google
 yahoo! japan
 日本学研究室

 

 

日の丸漂流通信 その2
創刊/2/



 [ 日 の 丸  漂 泊 ] 通 信  第2号  2000.4.10


 □ 日の丸 ACTIVITY・・・・・・・・・・・・・・

 桜の花が咲き始めました。もう花見はしましたか。
 7日に、研究室恒例の花見をしました。天理大にいたときは、新入生歓迎を兼ねて、石 上神宮で花見をしていました。露店が出て、提灯がぶら下り、いかにも花見といった雰囲気でした。
 大阪大では構内に桜の樹がけっこうあります。我が研究室では去る者はほとんどなく、新しく 幾人かの新入生を迎えました。研究棟の前に茣蓙を敷いて、陽気のいい、春爛漫といった風情のな か、桜に日の丸、そんな取り合せの光景があったのだろうかなどと想像しながら、桜の樹のもとでしばし憩いました。

 [日の丸漂泊]通信(創刊号)は、皆さんの多大なご支援のもと、絶大とまではいかなくても、しっかりと 地についた反響を呼んでいます。第2号を出す気力が湧いてきました。予定よりも早く出すことになりまし た。阪大日本学の研究室では、少々大げさですが、式や卒業式、祝日ではこうだった、ああだったと、日の丸君が代 の記憶や思い出、我が町・村での日の丸掲揚の情況などに関する話でもちきりです。
 意外や、日の丸は記憶を立ち上げ構成していくうえで結節点のようなものになっていることに、驚かされています。 コーヒーの香やら、ワインの味わいやらのなかで喚起されてくる日の丸の記憶を、私は左顧右眄/右顧左眄しつつ 聞いていました。皆さんの日の丸の記憶、もしくは思い出を聞かせてください。
 今回は、前号とやや重複しますが、『読売新聞』3月11日夕刊(東京版)に掲載された川村の記事をあげておき ます。3月14日、この記事を読んだ東京都大田区のある女性が「常田克治」氏の住所と電話番号を知らせてくれま した。息子さんが調べたそうです。この方が電話したところ、誰もでなかったとのことです。私も昼と夜、電話して みましたが、同じでした。この女性から、手紙をいただきました(3月22日、落手)。

 強力な支援者として、読売新聞社の永井さんが『読売新聞』3月19日朝刊(大阪版)のコラム「今日のノート」に「 日の丸漂泊」と題して執筆してくれました。これもまた、中身がかなり重複していますが、載せることにします。そし て、3月31日、畑中さん、永井さんとともに、神戸市東灘区本山南町と大阪市中央区瓦屋町を訪ねた経過を報告した いと思います。 (川村邦光)


 ◇漂泊する日の丸・・・・・・・・・・・・・・川村邦光
[『読売新聞』3月11日夕刊(東京版)]

 卒業式の季節だが、日の丸がトピックになっている。なんとはなく、奇妙な感慨にとらわれている。 というのも、私の手元には、今、二枚の日の丸があるからである。別に、日の丸を収集しているわ でも、祝日に国旗掲揚を盛大にやっているわけでもない。どちらもイギリスから送られてきたものである。

 詳しい経緯は省くが、インパール作戦とビルマ戦線を戦った日本兵士のもので、二人のイギリス人兵 士が所持していたのである。現在、二人とも死去し、その子息が父親から遺族に返すように遺言され、 海を渡って、大阪大学の院生を経由し、私のもとに一時漂着している。そして、帰還すべき所を探してい るといった次第である。
 一枚目の日の丸には、「必勝」、兵士の名「常田克治」、それにこの人が関わっていたと思われる「兵庫 県漁業組合聯合会」と記されている。一三万人の将兵のうち、三万人が戦死し、二万人が病気に倒れた、インパ ール作戦ですでに戦死したと思い、靖国神社に照会して、住所を調べてもらうことにした。すると、この人の 名は「御祭神」として見当たらないとのことであった。これには院生ともども、私も本当に驚いてしまったと ともに、ほっとした安堵感めいた気持ちが沸き上がってきた。というのも、イギリス人兵士の手に渡ったの は戦死の他には考えられず、またこの日の丸には血痕と思われる薄い焦げ茶色の染みが広がっていたからであ る。この日の丸には、近親者や親戚と思われる「常田」姓の人の寄せ書きが多くある。どちらかといえば珍し い姓であり、探しやすいと思っている。兵庫県のどこかに、この持ち主が今でも存命ではないかと予期している。
 もう一枚の日の丸は、最近、送られてきた。「祈武運長久」「祝出征 山村武雄君」と 記されている。これも 靖国神社に問い合せてみた。なんと同姓同名の人が四名もいるとのことで、これにも驚かされ、住所(死没時本籍 地)を送っていただいた。北海道、大阪市、そして台湾である。この台湾の「山村武雄」は台湾原住民で、皇民化政 策のもとで、日本人名を名乗った人と推測される。この四名のうち、大阪市の人がビルマで戦死している。遺族の所在 地はすでに変わっているかもしれないが、戦死者はせめてもの形見として日の丸の帰還を望んでいると憶測して、住所 を頼りにして訪ねてみよう。
 いくつもの陸上・海上の道や空路をはるばると渡り、今なおさまよっている兵士・戦死者の日の丸、そこには戦 中・戦後、そして現在と日本がたどってきた経路が不可視ながらも刻み込まれていよう。それは、この国だけではす ますことのできない、国境を越えた戦場・戦争の記憶、日の丸の血痕のように深々と染み込んだ、拭いさることので ない歴史の記憶なのではなかろうか。私は日の丸の持ち主を探しながら、この歴史の記憶をたどるために、二枚の日 の丸とともに漂泊の旅をしてみようと考えている。    (川村邦光)



