石橋義正と一青窈との間にあるもの−廊下と銃弾と男と女−
バミリオンプレジャーナイトの感想 1.5
雑誌『ダ・ヴィンチ』の2004年3月号〜同年4月号において、一青窈さんによるインタビューコーナー「ふむふむのひととき」に石橋義正さんが出ていた(注1)。僕はこの両人のファンであるのだが(そうだ、そしてこの文章を書いている理由だってその私的な理由以上のものがあるだろうか)、この二人のつながりについてはこのコーナーを読むまであまり意識していなかった。しかしこの対談を読むとその二人の感性がいかに近いものであったか(もしかしたらそれは両方に反応する、という僕の意識を再点検することであっただけなのかもしれない)について考えさせられた。
ところで、一青窈さんは最近リリースした2ndアルバム『一青想』の限定版において、これまでのシングルのPVを収録したDVDを特典としてつけている。その中の「江戸ポルカ」のPV、そしてバミリオンプレジャーナイトDVDVol.5収録の「アルフレッドな女」には映像的に類似点が多い(ように思える)。ここでは二つの映像を分析することを通じて(1)類似点の列挙、(2)類似点の意味、(3)二人の伝えたいことの一面を考えてみたいと思う(注2)。一青窈さんの言葉を借りて言えば「私と(石橋義正さんが)一緒な壷」(注2)とは何なのだろうか。
1.類似点
まずこの二作品のうち「アルフレッドな女」の方を先に紹介しておくことにしよう(発表順としてもこちらのほうが先だ、ということもある)。題名を見て気がつく人がいるかもしれないが、これはバミリオンプレジャーナイト内の映像作品の中では石橋義正さんによる有名監督作品のパロディ(オマージュ?)作品の一つである(注3)。その対象となった監督とは「アルフレッド」・ヒッチコックであるわけだが、ヒッチコック作品の有名な部分を素材に一本の作品にしあげている、というわけだ。以下、それらの素材とともに大雑把な解説をしておく(注4)。
<高所恐怖症>の女がガラス張りのエレベーターで建物内を上がっていく(ここで高所恐怖症であるということをあらわすワンカットが入る)。目的の階についた女が長い廊下を進んでいると向こう側に<足を負傷した車椅子の男>が女側にカメラを向けている。女がエレベーターの方を振り返ると<女装をした、刃物を持つ男>がエレベーターで上がってきて、女に襲いかかってくる。女は一瞬あわてこそするものの(<ダイアルM>の電話をかけようとするが)、バッグの中から拳銃を取り出し、そこになぜかかけられていたシンバルによって拳銃の音を消し、襲いかかってくる男に発砲する。銃弾は見事男に命中し、車椅子の男と銃弾に倒れた男がワンカットずつ映しだされて、終わる。
次に一青窈さんの「江戸ポルカ」PVを紹介する。とくに説明の必要はないと思うが、シングル「江戸ポルカ」のプロモーションビデオ。一青窈さんの七変化が特徴となっている。実際の映像では一青窈さんの歌っている映像(映像A)とここで紹介している映像(映像B)とが重なり合って出てくるのだが、今回は映像Bにのみ着目し、映像A、および映像Bと映像Aとの関わり合いといった部分には踏み込まないこととする(注5)。
黒人のビジネスマンが「わたりの廊下」を競走の要領で走る(合図のピストルを鳴らす役)。歌が2番にさしかかるころに、なぜか後ろから二人の忍者姿の人物がビジネスマンを追いかけてくる(忍者姿の片方)。二人に追いつかれそうになりながら走るビジネスマンの前に伏せた状態の狙撃手があらわれ、彼に発砲するが、彼はハードルを飛び越える要領でそれをかわす。しかし、忍者姿の一人は銃弾を受け、おそらくは血をあらわすもみじをまき散らし、倒れる(狙撃手、倒れたほうの忍者)。最後に忍者姿の一人はビジネスマンを追い抜き、ゴールに差し掛かるが、最初に合図のピストルを鳴らした女がゴールに立っており、ゆっくりと銃口を走者のほうに向け、発砲する。忍者姿の男は倒れ、黒人のビジネスマンがゴールテープを切り、映像は終わる。
このように二つの映像作品をみると、次の類似点があることがわかる。
A.長い廊下を走る男という設定。
B.女が銃を持ち、銃弾は走る人物に命中、絶命させている。
C.銃を持つ女の<向こう側>にいることのできる男性は一人のみである(車椅子の男、黒人のビジネスマン)。
また、紹介文に「なぜか」という言葉が多用されていることからもわかるように、D.それぞれの場面の移り変わりに脈絡が特にないことにも留意するべきであろう。それではなぜこのような類似点が生じたのだろうか。
しかし、この問いに答える前に問いを少しずらして考えることにしよう。この類似点が示していることとは何なのか、この問いからまずは考えてみたい。
