『ポジシオン』
(J.デリダ著、高橋允昭訳、青土社、2000新装版)
を読んで
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大学にいた時に、少しだけだが自分の書いたテキストをほかの人に読んで、感想を聞かせてもらう機会があった。その時の感想の中に
「()が多い」
「自分で突っ込みを入れながら書いている場所が多い」
と言われた(まあ、僕の決して読みやすい文書とは言えないものに目を通してくれるというそのことだけで十分好意的だと思うが)。と書いているそばからやってしまったが、こういうのがやたらに多いのは確かに僕の文章の(未熟さの?)特徴ではあるようだ。
そんな中、僕のような書き方、ただしずっと洗練され、計算づくで書かれているテキストがこの読書対象である『ポジシオン』を書いたデリダその人である、と言えると思う(デリダファンから缶とか投げつけられそうだけど)。例えば、東浩紀はデリダの文章について次のような愚痴をこぼしている。
「実際僕はいまでも、断言を回避するため条件法を頻発し、関係詞節の連なりによりあらゆる図式を曖昧にしてしまうデリダのフランス語を読んでいると、時折苛立ちで頭が痛くなる。」(『郵便的不安たち』、p272)
また、デリダは僕が別ルートから関わることになったフッサールやソシュールから影響を受けているということも知り、まったくはた迷惑に、勝手に共感して今回『ポジシオン』を読んでみた。<一体この共感はどこから来るのだろうか>というこの問いを『ポジシオン』を読む一つの「ポジシオン」(立場)としながら。
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『ポジシオン』はデリダが初期の三著作(『エクリチュールと差異』、『声と現象』、『グラマトロジーについて』)を出した時の(具体的には1967-1971の範囲で)対談を収めた対談集である。デリダの対談は彼の文章と比べて非常に明快であるという評判が高く、実際に『エクリチュールと差異』や『グラマトロジーについて』と読み比べてみても、また『ディコンストラクションとは何か』、『言葉にのって』という他の対談を読んでみてもそのことは明らかであるように思われる。
しかし、そこには既にある一つの罠があるのではないか。音声中心主義を批判し、エクリチュールを音声中心主義的システムの中に介入させようとしているデリダについて、なぜしゃべった方が(すなわち「声」が)わかりやすいかということを考えながら、しかもその「声」が文章化(=エクリチュール化)したものであることに留意しつつ読むことが必要になると思う。
僕の考えでは、すでにそこには「声/エクリチュール」という二項対立を持ち出せないのである。そうではない説明を与えなければならない。単純に言えば質問に答えるという形がそうさせているのだろう。著作はあくまでも不特定多数に向けて発信されなければならず、そこでは問いから答えまでをすべて自分の手で作り出さなければならない。一方、質問に答えるという形であればある程度的を絞った形で答えることが可能になり、その点である種の明快さが生まれる、と言うことができる。
しかし、ここで問題は解決しない。なぜ不特定多数に向けて書くほうより質問に答えるという特定少数に向けたほうがわかりやすいのか。これを少し注意してみるとこのわかりやすさとは著作に起因していることが明らかになる。つまり、著作でわかりづらいと思っている点がある程度の一致を保っているからこそ、質問がみんなの求めているものと一致するのである。つまり、声/エクリチュールは対談/著作への過程で、そして対談/著作さえもその/が消えていくようになっているのである。対談であり、明快な入門書であるというデリダの本には、このようなポジシオンがあるということは忘れられるべきではないだろう。
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デリダの対談に対するポジシオンもまた単純なものではない。『含蓄的からみあい』では誠実に答えるデリダ像が、『記号学とグラマトロジー』では(ここだけ会話体ではなく常体に訳していることもあり)かっちりしたデリダ像が、『ポジシオン』では、後に述べるが当時取り組んでいる思想とこれまでの著作に対する誤解を解くための会話になっていることもあり、実にざっくばらんなデリダ像が、それぞれ浮かび上がってくる。
