俺が返信切手 その5


かーだ、ラスベガス俺いったぜ。 
まぁ、一泊たけだから詳しいことは正直わからんが、まぁ質問とかあったら聞いてくれ。 
レンタカーの事も解るよ。 
俺等が泊まったホテルは当時の一番新しいホテルの“ベネチアン”というところで、全室スイートの部屋。 
一泊$250位かな? 当時はまだショッピングセンターが出来てなかったけど、この前テレビで出たら完成してたよ。

んじゃ、行ってみるか!!

授業は毎日、毎日の各科目の宿題をこなすのと同時に進んでいった。 
寮での生活も充実していて、ルームメイトとは少しずつ違いが出てきたが、飲みには行ってた。 
週末以外は遊ぶことは本当になく、金・土の夜以外は、勉強とテコンドーに殆どを費やす生活が数ヶ月間続いた。 
寮の勉強場所でも顔馴染が多くできて、ルームメイトから“勉強しすぎだ。”の声が連発だったが、“俺はその為に来た。”と理解を求めた。 
英語学校の中には、授業に出ずにスラングが本当の英語だと、アメリカの学生とブラブラしてる奴等も多々いた。 

<よく“行けば英語が上手くなる。”と質問されるが、それは全部ウソ。 
簡単なコミュニケーションはとれるけど、本当の“核”の部分を知ろうと思ったらしっかり勉強しないと無理だと俺は思う。 
語学学校には、期間限定米国市民も多々いるが、英語の勉強に興味がなく、クラスにも中々来ない生徒に先生達は結構困っていて、中には現地のアメリカ人との結婚目的で来る人なんかもいたりしてた。
問題は、このような事でビザを発給すると語学学校の評判にも悪いし、移民局との問題にもなってくる。>

テコンドーには週3回位は通っていた。 
当時のテコンドーは2団体に別れていて、W.T.F.というオリンピック競技になったテコンドーと俺やかーだがやっていたI.T.F.というテコンドーがあり、俺は自分の連盟があればと思っていたが、I.T.F.はアイオワ大学近辺にはなく、いくつかあったテコンドーのクラスや道場はすべてW.T.F.というオリンピック式しかなかったので、韓国人の師範がやっている道場に通うことにした。 
あーだ、こーだ理由を説明すると韓国人師範のマスター・チェは“そうか、日本の同胞か、アメリカに来て間も無いけど、一緒に練習すんべ。 
ここじゃあ、何でもアメリカ式だ。 
だからちょっと違いがあんけど、頑張れや。 
今日は練習が終わったら何人かで飲み行くべ。”と言ってくれた。 
俺は“結局飲みかよ!”と思いつつ、月$15のこの道場に決めた。 
韓国の師範がどのような練習をするのか、すごく興味があった。 
技術的には俺は道場でもトップクラスだったが、型が全く違う為、そこだけ自習というのが常だった。 
練習内容としては、日本とは大きく変わらないが、自分の中で変わっていった“自覚”というのか、アメリカに行ってから、もっと自分の本当の“色”とか“考え”を具体的に出す習慣がこの頃から付き始めた気もする。 
その中で一番変わった事は、試合で自分のスタイルをもっと自由に出し始めた事と、勝ちに行く姿勢が自分の中に備わった事、負けて悔しいと今までに無いくらいに思い始めた事だ。 
これは以前の技術に頼った自分のスタイルとは違い、自分自身が技術ごと試合に負けたという、“自身の負け”という考えが生まれた事にある。 
またテコンドーを通じて、俺は他の留学生とは違った生活をする事が出来た。 
一番楽しかったのは、試合や演武で、小さな町へいったり、色々な人達と仲間になったりする事だった。 
チームメイトとあの蹴りがろうのとか、対戦相手がどうのとか話しするのも独特だったね。 
アイオワの頃は、ラオス出身の奴が道場に何人かいて、よくそいつと演武のデモを組まされた。
でもそいつ、本番になると頭が真っ白になって打ち合わせ通り来ないんだな!! やってる最中にこっちは予測がつかないからヒヤヒヤもんだったね。 
すんごいい奴だったけどね。 
俺には道場の友達があって、寮にはビリヤード仲間や勉強友達がいたから学校には本当に勉強をしにいくだけになってた。 
学校の先生には一生懸命勉強するからすかれてたね。 
生活の範囲は自転車で行ける範囲だったけど、普段は道場に行く位しか出なかったね。 
道場の途中に韓国の一家が切り盛りしてる食料品店があって、簡単な韓国の食事を食べさせてくれるんだけど、寮のハンバーガーや料理に飽きたり、食事の時間に間に合わなかった時はそこでピピンバやクッパといったのを食べた。 
日本から来た在日の韓国人といったら親切にしてくれた。 
一回、日本の主婦が買いに来てて通訳したら、惣菜をご褒美にくれた。 
うれしかったね、すんごく。 
でも、胡瓜が食えない俺は店のおばさんに“ピピンバの胡瓜は要らない。” と言って注文し待っていると見事に胡瓜が載っていた。 
そこで“胡瓜要らないって、言ったやん。”というと“それズッキーニ。”とカウンターを食らった。 
彼等にはそんなに大事な事ではないけれど・・・。 
結局、2,3回位同じ事があった気がする。 
この食堂には精神的にも色々お世話になった。 
人間にとって“食”というのは本当に大事なもんで、幼い頃から食べていた物というのは多くの人にとって“源”といってもいいと思う。 
いろいろあったアイオワ生活も次回で大問題を記述する。 
そのネタがおわったら、アイオワともお別れ。
次回、小便が出なくって、病院に駆け込む。 
そして、日本語を喋らざるえなかった理由をマジに書きます。 
では。 
以下、緊迫の次号を待て!!