Old Diary
(2003年下半期)

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(12/31)
今年もあと1時間ちょっととなった。
今年は一応就職した(できた)ということで、今までより少しまわりを見渡すようになった。それを見る限り課題は山積しているわ(もっとも個人のレベルに限ってもそうなんだけど)、これからの課題も増えそうだわで、これまで通り「いい年だった、来年もいい年でありますように」とは思えなかった。もちろんいいこともたくさんあったし、そのことはそのことで大事なんだけれども。

課題(問題)に対して「見方を変える」ということが言われる。しかしこれは難しい。それはそこにあるものを見ている自分が変わる必要があるからだ。そしてそれは決して自分で見ることはできない。

(1)見えるものが変わったときには見ている(そして見えない)自分が変わっているはずなのだが、そのことを忘れてしまってはならない。忘れずにいるためには時間の自覚(単純な話、「そういえば昔はこう見えてたな」)と、見えているもののどこに見方を変えるものがあったのかを忘れてはいけないと思う(あのアヒル=ウサギ絵とか、壷=むかいあっている顔の図とか)。

(2)見ているものが変わったのを知ることができるのに一番単純なのは「変わったね」という他の人からの直接的な言葉だ。しかし僕は言葉で察することだけでなく表情や、その他の見えるものからもその言葉を汲み取ることができる。…しかし、どのようにして汲み取るのか?汲み取ろうとしていても汲み取ろうとはできないのではないか?

(3)もしかしたら(1)の問題系かもしれないが、見えるものが変わるその原因は見えるものにあると同時に見ているものにもある。それは見ている視線というものがその不完全性を内包しているからではないだろうか。それは、例えば「写真」、読んで字のごとく真を写したときなどにあからさまに表れる。

こういうことをボーっとした頭で考える。結構一年で読んだ本の影響深し(時間論とか、精神分析とかとも接続できそうになっていることに驚き)。
もちろんこういう思考のレベルでもそうだが、実際に本を読んだというレベルにおいても、年間書評という形で発表できたらなと思う(こう書いて自分を追い詰めとかないと)。昨日も友人に頼んでしまってたし。


(12/30)
『文化人』、23巻と24巻買う。

高校の同窓会があるということで、行ってみることにする。
12月1日の日記で書いた東京在住の友人に会い、話をする。彼は哲学系と同時に文学、漫画、映画におそろしいほど精通しているので、異常に話が盛り上がる。大体、いきなり

「今何読んでる?」
「バタイユとか。澁澤龍彦経由で入ったんで。」
「え、じゃあ河出文庫とかからなんか。それだったら『眼球譚(初稿)』出てたやろ、あれも当然…」
「当然。」

(筆者の記憶による再構成含む。要するにかなりアバウトです)

という会話ができるのは大学にいたときでもなかなかなかったように思う。漫画家の話にしたっていきなり新谷かおるの砂バラや、駕籠真太郎の話、後述するが萩尾望都の話ができる人はなかなかいない。
もちろん範囲の広さだけでなく、深さも相当ある。もともと興味ある時代や場所が違うので共通して話すことのできる人物は少ないのだが、それでもウィトゲンシュタイン、ハイデガー、レヴィナス、バタイユとかと言った面々を頼りに結構話ができる(哲学が、僕の能力の無さを鑑みて正確に言うならばそれなりの哲学者が考えるそのすごさがその会話を可能たらしめていると言えるのだろうが)。個人的に気になっていた萩尾望都『残酷な神が支配する』のあらすじも聞けたし(彼女自身がレヴィナスから示唆を得て作ったと書いてあるのを読んだので。友人曰く、たしかにそうであるらしい)。

僕自身もほとんど読んでないフーコーの『知への意志』や身体論について聞かれ、しどろもどろになりながらも答える。間違っていないと自信を持てる範囲でしか答えられなかったので、おそらく向こうの情報提供量とはつりあっていまい。

…しかし、個々の具体的に内容の吟味にはいったときはその場で聞いていた人は(いなかったけど)、結構エグイ話だと思ったに違いない(バタイユとか、駕籠作品をネタに、しかも造詣がおそろしく深い友人を相手にしているんだから当然なんだけど)。それを他の人に話すときに友人が「〜君(←筆者)と"哲学"の話をしてた」というのはどうかと思った。確かにそうだが、かなり違うような気がする。偽ではないが真でもない。あるいは「正しく」はない。ちょっと可笑しかった。


(12/29)
実家帰省中。
最近はまたお金がちょっとあったので本を買う。
『明るい部屋』。『ユリイカ』でも特集が組まれていたバルトの遺作(全集が出るみたい)。これまでに『零度のエクリチュール』、『神話作用』、『記号学の冒険』と読んではいたけれど、今度のは思い切った転回が感じられてよかった。現象学の用語を使ってはいるものの、それはバルト自身がいうようにある程度アレンジされたものであり、現象学的ではないかもしれない。しかし、だからこそ生き生きしているというか、むしろこっちこそが現象学的なのではないかと思わせるような筆力が印象的だった。

『見えるものと見えないもの』。メルロ=ポンティが『知覚の現象学』からどうなっていったかが知りたいと思ったので(ただし、あとで調べてみると、コレクション5も面白そうだった)。カッコよさと難解さを併せ持つ文章なので、複雑な気分にさせられる本ではある。

『精神について』。ハイデガーをちょっとだけでも読んでおいてよかった。デリダとハイデガーの出発点(目的地は違ってくるのだが)は"Vorhandensein"だな、と勝手に思う。こういう地味に重要だ(と思う)用語の解説がある程度の専門書にならないとないのは残念な気がする。

PS2ソフト『SIREN』を遅まきながら買う。「視界ジャック」なんてシステムは何か先にあげた本とかのテーマと決して関係のないものではないと思いつつ遊ぶ。面クリア型のゲームなんだけど、いきなりハードモードでやってる感じ。覚えゲーだと思う。


(12/6)
朝は寮の(僕は寮に住んでいるのだ)大掃除のため早起き。

お昼からは本屋に行き本をチェック。岩波文庫巻末の「読書子に寄す」は三木清が草案を起こしたものに岩波茂雄が手を入れたものだということを知る。70へぇ。

少し前にMLで話題になった鶴見済さんの『檻の中のダンス』も見つける。NHKでMondo Grossoが出ていたこと(サンプラーの使い方を見せてた)と、近日僕の住んでいるところにも来るということで少しだけテクノ熱がアップ。

「ゼノサーガ」というゲームは副題にニーチェの著作名を使っている。エピソード1が「権力への意志」でまさかとは思ったけど、今度のエピソード2は「善悪の彼岸」らしい。次回作、出るとしたら何かな。「曙光」かな?でもこれはHOD2のステージ名でもあったしなー。「この人を見よ」とか「人間的な、あまりに人間的な」もゲームタイトルとしてはちょっとなー。


(12/2)
ちょっと懐に余裕があることもあって"InterCommunication"(NTT出版)の冬号を買ってみる。これがなかなか面白いラインナップだった。
特集は「CODE/コモンズ/ソフトウェア」。とはいえ、いわゆるレッシグ本の解説にとどまるわけではなく(論者によっては軽く触れていたりするが、基本的に読んでなくても不都合は感じないはず)、プログラム論あり、アート論あり、篠原資明さんはエーコを、小泉義之さんはドゥルーズの機械を、山口裕之さんはパサージュ論を、ちまたで話題の「ワラッテイイトモ、」についても、斉藤環さんはルーマンを、稲葉振一郎さんはアレント、フーコー、『ホモ・サケル』を論じている。
小林浩もジジェクの紹介をしているし(僕個人としてはドレイファスやマッギンがマトリックス論を書いているという枝情報のほうが面白かったが)。僕がイチオシしている後藤繁雄さんも坂本教授と組んで書いていた。
よくもまあ、バラエティ豊かな面々をそろえたものだと思う。あとこれで一つ一つの文章の質がよければ最高なのだが…。こればかりはちょっとずつ読んでみて、また面白いものがあれば書こうと思う。ちなみにこういうB4版の雑誌にどうも僕は弱いらしい。高校のときは"Remix"をわけもわからずに読んでいたし、大学に入ってからは"Wasteland"、"Quick Japan"、『現代思想』、『ユリイカ』、『広告批評』などをこれもわけのわからないままに読んでいたし。