対談相手をつとめているのはアンリ・ロンス(『含蓄的からみあい』)、ジュリア・クリステヴァ(『記号学とグラマトロジー』)、ジャン=ルイ・ウードビーヌとギ・スカルペッタ(『ポジシオン』)という顔ぶれなのだが、面白いことに、この中でもっとも有名だと思われるクリステヴァが、一番的を得ていないような質問をしている。もちろん、あえてわかりやすい質問をと心がけていたからなのかもしれないが、非常に表層的である。一方、後の二つの対談はデリダの言いたいことを十分咀嚼した上での質問である、と思われる。しかしどちらもデリダの思想が明快に答えられている。すなわち、従来の紋切り型的な質問に対してはその紋切り型をまさに正してやるという点はデリダの思想そのものであるし、デリダにさらに突っ込む形での質問もまたよりつっこんだ答えを返せるという点でデリダの考えを明快にすることができる。その意味で対談に対する各人のポジシオンについても興味深く読める一冊である。
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この本は彼の哲学史的ポジシオンを表明しているという点でも非常に興味深い。最初の対談の『含蓄的からみあい』ではフッサールとソシュール、ニーチェとハイデガーに対するデリダのスタンスが語られている。『記号学とグラマトロジー』ではソシュールとフッサールについてさらにつっこんだデリダのスタンスが語られる。最後の『ポジシオン』ではこれから研究すべきものとしてフロイト-ラカンの精神分析への態度、ヘーゲル-マルクスのエコノミー(「体制」と訳されていたがこれが一番実感できる)に対してバタイユを介入させた読み方などが提示されている。ここでは各々の対談からまったくの独断のもとに(そうしないと僕はデリダの哲学史的ポジシオンを面白く紹介できそうにないからだ)紹介してみようと思う。
『含蓄的からみあい』のデリダによれば『エクリチュールと差異』と『グラマトロジーについて』は互いに互いの真ん中にはさみこむことができる試論であると言う。しかし、『声と現象』は最も愛着を持つ試論であり、先の二著作の注としてつけることができる、と言う(pp
.10-11)。どうやら、とりあえずの出発点としてはフッサールの読解からデリダの哲学がはじまったと、とりあえずは言うことが可能になりそうである。しかも、デリダははっきりとそこに「超越論的現象学」の影響を認めている。エポケーしつくす、還元しつくすその態度をフッサールから学んでいるのだ(「フッサールは、私にとって、技術、方法、規律を教えてくれた人であり、決して私を見捨てなかった人なのです」『言葉にのって』、邦訳p123。)
この態度をもってフッサールの「意味/意義」の(他方が他方を排除する機構を持つ)区別を、『記号学とグラマトロジー』ではフレーゲ「意味/意義」の区別(すなわち、純粋に論理分析の二つの道具としてのみこの二つをとらえている区別)と対照して丁寧に論じている。そしてその方向をふまえたうえでソシュール批判を『グラマトロジーについて』の要約のような形でこれまたわかりやすく論じている。つまり、記号の所記/能記の不可分性、それによるこれまでの記号の形而上学を批判していたはずのソシュールが、実は所記の特権性を知らず知らずのうちに導入してしまっており、ある意味で記号の形而上学をより強固なものにしてしまっているという逆説を論じている。
ところで、フッサールとフレーゲの区別は先に述べたが、僕はここにどうしてもメルロ=ポンティとデリダを重ねて読んでしまう。メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の序文において、なぜフッサールとハイデガーの<現象学>はあんなにずれてしまっているのか、という問いを立てている(『知覚の現象学』、みすず版pp
.1-3)。しかしその問いはフッサールへと差し向けられる。なぜなら<現象学>はフッサールからハイデガーへと教えられたものであり、フッサールの現象学にハイデガーの現象学の萌芽があったと見るほうが自然だからだ。そうした上でメルロ=ポンティは現象学の二面性を二面性のまま、「われわれにとっての現象学」(同書、p3)と言う言い方で片付けるのである。しかしデリダの考え方に従えばこのような見方は拒否されるべきだろう。彼はとことんフッサール的に、超越論的現象学的に思考を進める。そしてそこから初めてカント、デカルトとどう違うかと言うことだけでなく、どう同じかと言うこともよりわかりやすく取り出されることになるだろう。『知覚の現象学』序文でデカルトやカントがフッサールとは違うと批判されていたが、それではなぜフッサールにはカントへの批判(『厳密学としての哲学』)とカントへの接近(『危機』、『デカルト的省察』)があるのだろうか、ということの説明が難しくなる(しかもその批判はカントの哲学は学びえない、哲学の仕方を学びうるだけだと言った、まさにその論点に関わっている)。おそらく両義的に考えることは大事だろう。しかしとことんあるポジシオンから論じつくすこともそれに劣らず重要であるとデリダは訴えているように思う(『グラマトロジーについて』pp