2.類似点の意味
まずは類似点Bから考えてみることにする。この場合、似た場面を考えているのはフロイトによる精神分析的手法である。彼によればピストルは男性の性器の象徴であるとされる(注6)。銃撃が「体内に侵入して傷つける」(注7)共通性から考えれば発射=射精を象徴している、と考えられる。
もう少し(恣意的分析であるかもしれない、という危惧は常に付きまとうが)分析手法を拡大させてみよう。ABCの男性、女性はそのまま男性、女性を象徴する、と考えてかまわないだろう(というよりも、後に述べるようにこのことが重要な意味を持つ、と考えられるからだ)。
さらに分析を広げてみると、Aの長い廊下は女性の性器を象徴してみると考えることができる(注8)。
まとめてみると、精神分析的手法をとりあえず導入することで3つの水準において適用が可能になる。すなわち、所持道具(銃)のレベル、登場人物のレベル、舞台のレベル、それぞれにおいて精神分析の適用が、少なくとも先に示したように可能であるのではないだろうか。
そう考えると一人しか女性の向こう側に男性がいられない理由も納得が行く。すなわち、一つだけしか女性性器の向こう側=子宮に男性=精子が到達すること、すなわち受精はできないのである(注10)。
ここまで精神分析的(性的)に執着することは馬鹿げている、と思われるかもしれない。しかし、この解釈を採用することで特徴Dの不可解さが自ずから氷解している、ということもわかっていただけるだろう。次節ではこの分析の結果を(映像作品を離れる、という意味で)さらに考察してみようと思う。
3.二人の伝えたいこと(の一面)
さて、先述したように、類似点とその意味を考えてきたところでこれに考察を付け加えておく必要がある。なぜなら、性の不一致があるからだ。すなわち、女性が男性の象徴である銃を持ち、発砲しているのはなぜか、という問題が残るのである。そしてこの問題の大事なところは、通常の男女平等的議論では解決が成り立たないところにある(注11)。
ここで僕が提案する方法は、はっきり言って時代錯誤的(注12)である。それはある意味でこれまで男性的としか思われていなかった方向でしか解釈できない、という考えに基づいているからである。それは僕が単に男性中心主義的なところから抜け出せていないからなのかもしれないし、それともこれまでのジェンダー/セックス論が二項対立を前提していたからなのか(つまりジェンダー/セックスを、さらには男性/女性の区別を暗黙のうちに導入していたからなのか)についてはわからないけれども。
先に書いたように受精されることのできる精子は基本的に一つであり(それこそこれを真理と言い換えてもかまわない。つまり正しいことは一つだけ、なのだ)、他についてはっきり言えば「無駄」(真理との関係で言うと偽)なのである。
大事なところはこの「無駄」である。「無駄」をどうとらえるか、という問題だと言えるかもしれない。二人の映像作品のなかで奇異に思われた<女性が持つ男性の象徴>とは、「無駄」の原因を女性側からの(男性的)アプローチに求めている、というところにその奇異さがあるのではないだろうか。そしてなぜそれが奇異に感じるかと言えば、こちら側がこれまでの「無駄」さに女性が関与していなかった、という思わくがあり、それを知らず知らずの間に暴露されてしまっているからではないだろうか(しかし、考えてみればわかるがこの思わくにそって考えればなぜ精子の数が少なくなることで妊娠しないのか、という問題が解けない。女性側の関与がなければ一つは到達が可能だからである)。ここで僕の立場は半分時代錯誤的であり、半分そうではなくなる。後者については女性の関与を積極的に認めることであり、前者についてはその働きを述べるためには、残念ながら僕には男性的な語彙を使ってしか説明できていない、というところにある。
伝えるものと伝えられるものの間に完全に一対一対応が起こるということに対する異議申し立て、と同時にまったく未対応であるという事態に対する異議申し立て−これらは結果として、であるが−その結果を作り出す二人の作品はそのかぎりにおいて、美術館に置かれた石のように(注13)、美術的である。
4.廊下の外に出て
最後に、ヒントをもらった考えに対して逆に考えてみる。その意味でこれは長い注である、とも言える。
ジャック・デリダの「撒種」、東浩紀の言う「誤配」について(注14)。彼らの議論は逆説的で、基本的には間違いとされているものこそが正しさを正しくあらしめている、という議論になりがちである(もしかしたら僕の読みがずさんなだけかもしれないが)。その意味でここにある種の積極性を持たせようとする僕の議論はここから逸脱している部分がある。
