期限が切れる、と僕なんかは思うのだが、どうもその辺はきづきにくいらしい。自分が言葉を聞いた時点でその言葉の賞味期限はどうなっているのか。そういうことを考えながら聞いてみると面白いかもしれない(どうせ僕も知らないうちに年をとっていくのだし)。
(3/13)
ついに買いました、ホームページビルダー。
今日はそれを使ってえんえんリニューアルの準備。思ったより慣れるのもはやく、使いこなせるとまではいかないが、一通りのリニューアルはとりあえず終わった。
今日は大学ではおそらく卒業者発表があったはずだ。自分の名前はのっていたのだろうか。ここに来てもしのってなかったとしたら・・・・・・あんまり笑えない。
さ、急いで仕上げなくちゃいけない文書を仕上げないと。
『笑いの文化人講座』、最新巻(21巻)買う。コンビニに売られているのをみて、四国に帰ってきたことを強く実感する。
昨日の毎日新聞にM.ハートの文章が掲載されていた。ハートといえば、あの『帝国』をネグリとともに書いた人物である。フランスやロシアとアメリカの折衝に対して、帝国内のエリート同士の戦いでそこに民主主義はないだとか、戦争は必ずしも手段として考えられないものではなく、そこに善悪や聖邪といった価値観を持ち込んでいるのがダメだとか、その後の政治的利益までを考えなければならないとかいう論点が提示されていたように思う。
僕は『帝国』をほっとんど読んでいないのだが、正義とかふりかざす戦争はやめてほしいという点ですごくよくわかった。別に正義の戦争ということが欺瞞であるとかいうことを言いたいわけではなくって(そうだとは思っているけど)、正義/悪という価値観での戦争はある意味常識的すぎると思う。それだけに頼って開戦かどうか決めるのではなく、もっともっといろんな条件を考えれば、自然に戦争はできなくなるはずなのではないかと思う。『帝国』の著者による実地の理論は(起こらないのであれば起こってほしくはなかったが)とても参考になるのではないかと(本→実践、実践→本の両方向において)思う。
(3/11)
今月の『ダ・ヴィンチ』に一青窈のインタビューが掲載されていて、それが結構興味深く読めた。
そのインタビューによると、彼女のデビュー曲「もらい泣き」(余談ながらこれはBGMとしての人気が凄く、そこからだんだん売れてきたように思うのだが、何かのタイアップ曲だったのだろうか)に関連して「私は泣くために歌う」というようなことを言っていた。泣くために歌う?最初僕にはどうしても泣くという行為と歌うという行為の関連性がよくわからなかった。泣くという行為に持つネガティヴなイメージ、歌うという行為に持つポシティヴな、それも全面的にポジティヴなイメージとはかけ離れていたし、何より歌の後に泣くという順番を、つまり感情と芸術の相関項としての行為としては歌うというほうが高尚で、泣くという行為はそれより低いものだと思っていた。要するに、「何で泣くために歌わなければなんないの?歌なんかなくても泣くことはできるじゃないの」と思っていたのである。
で、彼女の曲が「もらい泣き」であることを思い直したわけである。もらい泣きとは他人が泣いたのを見て泣くということである。この当たり前の事実から考え直してみると、泣くということに関するネガティヴなイメージがとりあえず必要ではないことに気づく。人が泣くというその行為、表情に反応して泣くのであり、相手がどのような原因であったかは、とりあえずは捨象される(あくまでとりあえず、である。相手がどのような境遇に陥ったかをみて泣く、徳光アナウンサーのような場合もあるし、その衝撃が人を泣かしめているのだからその原因が泣くことに関してまったく影響を与えていない、とはさすがに言い切れない)。そこに現われるのはある種の純粋な泣きであり、そこには衝撃、感動といったもののみが泣くことに関わることを許されているのだ、と考えることはできないであろうか。
