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 日本学研究室

 

 


 復刊!日の丸漂流 通信



  かつて、「日の丸漂流通信」というニューズレターがひっそりと配られていた。 ひょんなことから「日の丸返還の旅」にでることになった経過を追うこのビラは、かつての戦争にまつわるの<複数>の物語の断片を、我々の前に提示する。そこかしこに隠れファンを生んだ伝説のビラの全貌がいま明かになる!いきなりの全文公開!

「日の丸漂流通信」
 創刊号
 第2号
 第3号
 第4号

[  日 の 丸  漂 泊 ] 通 信 創刊号                        2000.3.21   

◇ 創刊のことば・・・・・・・・・・・・・・・・

 あなたは日の丸をもっていますか。誰かもっている人を知っていますか。  今年の2月10日、実家のある福島県会津田島町に行った。翌日は「建国記念日」だった。我が家では、日の丸がないのだろうか、父も母も立てることはなかった。朝、雪道を歩いて、田島駅から会津若松市に電車で行った。七日町駅で降りて、町並みを抜け、鶴が城の近くにある、福島県立博物館に歩いて行った。シンポジウム「民俗の中の『性』」に、 吉晴・松沢呉一とともに出ることになっていたのである。  街路を歩いている途中で、けっこう注意して見ていたが、日の丸を揚げている家はほとんどなかった。わずか二軒だけだった。古くからの漆器屋、それにもう一軒、なんの店だっ かは忘れたが、老舗風の店構えをしている家であった。昨年、君が代・日の丸法が制定され、高校の卒業式ではその成果がやや鳴り物入りで報じられているが、世間ではこんなものなのである。  昨年、この日の丸をめぐって、自殺者まで出たことは記憶に新しい。それは、私ばかりでなく、戦前、教育勅語との関わりで、自殺者や殉職者を出したことを想起させられた人も多かったのではなかろうか。日の丸の呪縛とでもいうのだろうか、敗戦後、50年以上をすでに経た今でもなお、日の丸に象徴されるものの幻影に脅かされている、あるいは右往左往していると思われるのだ。その幻影を生みだしているのは、国家、ナショナリティということになるのだろうか。  さて、前置きはこのくらいにして、このたび、[日の丸漂泊]通信と題して、ささやかなニュースレターを発行することにした。その経緯を簡潔に記しておこう。  日の丸なぞにはまったくといっていいほど無縁だった。そんな私の手元に、今、二枚の日の丸がある。かつて日本兵士のものであり、旧イギリス兵士が所持していたものである。 二枚の日の丸をもとの所有者、あるいはその遺族に返すよう依頼された。その詳しい経過については、別のところに譲り、ここでは省略する。日の丸返還は、現在、進行中なのであるが、今のところかなりむずかしいことが予想される。というより、少なからず頓挫している状況にある。  日の丸には、多くの名前などが寄せ書きされている。しかし、居住地を割り出す手がかりはほとんどない。それでも、やはり戦死者の遺族、あるいは戦地からの帰還者に返却したいと考えている。この困難であろう道のりの実況を報じるとともに、いわば備忘録として手控えておきたいと考え、ニュースレターの発信を思いついた。また、私(たち)の手に余ることであり、既知、また未知の人びとからの御協力も仰ぎたいと思ってのことでもある。

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 そればかりでなく、この日の丸に引き込まれたことを切っ掛けにして、日の丸返却を試行していくなかから、浮上してくる、あるいは出会うことになるかもしれない、さまざまな事柄を提示する場として また日の丸とそれに関わる事柄について議論する場として設定したい。偶然にも、この4月から始めることにしている、「宗教と社会」学会のプロジェクト「戦死者のゆくえ」でも、ひとつのテーマとして提起したいと考えている。
 この二枚の日の丸は陸路・海路、さらには空路を経て、漂流してきた。今、仮に私のもとに漂着しているが、戦中・戦後の時空間を行方定まらずに、いわば漂泊を余儀なくされてきたのである。ここに、日の丸の、またそれを携えて戦場に行った兵士・戦死者、それを所持することになったイギリス軍兵士たちの数奇な巡り合わせ、宿命めいたものを覚えざるをえない。
 それとともに、この日の丸のたどった歴史的な経路のうちにこそ、戦場・戦争の過去を呼び戻し、その語りを再考する契機をみいだし、文化・政治の現在の一端に関わらせることのできるテーマに出会うことになるのではなかろうか。
(川村邦光)