カントについては『人間学』、『人倫の形而上学』において男性−女性の生殖中心主義的な婚姻観が指摘される(注15)。これについては否定的でなるのではなく、より拡大解釈、あるいは転倒を行う必要がある。すなわち、生殖をもっと大きい意味でとらえる必要がある。すべては男性−女性的で生殖が行われている、とまでしてしまうこと、あるいは生殖の男性−女性中心主義に変えてしまうこと。
その方向でドゥルーズの「n個の性」とレヴィナスの「繁殖性」は調停可能になると思われる。実際にこれを考えている人物の一人に小泉義之さんがいるが、最近の著書、『レヴィナス』(NHK出版、2003)と『生殖の哲学』(河出書房新社、2003)はこれらのことについて論じているが、僕の中ではイマイチつながらなかった。それは僕が生殖を、それこそカントの(カントの時代における)生殖観においてとらえていたからに他ならない。あらゆる空間、時間における生殖を肯定すること、あるいはそこまで生殖というものの指し示す範囲を広げることにより、これらの著書における論述は筋の通ったものになると思われる。
注1:http://www.recruit.co.jp/cgi-bin/rperl.pl/Davinchi/bn/0403.html、またはhttp://www.recruit.co.jp/cgi-bin/rperl.pl/Davinchi/bn/0404.htmlを参照。
注2:そのため、これはある意味で以前書いたバミリオンプレジャーナイトについての感想についての別ヴァージョンになる。
注3:「江戸ポルカ」の歌詞、「笑う壷が私とは一緒だとか」の歌詞を改変したもの。
注4:他には「フェデリコな酒場」(フェデリコ・フェリーニ)、「リンチなタバコ屋」(デビッド・リンチ)がある。
注5:映画に詳しくなく、ほとんど(妄想に近い)直観で書いている僕には「アルフレッドな女」の素材を逐一解説できる知識はない。それでもある程度の解説ができるのは『カラー・オブ・ライフ』(石橋義正監修、吉本音楽出版社、2002)、そして同じ大学にいたT君のおかげだ(本人の許可を取っていないので一応イニシャル)。少なくとも、ここで謝意をあらわしておくほどには。<>で囲まれているところが協力も得たうえでの僕がわかっている限りのヒッチコック作品からの素材である。
注6:「」内は「江戸ポルカ」の歌詞からの引用、()内は一青窈さんが演じている(?)役である。
注7:『世界の名著 フロイト』(懸田克躬編訳、中央公論社、1966)所収「精神分析入門」、p220。
注8:同上。
注9:正確にはこの例は同書には掲載されていない。しかし、「空な腔洞があってなかにものを容れることができるという性質を備えたすべての対象によって象徴的に表現され」(同書、p222)る、ということ、例として「<溝>、<洞穴>、<管>…(中略)…<筒>」(同上)を挙げていることから勘案した。また、「アルフレッドな女」において廊下に到達する前に「エスカレーター」に乗っていたということにも注目する必要があるだろう。
注10:二卵性双生児などの事例を考えていないことはわかっているが、そこまで考えることはできなかった。
注11:例えば魚住洋一さんが前掲の『カラーオブライフ』に寄せている文章ではファロゴセントリズム(これ自身、精神分析に反抗した、つまり精神分析を基礎としている概念である)に抗して「ペニスを噛みちぎらんばかり」の女性があらわれている、という指摘を行っているが、それではなぜ「スターシップレジデンス」の<レーザーガン>をうちまくっている女性を挙げながらそのことを指摘していないのか、ということを指摘しておく。
注12:時代錯誤的、ということでいえば一青窈さんも石橋義正さんも時代錯誤的な−僕はそれを着物を着た女性の映像作品の多さ(「歌う六人の女」、「ワンポイント英会話」、「金魚すくい」、「江戸ポルカ」、ちなみに江戸ポルカはもともと昔の曲にモチーフをえたことをテレビ番組で発言していた(記憶がある))−作品が得意なことも挙げておく。
注13:ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』、菅野盾樹、中村雅之訳、みすず書房、1987を参照。
注14:デリダについては『ポジシオン』(高橋允昭訳、青土社、2000新装版)を、東浩紀については『郵便的不安たち』(現在の状況を考えて、『〜#』朝日文庫、2002を書誌情報としてあげておく)を参照。
注15:『人倫の形而上学』については中央公論社『カント』野田又夫編集所収の同名論文pp.408−411を、『人間学』については岩波文庫『人間学』、坂田徳男訳、1952のp294以降を参照。