(12/1)
今年もあと1ヶ月。来年は干支2周目。

ふとしたことでメールアドレスを飛ばしてしまい、それっきりだった(向こうもそうだったらしい。自分もそうだが、相手もよくよくいい加減なやつだ)友人に電話。高校時代からの友人なので、その高校の同窓会に誘ってみることにする。卒論やら何やらで忙しいはずなのに快諾してくれ、感謝(一浪して大学に入っているので)。一年前自分が通った道であるはずなのに忘れているのはちょっと恥ずかしかった。あと、自分の大学の後輩たちも面白い卒論を作っているようで安心する。

斉藤慶典先生の『心という場所』。面白そう。しかし、あまのじゃくな僕はちょっと前に出た橋爪大三郎先生の『心はあるか』と一緒に考えてしまう。両方の題名を見てると、これって心を言葉に変えたらハイデガー哲学と論理実証主義哲学の相違点と一緒じゃないのかな、と思う。心というものを言表不可能なものとして退けるか、言表不可能だからこそ(その不可能性が)言表を可能にするか、といった感じ。そういう問い方に意味がないとは思わないけど、二人とも本を(僕なんかよりはるかに多く)読んでいるだけに、複雑な気持ちになる(もちろん、原理的にこうとしか問えないのかもしれないけれど)。心の次は身体でおんなじ問いかけがされそうだ(フーコーがその下地を十分に作ってくれてるし。ただ、フーコーがそういう問いかけ方をしてほしかったかどうかは別問題だけど)。

キリン『生茶』とauのCMに井上陽水の『夢の中へ』が使われている。彼の歌う夢は起きているときに「持つ」夢と寝ているときに「見る」夢の両方を含意していると思う。僕はなぜこの二つが夢という同じ言葉で表されるか不思議に思っているんだけど、井上陽水のこの歌を聴いていると何となく夢という言葉が持つ意味がわかるような気がしてくるから不思議だ。どちらの「夢」もコロンブスの卵のようなもので、自分の今、ここにいる世界がちょっとだけ姿を変えた、そんな世界のことを指しているような気がする。「いってみたいと思いませんか」という歌詞(生茶CMは「行く」を「言う」にさりげなく変えているあたりが地味に好きだ)はどこに行くのか(何を言うのか)?それはおそらく「ここに行く」のであり、「これを言う」のだと思う。

OMS(扇町ミュージックスクエア)閉館記念本を読む。僕も一回行ったことがあるのだが、閉館になったのは残念だった。わかぎゑふさんや中島らもさんが寄稿していた。当然か。


(11/22)
昨日は職場の人たちと呑む。今回はお酒の量もうまくコントロールできたので、面白い話をたくさん聞けた(ある程度は覚えてもいる)。ただ、話は聞くばっかりだったので、これからちょっとずつでも上手に話せるように自分の中身の充実と、お酒の席での「酔い方」を覚えていかなくては、と思う。接待、営業とか言うのではないんだけれど、そういうことが多少はできといたほうが(慣習というのは基本的に嫌いだが、それが上手にコミュニケーションをとれる手段であればけっして否定はしない、というのが僕の立場だ)いいのかもしれない。


(11/19)
風邪をひく。全身がだるく、すぐ疲れる。今日は昼ごはんも食べずに寝てしまった。スイッチが切れるような感じ。

『情況』、ドゥルーズ=ガタリ特集の小泉義之さんの対談を読む。印象に残ったところはレヴィナスとドゥルーズ=ガタリの違い、顔とセクシュアリティについての言及。なーんだ、やっぱりわかってらっしゃるじゃないの、という第一印象。彼の『レヴィナス』、『生殖の哲学』で(批判点に近い)疑問点を持っていた箇所が氷解。だったら最初から書いとけよ、とかも思ったけど。しかし、ということはレヴィナスとドゥルーズ=ガタリのそれぞれの可能性はどうなのか、という問いが新たに浮上。そういうところが(対談とか入門書的なものとかという制限はあるけれども)未だちょっとわからず。


(11/8)
新谷かおるの『砂の薔薇』にハマる。新谷かおるの作品は一言で言えば豪華が板についている漫画だということだろうか。一人一人が主役をはれるようなキャラクターでありながら(この作品に即して言えば登場人物すべてにその資格がある、と言って過言ではない)、それが何の障害もなく共存している。しかもストーリーはよくできていて、ドンデン返し、嬉しい不意うちをもらうことができる(「ビギニングM」や最終話はその意味でかなり完成度が高い)。彼は松本零二のアシスタントだったというけど、何となく納得がいく(松本作品もキャラクターが共存しているし、ストーリーはドンデン返しという技法こそあまり使わないが、やはり完成度は高い)。ちなみに『キャプテン・ハーロック』のヤッタラン副艦長が新谷さんをモデルにしたという話を聞いたときにはちょっと新谷作品とつながりがみえなくなって混乱した覚えがある。

『砂の薔薇』を古本屋で読んでいる人がいたら、それは僕かもしれない(実際古本屋にいるところを研修仲間にみつかってしまったことがあるし)。


(11/4)
仕事がすごくたまっていた月始め。

某掲示板に出張書き込みする。カントとフッサールについて。ちなみにこのサイト内の関連したトピックを扱っているものとしては『観察』書評『ポジシオン』書評でそれとなくふれているつもり。

『存在と時間』、下巻読書中。学生時代の読書会は上巻だけだったのでやっぱり読みにくさが少し上がっているのがわかる(もっとも、『存在と時間』はもともとが読みにくいのであんまり気にならないけれど)。で、その読みにくさのひとつに彼が「善悪の彼岸」からの言葉の使い方をしているということがあるんじゃないかなと思う。普通の言葉を術語化することはハイデッガーの常套手段で、それは僕は嫌いではないんだけれども(だって普通の言葉で哲学できることはそれなりにすごいことだと思うから。邦訳になるとどうしてもその雰囲気が消えてしまうけれど)、「良心」とか「頽落」とか、普通どうしてもそこに価値を読み込んでしまうと思う。しかしあくまで彼の目的は存在論にしかなく、そういう価値観を落として、それこそ機械的に読むことを余儀なくされているように感じる。

『ユリシーズ』1巻(集英社文庫)と『形而上学入門』(平凡社ライブラリー)を買う。


(10/31)
研修から帰ってくる。今回はミーティングが多くなって疲れた。けれども、楽しかった。
『存在と時間』も何とか上巻は読めたし。

名前は忘れたけど、外資系の会社で社員のクビを切ってきた人が出した本で、著者(日本人)が日本の社員が会議で「みんなが言ってたんだけど…(Everyone says…)」と続けるとすぐに他の社員から「みんなって誰だ?具体的な名前を言ってみてくれ」とツッコまれたという話を紹介していた。いかにもありそうな話で、日本の(いい意味でも悪い意味でも)習慣が出会いそうなギャップであると思う。
しかし、ここで僕は話の矛先を変えてみたい。それは、じゃ、外国の人たちは「みんなが…」と思っていないのか、ということである。上述の『存在と時間』を読んでみるとそんなことはない、と思う。ハイデッガーは有名な「ひと(ちくま学芸文庫版では「世間」と訳されている)」という概念を提出したが、その説明はまさに「みんなが…」とすることで責任を転嫁し、結果自分をかくしているという議論である。

僕はもちろん日本人が自己主張をしないことを無視しようというのではない。そうではなくて、その行いがどこから来ているのか、それは何を表すのかというように考えることも問題解決の一手段ではないか、そう言いたいだけだ。小林秀雄はクリティックという言葉と批判という言葉を比べてクリティックには前向きに対象をとらえるニュアンスがある(が、批判という言葉にはない)と言っているが、ベンヤミンは「注釈」という言葉を、批判という言葉(Kritikだ)より前向きに対象を論じたいとして使っているのを読んだことがある。こういうのを読む限り、国別の比較も必要だが、その後にはもう一回その図式を考えることが必要だということを教えてくれているように思う。