そう考えた場合、泣くという行為(あるいは表情)は歌うという行為に勝るとも劣らないものを持っているのではないかと僕は思う。そこまで考えてようやく一青窈さんの言う「泣くために歌う」と言った言葉の意味がわかったような気がした。でも、考えてみれば『非−知、笑い、涙』とか「記号過程の表情原理」とか一応読んでいたはずなのにこういうことがわかっていないとは……。今回のインタビューで少しは表情の重要さ、涙の重要さというのが「腑に落ちた」気はする(最近、「腑に落ちる」ということを特に重視している自分がいる。何て言うべきなのかはわからないが、身体的、直観的な理解のほうを信じているような気がする。もちろんこれは独断の危険をつねにはらんでいるものなのだから気をつけなければいけないものではあるわけだが)。
(3/10)
引越し等々でバタバタしていた(もう一回引越ししなければいけないんだけれども)。
合間合間に本を読む。
鴻上尚司さんの『ドンキホーテは眠らない』が面白かった。鴻上さんは第三舞台の演出家として有名だが、エッセイもなかなかのものなのである。実は僕と同じ高校の出身ということもあり(そのためか、以前友人が高校時代の脚本を探し出してきていた。ただそのときは演劇にまったく知識のなかった僕は大して興味もわかなかった。実に惜しいことをしたのだと思う)、勝手に親近感を抱いて読ませてもらっている。実際、地元のお祭りの話や、東浩紀さんを呼んだ話、相米監督の映画(『セーラー服と機関銃』、『台風クラブ』などの作品で知られる、1カットの長い監督)に対しての感想など、羨ましい話がとても多かった(もちろん、中には演劇論っぽいのもあって勉強になった)。挿絵は中川いさみ先生だし(『クマのプー太郎』の作者)、肩のこらない良質エッセイであったように思う。第二の東海林さだおさんみたいになってほしいと思った。
他にも一応読んでるのだが、読書紹介はコンテンツとして独立させようかなと思っているので、それはまた別の機会にしたいと思う。
光永亮太さんが活躍中。実はbeatmania2DXの家庭用オリジナル曲に彼の「真の」デビュー曲があるのである。振り返ってみれば意外とbeatmaniaシリーズに曲を提供している人は多い。m-flo、DOUBLE、SILVA、GTSといった面々である。最初このゲームを遊び始めたときに「何で既存曲が少ないの?」と思ったものだが、これを通して知ったものも多く、そういうところが地味ながらシリーズを重ねている原因なのかもしれない。既存曲に頼るのではなく、既存曲を作る、という姿勢。
(2/15)
プラトン『パイドン』読み終える。結論にはおおよそ納得行かない部分も多いけど、対話の素晴らしさ、哲学<すること>の面白さを知るためにはなかなかいいテクストだと思う(西田幾多郎はどっかの随筆でこれは一番の作品ではないかと書いている)。他の対話編も読んでみたいと思った。
「発熱!猿人ショー」、最高ッス!Piper(「アルチュン」の山内圭哉が所属している)の面白さに加え、今回はテントさんの家におじゃまするという、好きな人にはたまらない企画である。合間合間のシュールなコントも絶品。
(2/12)
今日は卒論の口頭試問。可もなく不可もなく、といった感じで平穏無事に過ぎる。
まあ、あの卒論のできでこの試問であれば上出来であろう。
開放感に浸る。
(1/28)
今日は偶然にしてはという話。
塾の講師バイトをしている人たちと会話。生徒が出してきた
(x-a)(x-b)(x-c)……(x-y)(x-z)
という式を展開するとどうなるか、ということを話す。結局最後から3つ目のカッコが(x-x)、つまり0になることに気づき、答えは0ということに。しかし、もしそうでなかった場合は二項定理を使うということで話がまとまる。その後、今の子どもたちの読書はどうなのか、という話になり、僕たちが(そんなに昔ではないと思うが)昔のころはシャーロック・ホームズとか読んだ、みたいな話になった。普通に話は移っていっているように見えるが、実はシャーロック・ホームズの宿敵だったモリアーティ教授のデビュー論文は二項定理に関するものであった(はず)のである。単なる偶然っちゃ偶然なのだけれども。