.143-144においてデリダが現前の問題を論じている際に、両義性という言葉を拒否していることを参照しておくべきだろう)。
かくしてあくまでもそのテクストに忠実に(肯定的に)読むこと、フッサール的に還元しつくしていくことが脱構築の重要な要素になる。しかしこの脱構築はテクストの<外>へ開かれていると言えるのだろうか。その判定をこの脱構築自身が行うことは難しく、<否>ということによって自己の立場を確保する否定神学の最高形態とも言えるラカン、ヘーゲル(主義)への対抗もまた難しい。最後の『ポジシオン』では、ここに焦点が当てられた哲学史的ポジシオンが語られる。
ヘーゲルについては差延の定義に関連して次のような記述がある。「ヘーゲル的止揚の、その止揚が働いている至る所における制限、中断、破壊」と(p59)。これを読んだときはまさにわが意を得たり、と思った。要するに矛盾をより上位のレヴェルにおいて解消しようとする方法が止揚だと考えられるが、その場のレヴェルでは依然矛盾は矛盾なのである。つまり、矛盾がなくなってよいと考えるのではなく、止揚というものは自らのレヴェルを犠牲にし成り立ちうる、そのようなものだと考えられなければならない。バタイユの「非-知」という概念で僕が考えたこととまったく同じである(バタイユついでに指摘しておくと彼は自身のテクストが他のテクストを要求するテクストという性質をもつそれを、それらテクストが断頭を行っていると書いている。バタイユの「無頭人」がヒントになっているのかもしれない)。しかし、同時にヘーゲルはデリダにとって肯定的にならざるを得ないであろう。なぜならあれほどまでにあからさまに超越を欲望した哲学者はいない、と言えるからである。
ラカンについてだが、デリダの読み方からすると、決してラカンが一枚岩的に否定神学に属すると考えるのは間違いのようだ(あと、この時点で『エクリ』が出版されていないこと(p162)も考慮されるべきであろう)。それでも、本書が出版されたあたりから、フランスの思想は露骨に思弁的になり、精神分析批判へと移っていったこと、ドゥルーズ(ガタリとの『アンチ・オイディプス』)、フーコー(彼の場合は一貫している気もするが)、デリダ(『郵便絵葉書』、『弔鐘』)が最高に難解になった時期であるということは明記しておくべきだろう。僕にとってラカンは入門書と言われる『テレヴィジオン』でさえチンプンカンプンだった。そのチンプンカンプンさにあえて挑戦した代償だと(先述のテクスト群の難解さは)考えられるべきだろう。そのこと自体を知らしめてくれるテクストとして、つまりなぜ難しいかを説明してくれるものとして、やはりこの対談は重要な位置を占めていると考える。
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デリダを読む際にデリダ自身が述べている著作に対してのポジシオンもまた表明されている。
例えば、先述したことを背景にすれば東浩紀が執拗に論じた『郵便絵葉書』も、『マルクスの亡霊たち』も早くから彼のモチーフとしてあったものだということがわかる。いわゆる初期のデリダに中期のエクリチュールの戯れ、後期の正義、法、社会論などの萌芽はあるのである。一例を引いておこう。例えばデリダはこのように述べている。「あれらの書物のもとで問題にされているのは、ひとえにあるテクスト的「操作(オペラシオン)なのです。(中略)そしてこの操作は、もっぱら他の諸テクストの読解(レクチュール)に精力を消費しますが、にもかかわらずある仕方でただ自己自身のエクリチュールにしか差し向けないのです」(p9、誤記と思われるところは引用者の判断で訂正した)。一方、東浩紀は難解で知られる中期の著作群の読み方をこう書いている。「そこでは読者は、まずデリダのここのテクストを一度ばらばらに分解した後、任意の隠喩に注目し、テクストの年代的順序に関係なくその縫い糸を辿り直すことが許される」(『郵便的不安たち』、p274)。読んでみれば、二つの引用文が同じことを言っていることがわかる。しかも、東浩紀は中期の作品群に限った話(事態をわかりやすくするためもあるのだろうけれど)をしているのに対し、デリダはその狙いが初期三部作の時点ですでにあったということを証言しているのである。もちろん、それがどのように発展したかを、ここの著作に沿ってみることは必要とは言えるだろう(もっとも、そういう読み方を拒否しているのがデリダなのだが)。