(10/26)
というわけで、ミラーの『南回帰線』を買いに行った。「買った」と書けないのは僕の財布管理の杜撰さによるものだ(どんな無駄づかいをしたのか、あるいはどれだけしか持っていなかったのか。どちらにしろ、あんまり想像してほしくはないところだ)。で、巻末の年表だけパラパラ見ていると、昨夜見た映画の登場人物はとりあえず実在の人物らしい(ミラーの妻がジューンで、もう一人がアナイス)。

掛詞の笑いというか機知についての小谷野敦さんの文章、笑いについて考えた哲学者、評論家の流れを書いた木田元さんの文章を読む。僕はこの掛詞というやつが不思議でならなかった。なぜなら、これを歌でなく使ったら確実に駄洒落、オヤジギャグでしかないようなものなのに、一方では高尚だともてはやされ、もう一方では「駄」洒落などと言われるのか、ということだ。しかし掛詞はベルクソンに従えばこわばりをほぐすものであることには間違いないし、それはつねに二重化された記号(「ウィ、ウィ、これこそが笑いの種なのだ」、『ユリシーズ グラモフォン』)であるからなのだろう。しかし、こんなことを小難しく言う必要がまだわからない。僕の問いは一方では高尚なものとしてとらえられるのに一方では低俗なものとしてとらえられることなのであって、その説明が小難しいものである以上、その笑える、機知に富む掛詞とは何かということが説明できないような気がする。一応理論としては説明可能なのだけど、もうちょっと笑いに即した、つまりもうちょっと笑えるような説明方法はないものなのだろうか。

『存在と時間』、上巻読めるか。読めたら下巻は研修中の空いた時間に読めるのだけど。


(10/26,Midnight)
下に書いた後、夜更かしの友にテレビをつけてみると、なんとヘンリー・ミラーを主人公にした映画を放送していた。『北回帰線』を書き上げた前後のお話で、それを精神的に支えた二人の女性(一人はミラーの妻、もう一人は他の人妻)を軸に話はすすむ。もちろん、ミラーなので、なかなかに複雑な人間関係の話になっている(3人がそれぞれにそれぞれと恋愛関係になってしまう)のだが、面白かった。ミラーはパッと見、ただのおっさんにしか見えなかった。女性は二人ともきれいだった(女優だから当然かもしれないけど)。でも、そういう話を成り立たせてしまうところが向こうはすごいと思う。いかんせん僕の描写力では言えないことばかりなんだけど、大人の話だと思った。


(10/25)
中島らもさんの新刊が立て続けに発表されているようだ。
いろいろなところで書き溜めていたと(思われる)エッセイを(みんながよく知っている諸般の事情により無理だったのを)編集して出しているようだ。パラパラとめくってみると、彼がいつも言っている「起承転結、序破急というものを無視して、『つかみ』、『はなし』、『しめる』」という流れをきっちり守っている(守っている、というと何か変だけど)ことがよくわかる。

『ユリシーズ』、その高さについ躊躇してしまう。らもさんは『バンド・オブ・ザ・ナイト』の中で自分の分身と思われる主人公に(ラリったなかではあるが)こういわせているのにも関わらず、だ。

「文学はロックンロールだ。アンドレ・ブルトンはその『第一宣言』において、セリーヌはその無法な毒づきにおいて、ヘンリー・ミラーは『ネクサス』『セクサス』『ブレクサス』のはらむビートにおいてロックンロールだ。ジョイスは自己創造と破壊において、ウィリアム・バロウズは『裸のランチ』という<動詞>について、トリスタン・ツァラはその美しい名前においてロックンロールだ。…」(p167)。

他にもダーッと言葉の群れが飛んできているのだけれども、少なくともこの数行の中で僕はちょっとしか読んでいない(そう言えばミラーは『南回帰線』が出ていたにもかかわらず、また、らもさんがタイプライターかなんかにふれたエッセイでミラーのことを好きだといっていたっけ、それにもかかわらず読んでいない)。でも、なんとなくこのロックンロールというのはわかる気がする。デリダの「ウィ」もおそらくその眼目は似たようにあるのだと思う。一度『ユリシーズ』の原書を見たときに「Yeeeees」という言葉をみた記憶があるが、もちろんそれだけで短絡的に結びつけるのも問題だけど、それを見た瞬間、なんとなくわかる、という実感があった。


(10/24)
来週から三度研修。そのために仕事をできるだけ片付けた(つもり)。
ご迷惑をおかけしますです>職場の皆様。

大学時代のMLに入ったまんまなんだけど、そこからトークライブをやるとのお知らせが来る。同時に大学時代のクラブからOB会のお知らせも来る。

おそらくは(というより絶対無理なんだけど)そこに行けないことを本当に残念に思う。
なんだかんだとあったけれど、大学時代は好きなことしかやらなかったし、だからこそ残念に思える程度にはよかった四年間だったのだと思う(←まだ半年チョイしか経ってないくせに)。


(10/22)
ハイデッガー『存在と時間』、三十節を読む。恐れに関しての議論なんだけど、パースの記号論と似てて興味深かった(何に臨んで恐れるか、恐れそれ自体、なぜ恐れるか)。そしてその恐れと実際にそれが来てしまった場合の恐怖とは区別して論じているあたりもまたおかし。

大学時代、演習で全然つながらなかった哲学者同士のつながりが、今は何となくつながってきつつある感じがする。


(10/21)
給料日。しかし請求書を抱えているため、うれしさも半減。ここが4月時と違うところ。

カントの『純粋理性批判』来る(もちろん請求書も)。カントという人は哲学の代名詞みたいなところもある人なんだけど、彼の問いのひとつは「アプリオリな総合的判断は可能か」というものだった。彼はこれが可能であるなら、そして可能であることを証明することによって形而上学を守ろうとしたともいえるんだけど、この「アプリオリな総合的判断」というのは経験によらずに知るということは可能か、ということに近い。哲学といえば何をさておいても本を読み、本に囲まれているというイメージがあるのだが(そしてそれは一面で間違いじゃないんだけど)、その代名詞になっている人が経験によらない知識を考えていたということは(だって読書も経験でしょ)、とても面白いことだと思う。

『存在と時間』、とびとびに読書中。難しい。


(10/19)
職場の旅行で高知県に行く。
土佐の偉人伝を読みながら、命と考えることの関係にちょっとだけ思いをはせる。
司馬遼太郎さんは『坂の上の雲』も書いておられるけれど、そういうところを考えてたのが、偉いんだろうな、と思う。

まえの翻訳話のつながりで、長谷川宏さんの対談(相手は忘れてしまった)、内田樹さんのレヴィナス翻訳のエッセイを読む。


(10/14)
来い、来い、『純理』〜♪(適当な節をつけて読むように)
…そんなものを喜びながら待つなよ、とツッコんでいる自分を感じる。
一文目の僕を僕1、二文目の僕を僕2とした場合、僕というのは僕という言葉で言い表される関係性なのだ。そんなことを考えながら『存在と時間』(細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫)を読み直す。

これは一度学生のときに勉強会で読んだため、読み直しになる。あのときはこの本の難解さに現在大学院に受かった人たちもすばらしい壊れっぷりをみせてくれた。ということで、もし僕の日記を読んで、かつ大学院入試を受けようという人がいたら、この本がわからなくても大丈夫、ということだ。
ただし、それでもこの本を読んできた、という条件は(その合格した人たちの名誉のためにも)付け加えられるべきだと思うが。

さて、そんな昔に読んだ本なのだが、今読み返してみると以前の自分と全然違う読み方をしている自分に気づく。昔の傍線を見ると、それほどいいところに線を引いているとは思えない。あまりに当たり前のところや、それほど重要でないと今は思えるところに線が引いてある。正直、古本屋で買った本に線が引っ張ってあったりするのはあんまり好きではないのだが、自分が引いた線にはなぜか愛着のようなものがわいてくるから不思議だ。で、こう読み返してみるとそう言った自分との対話、著者であるハイデッガーとの対話、翻訳者との対話、そういった対話という関係において僕は考えながら読んでいるのであり、現在読んでいるところはまさにそういうところを考えているのではないかと感じた。