日の丸の漂流と漂着・・・・・・・・・・・・・・
   
 院生の畑中さんから、イギリスの日の丸について話を聞いたのは、いつのことだったのか、もうすでに忘れてしまっている。2月7日あたりではなかったろうか。このような次第であることも、先には記さなかったが、この「通信」を出そうと思った、ひとつの理由である。
 それはともかくとして、畑中さんのイギリス赴任している父親が2月に一枚の寄せ書きのある日の丸をもたらした。1944年、当時のことばでいえば日本帝国の陸軍がインパール作戦(連合軍ではなんと言うのだろうか)を敢行し、無惨に敗北した。13万人の将兵のうち、3万人が戦死し、2万人が病気に倒れたとされる。イギリス軍とインド軍は勝利した。
そのイギリス軍兵士が日本兵士から日の丸を手に入れたという。
 このイギリス軍兵士は昨年のいつ頃か分からないが死去した。その子息が父親の遺言によって、この日の丸を日本に返却したいと、畑中さんの父親に伝えられたようである。畑中さんは父親から、この日の丸のかつての持ち主、あるいはその遺族を探すことを託され日の丸が送られてきた。
 この日の丸には、「必勝」と旗の上部中央に大きく墨で記され、右側に出征兵士の名 「常田克治君」、その下に、この人が関わっていたと思われる「兵庫県漁業組合聯合会」と記されている。畑中さんは兵庫県漁業組合に電話で連絡して、「常田克治」という人を探してもらおうとしたが、無駄であったようである。その辺のことについては、畑中さんに次号で報告してもらおう。
 そして、日本学の研究室で、どのような話の流れのなかからであったのか忘れてしまったが、先の記したような、日本兵士の日の丸の持ち主を探していることが話題になった。そこで、私が(あるいは皆で)探してみようとということになり、その方法を話し合い、靖国神社に照会してみるのが手っ取り早いということで、私が靖国神社に手紙を書いてみることになった。これもはっきりとした日にちは忘れたが、2月14日あたりではなかっただろうか。
 私(たち)は、当然のこととして、この日の丸の持ち主がすでに戦死し、靖国神社にいわゆる?英霊?として祀られていると思い込んでいた。この兵士は出征式で寄せ書きを送られた日の丸を背嚢に入れて、肌身離さずに、戦場に行き、戦死して、イギリス兵士がおそらく戦利品として、あるいは戦争の記念として、自国に持ち帰ったものと推測していたのである。
 また、気安く探してみようと思ったのは、靖国神社で分からなくても、「常田」という姓はかなり珍しく、一定の地域に「常田」姓の人が集注して住んでいると推測し、「兵庫県漁業組合聯合会」とあり、兵庫県内の漁業組合に尋ねれば、分かるだろうと考えたからである。
 2月9日あたりに、靖国神社に手紙を出した。14日に靖国神社の神官から電話があった。「御祭神」のなかには「常田克治」という名は見当たらないとのことであった。これには大いに驚かされてしまった。「常田克治」は戦死したのではなかったのである。ややもすると、まだ存命かもしれないのだ。とはいえ、どのようにして探せばいいのか。
 靖国神社の神官には、お礼を言い、少なくとももう一枚の日の丸がイギリスから送られてくるかもしれないので、その際にもお願いしますと伝えた。在イギリスの畑中さんの父親は、さらにいく枚かの日の丸が届けられてきそうであることを畑中さんに伝えていたのである。この靖国神社の神官の話を畑中さんなどに伝えたのは、15日だったろうか。
 二枚目の日の丸を私が預かったのは、21日である。そして、また再び靖国神社に問い合せた。この日の丸は、畑中さんの父親の務めている会社の従業員、Martin Slogget氏の父親、Alfred Leonard George Sloggetという、元英国陸軍の軍人がこの1月に88歳で 亡くなり、子息に遺言して、返却を託したとのことである。
 畑中さんの父親がMartinさんに、日の丸の由来を尋ねたところ、子どもの頃に父親から見せてもらった記憶はあるものの、1946年にビルマからもってきたという以外には、詳しいことは聞かされていなかったとのことである。
 この日の丸には、「祈武運長久」「祝出征 山村武雄君」と記され、多くの寄せ書きが ある。先の日の丸と比べて、どこに住んでいた人なのか、手がかりはまったくない。かつての持ち主を探しだすのはきわめてむずかしいことが予想される。
 3月2日、靖国神社の神官から電話があった。出かけていたため、直接、電話に出ることはできなかった。この「山村武雄」という名の「御祭神」は、4名いるとのことであった。なんと、同姓同名の戦死者が4名もいたのである。これにも少なからず驚かされた。「御祭神」も奇しき宿命に驚き、戸惑ったのではなかろうか。
 靖国神社社務所から伝えられた、「山村武雄命」の住所などはつぎの通りである。プライバシーに触れないところまであげておこう。  


○階級・陸軍兵長、所属部隊・線86部隊、
死没年月日・昭和19年10月19日(戦病死)
死没場所・中華民国、死没時本籍地・北海道厚岸郡
合祀年月日・昭和23年5月5日

○階級・陸軍兵長、所属部隊・記載なし
死没年月日・昭和19年6月8日(戦死)
死没場所・ビルマ、死没時本籍地・大阪市南区高津(大阪市
瓦屋町)
合祀年月日・昭和30年4月21日  

○階級・海軍一等機関兵曹(勲七功六)
所属部隊・第752海軍航空隊、
死没年月日・昭和19年2月6日(戦死)
死没場所・南洋群島ルオツト島、死没時本籍地・愛媛県北宇和
郡吉田町、合祀年月日・昭和27年10月9日

○階級・陸軍兵長、所属部隊・遊撃第二中隊(勢1783)
死没年月日・昭和20年3月21日(戦死)
死没場所・モロタイ島、死没時本籍地・台湾新竹州竹東
郡蕃地タイヤカン社
合祀年月日・昭和35年10月17日  

以上が4名の「山村武雄」である。  4人目の「山村武雄」は台湾出身である。父の名はヤグノミンという。台湾原住民であり、皇民化政策のもとで、1940年に始められた改姓名運動において、この日本名を名乗ったのであろう。この4名の「山村武雄」のうち、ビルマで戦死したのは、大阪市の人である。はたして遺族はいるのだろうか。遺族の名としては、母親の名が記されている。すでにこの遺族の居住地は変わっているかもしれない。住所は近くにある、近日中に、日の丸を持参して、尋ねてみよう。  私のもとに漂着した二枚の日の丸は、これからどのような漂泊の旅をしていくのか、私には予想もつかないが、皆さんの御協力をえながら、この日の丸の行方を追っていきたい。 田克治」と「山村武雄」の日の丸に関する情報をぜひとも寄せていただきたい。また、戦死者、戦場、戦争などをめぐるエッセイも寄せていただきたい。(川村邦光)



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