わたしのなかの「でんでん虫」
tobiko
まだ小さな子供であった時に、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。
不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでん虫のかなしみ」にそってお話いたします。
そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背負っている不幸を話します。
友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。
小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返って来る答は同じでした。
そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。
自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。
この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終っています。
あの頃、私は幾つくらいだったのでしょう。
母や、母の父である祖父、叔父や叔母たちが本を読んだりお話をしてくれていたのは、私が小学校の2年くらいまででしたから、4歳から7歳くらいまでの間であったと思います。
その頃、私はまだ大きな悲しみというものを知りませんでした。
だからでしょう。
最後になげくのをやめた、と知った時、簡単にああ良かった、と思いました。
それだけのことで、特にこのことにつき、じっと思いを巡らせたという事でもなかったのです。
しかし、この話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶に甦って来ました
殻一杯になる程の悲しみということと、ある日突然そのことに気付き、もう生きていけないと思ったでんでん虫の不安とが、私の記憶に刻み込まれていたのでしょう。
少し大きくなると、はじめて聞いた時のように、「ああよかった」だけでは済まされなくなりました。
生きていくということは、楽なことではないのだという、なんとは無い不安を感じる事もありました。
それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。
長々と引用したうえの文章は、第26回国際児童図書評議会ニューデリー大会に際して、美智子皇后が寄せられた基調講演の抜粋です。
長文なので一部勝手に改行させていただきました。
1998年、新聞紙上に掲載されたこの文章を読んだとき、私は自分の背中にも殻が生えてくる感じがしました。
その中には、静まり返った湖のようなシーンと冷たい悲しみが一杯詰まっているような気がしました。
人は生まれながらに見えない「殻」を背負っているのかも知れません。
大人になるにつれ、その殻は成長していきます。
思春期の頃には「好きな人のこと」とか「自分の存在ってなんだろう」とか、内なる悩み、悲しみが大半を占めていたような気がします。
時を経るほどにそれがだんだん変化して、粘液質を帯びて重みを増してきます。
頭の中の観念だけではない、現実と直面した悲しみが詰まっていくのです。
「この殻を背中からおろしてしまいたい」
何度そう思ったことでしょう。
それでもやはり「神様は、その人の背負えない荷物を背負わせはしない」という言葉を信じて歩いていくしかないのです。
雨が降っていても、曇っていても、たとえ嵐のときでも、そのウンと上のところでは、いつも変わらず太陽は存在しているのだという事を思いながら。
ある意味では、殻の中の重さが、今までの私の生きてきた重みなのかもしれないのですから。