つまり、僕は
『純理』がくるのをまち、そんな自分にちょっとあきれ、本を読み、その本の書き込みから過去の自分を考え、著者の考えを考え、翻訳という条件下のもと、それらもろもろの関係としての
僕なのである。

掲示板に書き込みアリ。多謝。


(10/12)
ロマン吉忠という企業のCMになんと「フーコン・ファミリー」が出てた。驚き。まあ、もう放送が終わってだいぶ経つには経っているのだが僕的には最高のセンス。
『考える人』。小林秀雄賞の論評を読む。なんかベテランが語りおろした本の賛美って感じもするけど。もうちょっと毛色の違う本でもよかったんじゃない?と思ったりもする。小谷野敦さんのエッセイに共感する部分多し。何か「に」笑うことと何か「を」笑うことの違いを考える。
バロウズの『裸のランチ』文庫版(文庫版自体は僕がハードカバーを買った直後に出たという悔しさもあって、絶対、ぜぇぇぇぇぇっっっっったいに買わない、意地でも買ってやらないことを決心してるのだが)の新刊予定を見ていると『フィネガンズ・ウェイク』も文庫化されることを知る。地味にジョイスが復刊されてきているのだなと感じる。
某柔軟材入り洗剤のCMにマギー審司さんが出てたけど、編集が秀逸。

今日は休日なので思いついたときにパソコンに向かって書いた。だから文章は時系列に沿っているし、どういう生活をしているのかがわかるかもしれない。


(10/11)
夜中にカタカタとパソコンでネットしていると、捜し求めていてやまなかった『純粋理性批判』高峯一愚訳の発売ページを偶然に発見する。即買。熊野純彦さんがNHKブックスの『カント』で参照していたこともあって、どういうものなのか気にはなっていた。

『国家』、一通り目は通す。前にも書いたが、プラトンの偉いところは自らの立場に対する反論やその論点を非常によく突き詰められた形で提出していることだと思う。だからこそ、説得力を持つし、ホワイトヘッド(だったっけ?)をしてすべての哲学はプラトンの注釈だ、とか、ヤスパースのように、今一度プラトンのように考えることはなかなか難しいのではないかと言わしめるものがあるのだと思う。

本屋で『ユリシーズ』確認する。同時に中島らもさん、わかぎゑふさんのエッセイも見つける。


(10/8)
『思想』。物語り論とフレーゲ。面白そうだった。『ダ・ヴィンチ』、中村獅童さんのインタビュー。『ピンポン』のドラゴンから最近では『世にも奇妙な物語』まで、いろいろな役をこなす人の話も、これまた面白かった。

『国家』を読んでいる。なんだかんだ言ってその慧眼に驚かされるところが多い。第8巻〜第9巻の民主制と僭主国家制のところ。寡頭制から民主制に移行するときの話とか。

「先のほうにつぐ次善のものであって、国民が特に留意せざるをえないように仕向けるような法律のことだ。すなわち、もし多くの任意の賃借契約は、貸すほうの者自身の危険負担において契約するように命じるとしたら、その国では、恥知らずな仕方で金儲けをすることがもっと少なくなるだろうし、今われわれが語っていたような禍いが国の中に生じることも、もっと減ることだろう」(岩波文庫、p201)

結構耳の痛い話に聞こえたのは僕だけだろうか。ただ、ここから恐ろしいのは、この後に僭主専制の国家を想定しているところ。もちろん『国家』の議論は自分で再考される必要があるのだが、さりとてまるっきり無視できないのも事実。他にも結論はともかく議論の節々には考えさせられる論点が多い。特に先にも触れた国家論は、プラトンをある意味最大の敵としているニーチェの議論と相互補完的であるとさえ思えた(哲人王による支配と僭主による支配の違いなど)。


(10/7)
煙草話続き。そうとは言っても禁煙を志す人がいるのも事実で、また、僕はそれを止めようとも思わないけれど、その中毒症状を見ていると大変だと感じる。そのためのガムまであるのだから、まったく恐れ入るというほかない。そしてその禁煙に奮闘する姿はなぜかおかしい。ベルクソンに習って言うならば見事なこわばりの中にいるからなのだろうか。そしてそれはベルクソンを読んでいたとしても避けようのないことだと思う。西田幾多郎の日記を少し見てみることにしよう。

「大正十一年 二月三日(金)  きょうは節分なり、今日を限として絶対禁煙/岩波へ正誤表。」
で、次の日には

「四日(土) smoking in school」

…心の中でツッコミの手が出た人は絶対いるはずだ。この前後にはこのようなのばっかりである。もちろん、この時期は子供が病気になったりと大変な時期ではあるのだが(あるいはそれゆえか)なぜか笑えるものとなっており、僕は結構気に入っている(pp.240〜250あたり)。人の日記を読むことに趣味のよさを感じるか、と言われればそれまでだが。

朝日新聞の書評に橋爪大三郎さんがウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の書評を載せていた。『ユリシーズ』が文庫化されていたのは初めて知ったので得したが(書店にはハードカバーしかなかった)、しかし朝日新聞は橋爪さんを書評者にしていいんでしょうか?たしかこの人、とりあえず、極限条件下かもしれないけれど、たしか戦争はやむをえないとする立場だったような…。


(10/6)
『ユリイカ』の今号は煙草がテーマだった。ちなみに僕は煙草を喫わないが、今の禁煙、嫌煙の風潮はちょっとやり過ぎかな、という気がしないでもない。その理由の一端がこの本を読んでわかった。簡単に言えば、煙草を喫う人が格好いい、そう思っているからだ。今号で文章を寄せている人を見ても、小谷野敦さん、森毅さん、木田元さん、多木浩二さん、丹生谷貴志さん、そしてユリイカではあまり見かけなかったと思うのだけれど、中島らもさん。何か関西に縁のある人が多いような気もするけれど、こういうラインナップがそろっているのを見ると、煙草を喫うのに、ちょっとした憧れがあったとしても、まあしかたないかな、という気がする。今の(未成年者対象を含めて)禁煙の風潮は、憧れを禁じるのか禁じないのかを曖昧にしていることに、その曖昧さがあるように思う。確かに健康には悪いだろうし、受動喫煙などで影響を受けるのは嫌だけれど、それなら煙草を、そして煙草を喫う人をもっと糾弾してもよさそうなものなのに(酒びたり、薬漬けという言葉があるけれど、煙草に関してその種の言葉は少ない、ということも考えたりする)、それがない。未成年者に対する煙草に関しても、格好よさは確かにあるのだから、そのことを認めた上でそれを上回るようなやり方があるはずだと思う。中田選手に「喫煙、カッコ悪い」とでも言わせるか?少なくとも、今禁煙政策としてやられていることを考え直すことくらいは(その結果の現状肯定論であればまだ生産的になるような気がするので)してもいいんじゃないかなと思う。


(10/5)
100%ORANGEという人のイラストをみかけることが多くなった(いろいろあるけど、僕の見た中では小説の『アメリ』のイラスト)。一方で、本秀康さんのイラストもみかけることが多くなった(青山拓央『タイムトラベルの哲学』のイラスト)。この二人のイラストはとてもよく似ているような気がする。

ひがんばな(まんじゅしゃげ?どっちが正式名称?)を見かけて、遅まきながら秋の到来を実感する。何よりものすごく眠れるようになったのことで(土曜日は半日強寝てた)秋の到来をうすうす気づいてはいたのだが、はっきり実感したのは花を見たときだった。