デリダには「書くことのできない本」というモチーフがある。例えば『フィシュ』では総ページが何万ページにも及ぶ書物の構想を(宙吊りにしたままではあるが)話し、『言葉にのって』では、それは《完全な》日記であると告白している(『言葉にのって』、p26)。つまり、彼が考える書物とはウルトラ百科事典ともいうべきものであり、しかしそれを書くことは不可能である、その都度その都度における書物の隠喩的つながりにおいてそれは仮構されるのだ、という考えが明らかになる。
僕はこの一見矛盾した態度(書きたいが、書けない→隠喩をちりばめた態度)に共感する。すべてを書き留めたい、という欲望が、少なくとも僕にもあるからだ。デリダの戦略が正しいかどうかはわからない(正しいとは思うが、変化する可能性を十分に秘めている。留保に近い)。しかし、そのモチーフ、いや、ポジシオンを見ること<から>はじめられなければいけないこと、このことについてだけはずっと賛同し、そのポジシオンも僕は取り続けることだろう。
position 5
デリダはこの対談で(というよりはずっと)一貫して脱構築はその否定性ではなく肯定性が述べられている。あくまでその議論に従った形で、それなのに不適切な議論が同居しているそのことに対する批判。デリダの「肯定」とはあくまでも両義性に対する肯定であり、ドゥルーズのある種断絶した状況に対する肯定とは違う。僕がデリダに共感したのはまずここである。ドゥルーズも現在すこしずつ読み進めていて、それ自体面白いものなのだが、イマイチ素直に納得できないところがある。数学で言えば天才的な解法を見せられているようで、自分で解きなおしてみてはじめてそのすごさがわかるという印象を持っている。晩年の著作、例えば『批評と臨床』、『哲学とは何か』に関して言うと若干その印象は薄れてはくるのだが、それでも完全に消え去ったわけではない。それに対してデリダはあくまで書いてあることに固執し、そこから出発してくれる。数学で言うならば確実な解法といえるだろう。丹生谷貴志は自身の文章で<形而上学的ニヒリスム>と<ユダヤ的ニヒリスム>を区別しているが、僕の印象では、そこに「戦略的に関わっている」デリダがいるからこそ、この問題があからさまに明らかになっているのであって、もしデリダがいなければその<ユダヤ的ニヒリスム>は否定的にしか語られず、問題にすらならなかったのではないかと思う(そして往々にしてそうなった対象には排除という運命が待ち受けている)(『仁王立ち倶楽部』所収、『現代思想における<形而上学的>ニヒリスムとユダヤ的ニヒリスム』)。しかし、注文もある。デリダの脱構築はソシュールの場合に顕著なようにソシュールの独自性を生かした方向で行われたときには確かにすばらしく機能する。しかし現在の亜流脱構築に見られるように一般性に解消されるような脱構築もまた存在するのである。そのときに脱構築はまさに保守的にしか機能しない。となるといい脱構築と悪い脱構築があることになり、その基準として差異が持ち出されることになるだろう。その際、差異は恣意的にならざるを得ないのではないか?そしてこの差異という言葉だけで片付けるには、脱構築の基準はあまりに脆弱なものといわざるをえないのではないか。
その際に差延という概念が重要になってくる。まず、デリダの差異についてのコメントをきっちりと読むことが必要であろう。すなわち、「ヘーゲルは大『論理学』で差異を矛盾と規定しています」(p64)という発言である。そしてデリダはこの差異から差延を区別したいとも発言している(同)。以前僕はドゥルーズの差異はヘーゲルに外在的な内在的差異、デリダはヘーゲルに内在的な外在的差異、と考えていたが、少なくともドゥルーズのベルクソン的差異、内部分化を起こす差異を問題にしているということとの区別はしておく必要がある。また、そうすることによって以下のような問題もより必要になる。すべての差異の差異としての差延。しかし、この差延に対してのデリダの発言を読んでみると否定的表現が目につく。例えばaの意味の「不」可能性(p16)、能動性、受動性の「不」決定性(p42)。つまり、何らかの形でデリダがまだこの概念を作り出したばかりで、あまりうまく使いきれていなかったのではないか、と僕は考えるのである。差異を生み出すものとしての差延。しかし、その差延には終わることがない。この終わりがないということをどう肯定的に概念化するかが問題なのではなかったのだろうか。つまり、差異という概念はもう一度考え直され、差異化されなければならないと思う。