健康診断に行く。脚気の検査をされる(あのピコンと足が反応するやつ)。脚気でないことは判明したが、なすがままにされるのがちょっと悔しくなる。その後、血液検査。血をとられた後に腕を押さえ
「ねじ式」
とか行って遊ぶ。するとその後行きつけの本屋に行くと、つげ義春さんの奥さんの本を見つけることができた。山田花子の絵に近い、それでいて何か温かみのある絵だったと思う。
なんとなく気になったので書いてみることにした。
(1/27)
ハートとネグリの『帝国』がついに出版ということで、僕の周辺もその話題でもちきりとなっている。しかしそう言われると他の出版物が気になるのもまた事実である。
『ライプニッツ』(NHK出版)。ざっと読む限り、そのモナドという概念と「自分」というものを絡めつつ、という感じの本。モナドという概念はよくわからないのだが、『世界の名著』を読もうかな、という気にはさせてくれた。総じてこのシリーズは問いを一つに絞ることと、その問いを身近な疑問に引き寄せる、という点では成功しているように思える(値段はまだ考える余地アリ)。
『闇屋になり損ねた哲学者』。ハイデガー研究で名高い木田元さんの自伝的著作。本人がこの本の中で述べているように、自身の好き嫌いがはっきりする性格であり、またその性格のままに書いているので(賛否両論はあれ)非常に読後感がよいように思う。
立ち読みでは以上。自分の家ではカントの『プロレゴーメナ』を「名著」から読む。結構自己主張がはっきりしていて、理性とか悟性とか言っているので頭でっかちな文体なのではという偏見を持っていたことに気づく。
「THE HOUSE OF THE DEAD 3」、やっとワンコイン+Sランククリア(エンディングは秘密)。違うルートでも攻略できるようにしなくては。
(1/12)
さっきテレビを見ていたら、僕の好きな漫画家である西原理恵子原作の映画「ぼくんち」の音楽祭があるらしく、しかもそこに大西ユカリと新世界が出演とのこと。……シブい。
「THE HOUSE OF THE DEAD 3」、コンティニューを繰り返してクリア。最後は体力勝負のような気がする。最後の最後であんな攻撃ってアリ?まあ、1や2のラスボスはあんな感じだったけど、ショットガンであの攻撃は正直きつい。
(2003/1/6)
新年。何が起こるかわからないが、そのことを楽しめるようにしたい。
今日は映画とゲームの感想などを。
映画は正月に帰省した折に「ハリーポッター 秘密の部屋」と「マイノリティ・リポート」を観た。
個人的にはどっちも???という感じ。前者は人気がありすぎるせいか、原作を読んでないとわからないところがあったり、全体的に薄いつくりになってしまった感がある。もうちょっと初心者にも楽しめるつくりを希望したい。後者は、途中までは設定をうまく活かしきれている(かもしれない)けど、後半はただの推理ドラマと変わらなくなってしまっている。しかも、トリックはそれほど難しくない。最後まで設定を活かしきってくれればよかったのに、と思う。
ゲームは去年の最後にも紹介した「THE HOUSE OF THE DEAD 3」。500円をかけて最終ボスまで到達した。面セレクトシステムもわかったけど、もう少し難易度にばらつきが欲しかった。もしくは順番が変わることによる(わかりやすい形での)難易度の変化とか。例えば、ロックマンシリーズはボスに弱点をつけることで難易度が易しくなることがある(全体的には難しいが)。そういう配慮があってしかるべきではないだろうか。
何か新年早々辛口評価ばかりのような気もする。『こちトラ自腹じゃ』(井筒監督著)の影響か?
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