(9/29)
内田樹『ためらいの倫理学』、現在は文庫版だが、初めて出たときの解説を増田聡さんが書かれていたことを知る。この人は音楽美学専攻の方で、しかも現代音楽に詳しい(学部は違うけど、どうやら僕と同じ大学の出身でもあるらしい。これは僕が学生のころに彼の友人の方に聞いた情報)。僕が卒論を書くとき、ネットで検索をかけたときに知った。もちろん卒論を書くときにも大いに参考にさせてもらった。一方、内田さんの著作には常識的な温かみがあるような気がして、なぜかなつかしさを覚えながらこの本を読んでしまった。

ハードディスクが壊れていた間にノートに書いた日記を書こうとするも、面倒くさくなる。また、同じようなことを思ったり、考えたりしたときに書くことにしようと思う。


(9/28)
ハードディスク直りました。ついでにをつけました。


(9/20)
ハードディスクが壊れちまいました。なので、ちょっとの間更新はお休みします。掲示板にはもしかしたら書き込みするかもしれないので、よろしく。


(9/14)
川相引退。別に野球に興味があるわけではないのだけれども、ずっと、でも何となく考えていたことを書いてみようと思う。
スポーツや舞踊などには正しい型というものがある。また、その正しい型というものはよく考えられていて、その型に従えば(正確には身につけるのに途方もない修行を必要とするものが多いのだが)、もっとも対効果が高くなるようになっている(野球であれば遠くに飛ばせるとか、正確性を高めるとか)。そして、その型は素人目に見ても美しい、少なくとも文字通り、型の整った印象を受ける。
で、一方では独特のフォームという人も数多い。まったく常識に合わないような型ですばらしい結果を挙げている人はいくらでもいる。そこで僕は思うのだが、型とは何だろうか。正しさ、効率のよさ、美しさを備えていることは認めなければならない。では、その三つはなぜ正しいものに備わるのか。いや、独特な型にもなぜ備わることができるのか。

『インタビュアーズ』という本を読む。結構面白かった。バロウズがいいおじいちゃんっぽい話体に訳されているところもポイント高し(言っていることは相変わらずむちゃくちゃだけど)。ナボコフがウディ・アレンやジャン・リュック・ゴダールに映画についてインタビューしていることとか、デペイズマンについて語っているところとか、バロウズとアンディ・ウォーホルがつるんだ話とかがあったのも面白かった。

…って、何か上の人名を見ていると、ちょっとヤバい人たちだけを読んだみたいだな、何か。


(9/12)
季節外れに風邪をひいたらしく、結構つらかった。

対談本を読む。
『ロンパースルーム』。あるところで薦められていたので読んでみたけれど、よかった。大槻ケンヂ、市川実和子、小日向しえ、庵野秀明、奈良美智…男性も女性もいいセンスのもとに選ばれていた。小日向さんに最後インタビュアーが結婚について話しているのはできすぎかとも思ったけど。
『わらしべ偉人伝』。こちらは途中ちょっとおきまりの路線に行きかけていたけれど(それはそれで好きなのだが)、それでも仲野茂さん(『くねくねくらぶ』、今一度復活してほしい)とか、水木しげるさんとか、結構ルールのわりには(「笑っていいとも」のようにインタビューされたほうが、次のインタビューされる人を紹介していくルール)いいところに飛んだのではないだろうか。

対談本はジャンルとして何か評価されていることが少なく、森毅さんが対談本を読むのはおもろいと書いていてやっとちょっと自信を持ったのを覚えている。中島らもさんの『逢う』、『訊く』、吉本隆明さん、大塚英志さんの『だいたいで、いいじゃない』とかは、今でもときどき読み返すほど好きだ。対談本の面白さは二つあると考えていて、一つは言いたいことがストレートに出てくるところ、もう一つは、思いもかけない「かえし」が出てくることだと思う。前者は、例えば単著ではもってまわったような言い方しかできないような人でも、対談という性格上ポンと何かを提示しなくてはならないので、その究極の要約が聞ける。だから対談本から入ったほうがいいんじゃないか、という人は結構多いと思う。あまり対談本が入門書として言われることがないのは不思議なんだけれども、実を取るのであれば一冊読んでから読んだほうが時間的には経済的なことは多いような気がする(文字通りには経済的じゃないのかもしれないけれど)。後者のほうは少し上級者向けというか、対談する人の書いた本とかを少しは知っていないといけないけれども、「へぇ、こんなこと言うのか」というようなことがわかって面白い。僕自身人と話をしていてインスパイアされることも多いし、後でなんでこういうことが言えたのだろうかと思うようなことを言っていることがある。もちろん一人でつきつめること(書くにしろ、考えるにしろ)も大事なんだけれど、言葉というものが他の人に伝えるものである以上、伝えること(読者に向けて)が伝えること(対談相手に対して)の中に内蔵されている対談という形式が面白くなるのは当然なのかもしれない。最近テープ起しもしたので余計にそう思った。


(9/7)
某燃焼系CMの新ヴァージョン見る。今回もすごいが、一体どうやって見つけてくるのだろう…?宙返りとか、子供回しとかはまだ見つけられそうなのだけど、旗のぼりや今回の縄跳びはわかりにくい。


(9/6)
『絵解きルソーの哲学』だったっけ?をパラパラめくる。
この中にトリビアの泉に出てたネタが出てた。あのルソーは露出狂だったネタなんだけど、「『社会契約論』を書いた」という前フリがあったようにそういう真面目な人というか、聖人君子みたいなイメージを持っていた。けど、どうもこの本を読んだり、また、デリダの『グラマトロジーについて』を読む限りそのイメージは間違っていたようだ(特にデリダの本は、邦訳下巻ははっきり言ってむちゃくちゃである)。あと、性格的にも難があったようで、ヒュームにはキレられたそうだ。これも僕には面白かった。その仲の悪い二人が、一人はある人の機械的なまでの生活習慣を自分の書いた本で狂わせ、もう一人は同じある人の独断論のまどろみを醒めさせた、という事実にだ。どうもその中から『言語起源論』、『社会契約論』、『エミール』とかは読み直されなければならないらしい。『無人島』の文脈もそう考えるとよくわかった。以前僕は友人と社会について論ずる際に、やっぱり社会契約論は読み直す必要があると話した。この考えは一部訂正される。つまり、今までの見方による社会契約論であればたしかにあまり新味がないかもしれない。しかし、その社会契約論、自然第一主義に至った彼の感情を読み取らねばならない。それは一種のルサンチマンではあるが、あまりに純粋なルサンチマンすぎてそれが逆に長所となっている、珍しい種類のものである。そして、その意見を踏まえた上でなら、僕は自分の主張を変えるつもりはない。

カント『観察』書評書評ページに採用。
あと、ホームの注意書きを一部訂正する。


(9/3)
『牢屋でやせるダイエット』。中島らもさんの新作エッセイ。あまりにまんまで笑ってしまった。
僕はあの事件に関しては単純で、法律を破ったことは悪いこと、これに尽きる。実際にらもさん自身このことを明言していたこともあるし。でも、本は面白い。だから、今はアンヴィヴァレンツな感情を抱くことしかできないだろう。そしてそれはこれから読む本で微妙には変わるかもしれないけど、基本的にずっと抱え続けるだろう。


(9/2)
『CODE』何とか読了。最初明るかった雰囲気がどんどん暗くなっていく、そんな感じを受ける。フーコーの著書が暗いところからどんどん明るくなっていこうとする(もちろん、それは暗さを知って、しかもそこから脱出するためには決して振り向いてはいけないような、そんな重苦しさはあるのだけれども)のと対照的。でも、どっちも暗いわけで。この対照性は今だから、という解釈はあまりにもありきたりで不完全だけど、とりあえずはこの回答を与えておこう。あと、この作品に関しては途中から自分の卒論を思い出しつつ読んだ。無理やりつなげるなら著作権の構成主義的解決ではなく、プラグマティズム的解決ということで似ているのかもしれない。
『論理哲学論考』も5までは精読完了し、6、7も目は通した。今でこそ前期とか後期とか言われて、考えが変わったみたいなことを言われているが、これ、十分今でも価値あるっスよ、マジで。というより、これに欠点見つけるって、並大抵のことじゃないと思うんだけれど(もちろん、僕の分析哲学に関するセンスのなさをおいといての話になるのだろうけれど)。