この抵抗として東浩紀の言う「郵便的脱構築」というのが出てきたということなのだろうか。この対談集でデリダは散種という概念、モチーフ、操作子が加わったことを発言している(p65)。ここでも究極的にはなにも意味しない(同)とは言っているものの、それはあくまでテキストにのっとって読解されていること、そしてその読解作業を参照することを推奨していることからも、テキスト内の実践として、よりポジティヴになっていると(正確にはまだよくわからないこともあるのだが、少なくともそう思わせてくれること)考えることができる。いわゆる中期に入りかけている時点でのこの最後の対談は中期の著作をまじめに読むためには必要な対談であると思う。
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ここで僕が自分のポジシオンを表明しておくとするならば、その存在論についてであろうか。レヴィナス(-ハイデガー?)のil
y aとetreの発想がいまだ残っているものであるということ、それが後期の考えに影響を及ぼしていると考えている。例えば高橋哲哉は『デリダ』の中で(『デリダ』、pp
.168-177)、「ウィ」の二重性について解説してくれているが、ここにはあるものとして、すでにあるものへの肯定が肯定には含まれている、という二重の肯定という立場が出ている。また、正義は脱構築である、というテーゼをいうデリダに対しても、『ニーチェは、今日?』(邦訳:ちくま学芸文庫)において、パロディのパロディと正義という問題に関して発言したドゥルーズに「依然として正義のことを言っているのはあなたですよ」(『ニーチェは、今日?』p119)と答えているデリダとは、また微妙なズレを感じざるをえない。
いかんせんハイデガーもレヴィナスも(もちろんデリダも)読んでいないので決定的なことは何ともいえないが、このil
y aとetreの差異を論じつくすこと、それはハイデガーの存在/存在論の差異をニーチェを使って推し進めようとした(もちろん、ハイデガー自身がニーチェを深く理解していたことを承知の上で、つまりニーチェを利用するにしてもハイデガーのニーチェとは一線を画す必要があった(『ニーチェは、今日』におけるデリダの発表はまさにその一端である))デリダの考え(pp
.18-20)を受け継ぐということになるのではないだろうか。
position x?
と、いくつかのポジシオンによってこの本を読んだ印象をつらつらと書いてきたわけではあるが、これはあくまで僕の読み方、position
0を出発点とした僕のポジシオンにおいた読み方でしかない。そのため、今読み返してみても重要な論点を完全に紹介し終えてはいないことがわかる。そもそも、題名のpositionにはsがついている。複数の立場?立場が複数であることとはどういうことなのか?しかしこの疑問に(脱構築的ではなく)答える間にもこれを読み、他の著作を読むことでもっともっと多くのポジシオンが発見され、からみあっていくことになるだろう(事実僕自身この本を複数のポジシオンのもとに読んだともいえるからだ、それは複数回その本を読んだことであると同時に、僕の複数のポジシオンでもある)。そのからみあいの中でも、からんでいるそのさまという現在進行形に近い痕跡を(しかしそれはあくまでも痕跡であり、現在進行形なるものはないのである)残しているのが本書だといえるのではないだろうか。
わかりやすいから読んでみ、とは誰でも言えるだろう。だからこそあえて自分のポジシオンをもとに読んだ、そのまとまりのなさを直接目の前に提供したいと思う。もしかしたら意外に統一性を帯びていることを読み取るかもしれないし、複数のポジシオンに複数の反応があることも自然なことである。それにしてもしかし、今問題にしているポジシオンとは、一体何のポジシオンなのであろうか?
引用はすべて邦訳のページをさし、書名を記していないものは『ポジシオン』邦訳の該当ページをさす。あまり詳しく書籍情報を書かなかった点についてはご了承願いたい(amazon、google等で『』内の言葉を打ち込めば、ある程度は検索できるはずである)。