IIDX、解禁。
「PARANOIA Survivor MAX」、あの落差がたまらない。
「LOVE SHINE」、ベタベタ。あそこまで狙いますか、という感じ。
何か他ゲームの曲からの移植が多く(隠し曲は)、個人的にはもう少しオリジナルの比率を増やしてもよかったんじゃないかと思う。


(8/31)
夏期休暇を利用して大阪に遊びに行く。
昨日の午後からはみっちりと大学時代の友人、先生と話したりもして、いろいろインスパイアされる。

今日は帰りのバスの中でそのときに買ったローレンス・レッシグ著『CODE』を読む。まだ途中までしか読めてないけれど、分析が面白い。ただ、原型はどこかで見たような話の気もする。そのため、内容把握には苦慮しなかったが、分厚く読みきれていない。大学時代の先生はネグリ・ハート著の『帝国』を新幹線の中で目を通し、大体わかったということをおっしゃられていたことがあったが、それに比べるとまだまだ修行が足りないのかもしれない(←当たり前)。

別冊宝島にルパン3世の特集本2巻目が出ていた。次元が逃げながらマグナムを作るというむちゃくちゃ面白い話の題名をようやく知る(「荒野に散ったコンバット・マグナム」)。最近テレビでのルパン3世の次元のガンアクションもよかったけど、この話は間違いなく次元のベストだと思う。再放送時の記憶がほとんどないにもかかわらず、話の筋だけ覚えているのはこの話くらいのものだからだ。


(8/24)
「カントの『美と崇高の感情性に関する観察』を読んで」、仮アップ。
僕の後輩が、『判断力批判』を卒論に選ぶということをやっているので、それに触発される。もともと美学に興味があったようではあるのだが、だからといって、なかなか判断力批判には手を出さないと思う。でも、そこにあえて挑戦する気概は大したものだと思う。


(8/23)
『不死のワンダーランド』の中に、「太陽と死は直視することができない」というフレーズを見つける。
…僕は、人間を直視することすらできていない。さまざまに歪め、自分勝手に見ている。だからと言って見ていることは、そして直視することの難しさ(つまり、何らかの形で作られて見ていること)は事実なのだから、ほんの少し、スペースをもって見るしかないのかもしれない。

『論理哲学論考』、面白い。これまで何回か挑戦したことはあったのだけれど、イマイチ面白いと感じることができなかった。ただ、先輩からどういう考え方をした人なのかということは教えていただいていたので、その感触を今回はつかめそうな感触を抱いている。

「ワンナイ」、ああいうおわびですかー。
肯定的に見るならば、責任者が責任をとったということ。つまり、テレビを代表する人物が謝ったことで、会社的に謝っているという印象を与えることはできるということ。
否定的に見るならば、責任者は放送作家なり出演者なりにあるという考え方を採用して、本人達の謝罪がなかったということ。そして何より、15秒とっただけであとは普通に放送したこと。

「水曜どうでしょうリターンズ」、見逃しました(泣)。


(8/20)
給料日前ではあるが、新刊である
『論理哲学論考』(L.ウィトゲンシュタイン著、野矢茂樹訳、岩波文庫)
『無人島1953-1968』(G.ドゥルーズ著、前田英樹監修、前田英樹他訳、河出書房新社)
を買う。このような本が手に入るようになったのは(前者はその手軽さ、安さと最近研究書を出版した人による新訳というよさ、後者はなんと言ってもその翻訳のスピードと改訳を厭わなかったその質において)いいことだと思う。
岩波文庫もようやく分析哲学(あまり区分けに意味があるとは思えないけれど、岩波のセレクション自体がこの区分けに従っているような気がするのでこの分類をあえて使う)を扱うようになるのだろうか。大庭健さんは『はじめての分析哲学』の中で『哲学探究』も『経験主義の二つのドグマ』も、岩波文庫に当然入っているべきだと書いていたが、遅ればせながらもそうなるとしたら、やっぱりそれは喜ばしいことではないだろうか。
ドゥルーズのテクストは(この「テクスト」って言葉はちょっと使うのが恥ずかしいんだけど…って、これ読んでいる人、もとネタわかる人います?ヒントは分析哲学の本です。一応著者は学生時代集中講義で教わった人でもあります)、とにかくカッコいい。そしてインスピレーションの泉、というより滝と言ったほうが正しいくらいいろいろなことを考えさせてくれる。それは彼があくまで哲学を概念創造と定義することと無縁ではあるまい。この本もざっと読んだだけでも、素材が出てくる(覚書程度に。『水に似た感情』における島と人との関係との対比。現在構想中のカントについての考えの裏づけとなる記述)。もう、こうなったら『狂人の二つの体制』までノンストップで出すしかないでしょ(というより、「内在、一つの生…」が読みたい)。

今日はうまく時間をやりくりして「水曜どうでしょうリターンズ」を見なければ。違った意味で「ワンナイR&R」も。


(8/19)
実家に帰ったときによった古本屋(ここはとにかく安い掘り出し物が多いので、必ず行くようにしている)で
・フーコー『精神疾患とパーソナリティ』(中山元訳、ちくま学芸文庫)、
・西谷修『不死のワンダーランド』(講談社学術文庫)、
・ニーチェ『ツァラストゥラはこう言った』(氷上英廣訳、岩波文庫)
を買う(特に前の二冊は二冊で100円!)。
で、西谷さんの本をパラ読みする。この題名のついた本は青土社版、講談社学術文庫版、青土社増補版とあって、あとで増補版を見つけたときはちょっと悔しかったが、まあこっちは古本だし、この安さならいいかと思う(でも、バロウズの『裸のランチ』が文庫化されてたのには驚いた。もっと早く文庫化してくれればよかったのに)。
話がそれたが、この本は「死ぬことができない」ことを執拗に論じている。その文章からは実存(正確には脱存化された実存)、孤独、そういったものが滲み出ているようだ。一方で、昨年『帝国』の邦訳が出版されたとき、西谷さんがよく出てて、違和感を感じるといった話も聞いていた。僕自身は、西谷さんは「死ぬことができない」ことを論じているのに対し、「生かされている中で生きる」ことを論じていることによる違和感であると考える。
これは人との話という、かなり文脈依存度の強い中で考えたことなので、覚書として記しておこうと思う。全く個人的な話であるが、西谷さんには集中講義で教わったことがあり、そのときはかなり面白い講義とユニークなテストが印象に残っている。恥ずかしながらそれから二年たってようやく講師の本を読んだわけで、その時の印象と今この本を読んでいる印象とを比較しながら読んでいる。


(8/15〜8/17)
盆で実家に帰る。
前にも書いたかもしれないけれど、僕は実家に帰ると必ず風邪をひく。
そういうのは僕だけかと思っていたら、ある番組のインタビューで田畑智子さんも実家に帰って、あまりに気が抜けたせいか風邪をひいてしまった、という話をしていた。
僕だけじゃなかったらしい。僕は田畑さんのほのぼのさが好きなので、なおのこと親近感を覚える。

…しっかり今回もひどい鼻風邪をひいてしまいました。でも、一人暮らしをはじめると治るんだよなー。不思議。


(8/14)
またまた一青窈ネタで。
NHKの「トップランナー」に出演していた。歌詞へのこだわりについて話してたのはよかったのかな、と思った。歌詞の配置、句読点の配置。その視覚に訴える言葉というのは、「目で聴く」言葉というのはあると思う。あと、歌詞は何らかの体験にもとづいている、という発言も。彼女自身、自分の歌で「もらい泣き」する人がいるのはなぜか、という問いに自分自身のありのまま、感情をぶつけているから、自然なことだと思う、そう言ったのが印象深かった。「泣く」の裏に僕達はさまざまな感情を読み取ろうとする。嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、等々(一青窈さんだから「十々」かな?)。もちろん、そういう感情も感情なのだが、「泣く」を「泣く」感情そのものとしてとらえること。それがとらえうる、つまり伝わるのだということ。以前書いたこととダブるのだけれども、そこが本質なのではないか。「月天心」、サックスヴァージョンはなかなかだった。
でも、本当に彼女を見ていると、言葉遊びがある意味で言葉を真面目に扱っているということ、そしてそれは人を、人生を大切にしていることなのだとつくづく思う。

大学時代の友人達が、ホームページを再開していたり、メールを送ってくれたりしている。とても嬉しいのだけれども、アイデンティティ(僕は学生ではなく、一応働いているのだということ)とネット代(未だにダイアルアップ(!)なので)の確保に少し気を使う。


(8/12)
『ダ・ヴィンチ』、ついに一青窈さんの新連載始まる。
初回は阿久悠さんとの対談。阿久さんが「女」を「女性」に変えたけど、私はもう一度「女性」を「女」に変えたい、という言葉と、擬音語、擬態語のことについての話が印象深く残る。一青窈さんの歌詞は確かに女性から女へという感じがする。それは女「性」とある種抽象化されたものではない、生の女へのこだわりというか、情念というか、そういうものが見え隠れしているように思う。以前、彼女が大学生時代に書き始めたばかりの詩(適当にHP巡ってればぶつかるんじゃないのかな)を見たときにはもっと露骨にそうなっていたような気がする。擬音語、擬態語についても、特に「Sunny Side Up」で、もっともこれは彼女の歌詞全般にいえるけれど、音それ自体に意味を持たせることがとても上手なように思える。なぜか今『グラマトロジーについて』でソシュール記号論批評の部分を読んでいたので(偶然にしてはできすぎだ)、特にそう思ったのかもしれない。音を自然とのつながりからそうでないものに変えていく動き(もとの擬音語、擬態語から、その音の響き自体に含みを持たせ、言葉化していく課程)を強く感じた。

最近、アーケード版のリッジレーサーVに遅まきながらハマる。あと、なぜかIIDXのwacとkaeruのコンビネーションにもハマる(「murmur twins」とか、「moon_child」とか。わからない人は無視してください)。


(8/9)
ひょんなことから、古本屋で『あぶない1号 2』を見つける(題名そのまんまの雑誌です。あんまりオススメしません)。
<当然のごとくに>、バロウズが紹介されていた。…やっぱりな。でも、『裸のランチ』とかは訳が上品過ぎるらしい。…アレで?上品っつっても、内容が内容だからなー。何か『パラノイアストリート』が駕籠作品としては全然読みやすい、という評価を聞いたときのような感じ。

しかし、バロウズのカットアップ技法はそれなりに面白かった。文字、フレーズ、単語というのはそれ自体が自律性を持っているものだということ、そしてその自律性は作品に属していると同時に、作品を従属させる、そんな効果があるということが何となくだけどわかった。

そしてそれはバロウズの身体に関する描写、つまり彼の身体論とでも言うべきものとリンクしているように思う。つまり、精神とか、もっと言えば、身体的にさえ壊れてしまったときに、身体は自律性をもっているのだということと。以前僕がバミリオンプレジャーナイトで首を飛ばされたニワトリ、というかなりグロいたとえを使って伝えようとしてたこととよく似ているような気がする。

で、とことんヤバいこういう考えを下敷きにすると、デリダやドゥルーズがなぜアルトーを論じたのか、二人とも器官と身体との関係に注目したのかが、ちょっとだけわかるような気がした(器官という言葉を使えば、僕が「身体的にさえ壊れてしまったときに、身体は自律性をもっているのだということ」と書いた文の、最初の<身体的>とは器官のことなのかもしれない)。

『笑いの文化人講座』22巻を、古本屋で200円で入手する。入手しといて言うのもなんだが、この本は半額以下で売っちゃダメだと思う。こんなに面白いのに。


(8/3-2)
午後は洗濯の後に街へ。
本屋で『世界』(岩波書店)を見ると、ハーバーマスとデリダの共同署名の記事が!
…どうしても優等生的作文にしか見えないんですけど。いろいろ理由はあるとは思う。
(1)ヨーロッパの民主主義的歴史と日本のそれとのずれ。
(2)二人の思想の共通点が持つあやうさ。
今のところはこれくらいしか思いつかない。英語圏では(まさに今回彼らが非難している国の言葉で!)二人の対話を収めた本が出るらしいので、それを読めばもしかしたらもっと理解が深まるのかもしれないが、こんな短いエッセイじゃーねー。

小柴昌俊さんの『物理屋になりたかったんだよ』。この人は高校時代、そこの校長だった人にかわいがってもらってたそうなんだけど、その人が天野貞祐さん(カント『純粋理性批判』の訳者として有名)だったとは、今日はじめて読んで知った。

黒田亘『行為と規範』。買ってきたばっかりなのだけど、まえがきの「既存の学説を並列的に紹介したり、足して二で割るような便宜的な解決を試みたりはしなかった。」(p4)という言葉に大いにうなずく。僕が大学生のころ、ハーバーマスとルーマンの理論の講義に出たことがあるのだが、最後にその教授が「真理は中間にあり、というんでしょうか、どちらにも言い分がありますよね」と言ってたことがある。そのときはまだ僕はよくわからなかったのだが、今なら「それは違う」というと思う。人がやらなければならないのはその中間をどう決めるか、なぜ二人の言い分が食い違うのか、それにもかかわらず二人の論戦が発している(つまり共通の)メッセージは何か、そう考えなくてはいけないはずだと思う。つまり、「なぜ中間と言えるのか」と問うのではないだろうか。もっとも、教授のほうも理解の悪い学生を相手に、少ない講義時間でそんな検討をする余裕がなかったのかもしれないけれども(ただ、そのときにも違和感は感じていたのだろう、徹底して片方の立場で課題レポートを書いたことだけは覚えている)。


(8/3)
「ダラダラ感」再考。
「ダラダラするな!」と怒られることがあるように、ダラダラという言葉にはあんまりいいイメージはない。僕もダラダラした態度はあんまり好きじゃない。そうじゃなくって、僕が言いたいことというのは、ダラダラした「態度」ではなく「感じ」、雰囲気があるということなのだ。
ダラダラという言葉を考えてみると、
(1)変化が少なく、
(2)時が流れる
という含意があるのがわかる。つまり、時間の影響も受けるし、変化もするのだけれども(その意味で永遠とか不変のものではないのだけれども)、その中で程度的に変化しないものなのだと考える。
『笑い』の中でベルクソンはつねに同じものではない生と同じ動作を繰り返す機械との対比において笑いが起こると論じたが、ここにダラダラ感を加えると、次のことが言えるのではないだろうか。つまり、ダラダラ感は生と機械の要素の両方を含んでいると(変化するけれど、その速度がめちゃくちゃ遅い)。ということは、ダラダラ感は笑いを起こす二つの要素である生、機械、どちらにもなることができる、ということができないだろうか。ただし、どちらかにしかなれない(正確にはどちらかとしてしか機能しない)ため、この雰囲気だけでは笑いを起こせないということも大事になるとは思う。要するにダラダラ感はオールマイティな才能を持っているが(あるいはそうであるがゆえに)、どちらかとしてしか機能しないのである。

オールマイティ性については、一つ興味深い思い出があって、実家の近くの方言では、「ダラい」という言葉があった。あったのだが、面白いことに、自分の町では「かったるい」という意味に、それこそダラダラしてる意味にとってたのだが、一つ向こうの町になると(僕はそっちの高校に通っていたため)「ダラい」は「面白い」「笑える」の意味で使われていたのである。まあ、論拠としては使えないのだけれども、参考の参考というところで。

どちらかとしてしか機能しないということについて。宮台真司さんの「まったり」はかなりこれに近い言葉だと思うのだけれども、「革命」という時点でおそらくは僕の考えと食い違う。僕なりに言い直すのであれば革命というのはなく、あえてあったというのであれば、それはすでに終わっていると考える。まったり=ダラダラがオールマイティな性質を持っている、たしかにこのことは革命であるかもしれない。しかし、それがオールマイティには決して機能しえないと僕は思うし、それが革命であるとは僕は考えない(←「朝生」ちょっとだけ見てたので、その影響かな?)。


ダラダラ感再々考。
生きるということのダラダラ性について。
生きるということにある種の閉塞感を感じることも、同時に開放感を感じることもこのダラダラ感をもとに考えると正しい。変化の乏しい側面を強調すれば閉塞感として機能するし、それでも変化するという側面を強調するならばそれは開放感として機能すると考えることができるからだ。
一方で、閉塞感と開放感の二つを表した言葉として僕はキルケゴールの「不安」とか「絶望」という言葉を考えている。閉塞感は不安(絶望)であるし、開放感は、何が起こるかわからないという点で不安(絶望)であるといえるからだ。僕はキルケゴールはとても好きで、それはなぜかというと、生きるということに「つねにつきまとう」ことを考え続けた人であると思うからだ。「あれかこれか」の話は、あれを成長物語としてとらえても何もならないのであって、つねに「あれもこれも」、「あれかこれか」、最後の神にすがる段階のどこかにいざるをえないというところを明らかにしたところにこそ彼のすごいところがあると思う(ただ、そのことを言おうとするあまり『死に至る病』の最初の部分<「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている」>のように同じ言葉をえんえんと使ってわかりにくい、という欠点はあると思うけれども)。
しかし、僕としてはあえてキルケゴールに挑戦して、ダラダラ感による生きることののイメージアップを図りたい。たしかにダラダラ感も不安も生きるうえでつねにつきまとうものである。しかし、さっき言ったように、ダラダラ感は笑いを引き起こすものでもある。もし不安であるということが、生きるということが、同時に笑えるものであるということでもあるならば……?「人間は笑う動物である」といったのは誰だったか忘れたが、その言葉はこの観点から理解されなくてはならないと思う。

死ぬということはこのダラダラ感さえもが止まってしまうことではないだろうか。
「もしかしたら、死ぬということは楽になるということでなく、この苦しみが永遠に続く状態のことであるのかもしれない」(記憶に頼った引用なので、正確ではないことをお断りしておく)と『1999年のゲーム・キッズ』内で書いた渡辺浩弐さんのように。あるいは、「死は凝固であると思う」と入不二基義さんに話した伊藤和夫さんのように。しかしダラダラ感は止まったものとしてもとらえることができる。というより、人はそうとらえてしまう。また、死と対立させて人は生を語るものでもある。そうじゃなくって、ダラダラ感として生きることをとらえること、このことが大事なのではないだろうか。ハイデガーが「死への存在」として生きなければならない、と言ったことはこういう風にして(もっとも、彼がキルケゴールから影響を受けているということを考えると、僕は同じことを言っているだけかもしれないのだけれども)とらえなければならないのではないだろうか。

そして死に至るまでの生はどこまでもダラダラ間が引き延ばされて固定に至るのではないか。つまり、ある意味で「死ねない」。僕が好きなベルクソンの論文(この場合の「好き」は、ベルクソンがスピリチュアリスト全開で、本当にイッちゃっている寸前だからという意味なんだけれど)で、彼は身体と精神はデカルトが言うように、ある程度の独立性があり、しかしさらには脳と精神には結びついていないところがあると論証し、「身体的に死んでも精神的に生きられるかもよ」みたいなことを言う。最初僕はこれを読んで「アブねー」と思ったが、今読み直してみると、そのどこまでも死というものが引き伸ばしうるものであるということ、その趣旨がよく出てて面白いなと感心した(「心と身体」、『世界の名著 ベルクソン』に所収。)


(7/27)
『ユリイカ』、黒田硫黄特集。

…ウソ!?『茄子』第一巻に「アンダルシアの夏」収録されてたの?

というわけで、下の記述は間違いです。ゴメンナサイ。


(2003/7/26)
1ヶ月以上開いてしまったが、これは単純に僕が怠けたからだ。
とはいえ、ちょっとしたことはノートとかに書き付けていた。
なんだかんだいって、言葉が出てきてしまうようになっているのだろうか。
赤坂真理さんが後藤繁雄さんとのインタビューで
「言葉うるさくない?」
「ああ、言葉うるさい。」
という受け答えがあったが(『Wasteland』内インタビュー、後に『彼女達は小説を書く』に所収)、よくもわるくも言葉、記号、そんなものにつきあわされていくのだろうと思った。

話は変わって、今一番気になっているのは『茄子』の映画化だ。これはマンガで、以前僕が東京の友人を訪ねた際に積んであったマンガの中にあったもの。オムニバス形式の1巻で、今回映画化されるものとはちょっと違うのだが、古本屋の経営者やピクニック(←なかなか使っていないので一瞬この単語でなかった)に行く友達どうしの話など、その力の抜けた雰囲気の描き方が印象に残っている本だった(茄子はその話の合間合間の小道具という点で共通している)。で、その話を今回ジブリ関係が映画にする(だったっけ?)ということで(そういえば昨日は『魔女の宅急便』やってたけれど)、ちょっと気になっている。主人公の声をやるのが大泉洋であることも気を引いた一因ではある。

話は大泉に移るが、彼は以前「パパパパPUFFY」(今の人、パフィー知ってんのかな?「堂本兄弟」に出てたと思うんだけど。言われてみればTMR、相川七瀬も以前ほど見かけないような気がする)に出てたんだけれども、正直このときは面白くなかった。変な逆ギレ、勝手な進行、キャラノの強さのすべてがマイナスに働いていた。いわばそのことによるパフィーの引き立て役になっていて、山崎邦正のようなポジションにとどまっていた(もちろんそこまで計算した上でのことなのかもしれないけれど)。ところが、一方で彼は「水曜どうでしょう」(現在は「〜リターンズ」)という深夜番組に出演し、札幌ローカルにも関わらず全国ネットに進出、さらにはDVDを4〜5万枚売り上げるほどまでになっていた。僕自身、その番組を見るようになったのだが、シチュエーションかえるとここまで変わるかね、という見本のような番組だった。もちろん、大泉のキャラクターは相変わらず強いんだけれど、その強さを番組が見事に受け止めている。企画+ロケという昔の「電波少年」、今で言う「気分は上々」の系統の番組なんだけれど、電波少年のような過激な企画(いきなりアラスカに飛んでいく)に大泉の強さがまじることで、企画の過激さに流されることなく、「気分は上々」のような「ダラダラ感」をうまく出すことに成功しているように思った(そういえば、とんねるずが昔「生でダラダラいかせて」という番組を作ってたけど、あれもどんどん企画が過激になって、全然ダラダラしなかった。やっぱり×テレはおおがかりに作ろうとするからああなるのかもしれない)。

ちなみに僕はこの「ダラダラ感」に最近注目していて、その代表者が(僕の中では)ダンディ坂野だと思う。例えば、彼は「爆笑オンエアバトル」に出場したとき、いきなりオンエアを勝ち取っている。しかし、その後とことんオンエアされず、「終わったかな」と思ったときに今のように出てきたのである。このオンエアバトルに象徴されるように、今は面白くない、視聴率がとれない番組(企画、出演者)はすぐ打ち切りになる傾向がある。でも、どうも最近はそのことが、つまり、出ないことで印象に残り、その間に自分の面白くない部分、正確には面白くないことで面白くさせている部分を磨いて出てくるケースが大泉、ダンディに出てきているように思う。松本人志は『プレイ坊主』の中で山崎邦正に触れ、「やつは面白くないことが面白い」ということを書いてたと思うんだけれど、テレビの笑いはテレビに出る/出ない(面白い/面白くない)を超えて、見る/見ないに重点を置く(ここで面白い/面白くないという対立軸はそんな単純なものでないとして無効になる)ようになってきた。その際に、新たな基準のひとつとして「ダラダラ感」が重要になってくるのではないか、僕は今そう考えている。

『広告批評』を立ち読み。CMソングの話題で「ガラスのクツ」(「なっちゃん」のCMソングです)が出たのは知っていたが、「NOVAうさぎの歌」が出ていたとは…。ちょっと欲しい。

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