 □日の丸漂泊・・・・・・・・・・・・・・・永井芳和
[『読売新聞』3月19日朝刊(大阪版)]

 民俗学者で大阪大学教授の川村邦光さんから、二枚の日の丸を見せても らった。いずれも第二次大戦中、日本兵が持っていたもので、二人のイギリス兵が 持ち帰り、長く英国にあったが、彼らが遺族への返還を遺言して死亡、その息子が川村さ んの教え子に託したのだ。
 最初のは「必勝」や所持者の名前「常田克治」に、「兵庫県漁業組合聯合会」の文 字と「常田」姓の多くの寄せ書きがあり、インド東部のインパール作戦に参加したら しい。二枚目は「祈武運長久」「祝出征山村武雄君」と書かれ、ビルマ戦線にいたとみられる。

 川村さんと教え子の大学院生が靖国神社などで調べた結果、「常田」さんは同神社の 「御祭神」にはなく、兵庫県漁協でも該当者はいなかったという。しかし、「山村武雄」さん と同姓同名は「御祭神」に四人あり、本籍地を大阪市南区(現中央区)高津としていた人がビ ルマで戦死していた。「二枚の日の丸は陸路・海路、さらには空路を経て、漂流してきた。今 、仮に私のもとに漂着しているが、戦中・戦後の時空間を行方定まらずに、いわば漂泊を余儀 なくされてきたのである」と、川村さんはこうした経過を伝えるため創刊したニュースレター 「日の丸漂泊通信」に書いている。

 今後、川村さんらは戦前とはすっかり姿を変えてしまった大阪・高津の町を訪ねるなどして、 日の丸返還の旅を続ける一方、二人の元兵士についての情報も広く得たいとしている。

 いまは卒業式、そして、四月は入学式のシーズンである。国旗・国歌法が成立して初めて迎える 卒業式、入学式だけにその掲揚や斉唱をめぐり、さまざまに論議されている。しかし、こんな日の丸 がいまだ漂泊していることも、しっかり子供たちに語り継いでいきたい。




◇日の丸 FIELDWORK ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 3月31日、永井さんと川村は阪急梅田駅ホームで待ち合わせ、畑中さんの待つ、阪急岡本駅に 降り立った。三人で小雨降るなか、タクシーで、第一本山住宅に向かった。真新しい建物が多く、 建築中の高層住宅もあった。あの地震で多くの建物が倒壊したことが推測された。目指す所はすぐみつ かった。不在ではあったが、確かに「常田克治」の表札がある。この棟の住人・自治会長に聞くと、息 子さんが暮らし、常田克治氏は福井県三方郡の実家に移っているとのことであり、電話番号を教えても らった。無事、一枚の日の丸は帰るべき行き先がみつかった。タクシーを拾い、岡本駅に向かった。運転手 は山裾のJRの西側は無事だっだったが、阪急側はほとんどすべて壊滅し、多くの死者を出したと話してくれた。

 梅田に出て、コーヒー店で休憩。雨の降るなか、タクシーで瓦屋町に向かった。地図には目指す 一丁目16という番地はないが、とりあえず14番地あたりまで行ってみることにした。まず眼にした 倉橋写真館に立ち寄ってみた。写真館は昔から営業していて、町内の事情に明るいと推測したからである 。また、ややもすると、出征式の際に、記念写真を撮っているかもしれないと思ったのである。7、8人の 社員がいて、手広く営業をしているようで、新しい写真館かと思ったが、そうではなかった。やや古い地図を 持ち出してくれて、該当地を探してもらったが、わからなかった。年配の主人(社長)が出てきて、戦前の町内 のことを知ってると思われる、別院さんというかたを教えてもらった。

 米屋を営んでいる別院さんは、70代くらいであろうか。山村さんのことは記憶になかっめ、知り合いの人 に電話で尋ねられた。息子を戦争で亡くした女性である。この人が山村さんのことを覚えていた。戦前、山村 さんの母は娘たちとともに、たしかに瓦屋町に住んでいた。いつの頃か、結婚した娘さんと布施のほうに移転 していたが、住所を聞くことができた。山村武雄氏の母は72、3歳で亡くなったとのである。これまた、予想 外の大変な成果である。二枚目の?日の丸?も長い漂泊の旅を終えて、ようやく帰還できそうである。我々一行三名 は、焼酎の「薩摩」におもむき、盃を重ねた。

 4月3日、福井県三方郡の常田さん宅に電話をした。常田克治さん本人が出られた。神戸の住宅の自治会長 のほうから、私たちが訪れたことを連絡されていたが、常田さんは日の丸にほとんど記憶がないとのことであ った。常田さんにとっては、日の丸は戦争の記憶を喚起するよすがとはならなかったようである。日の丸は戦場 での体験ほどにはなんら意味をもたなかったのであろうか。おそらく戦地に持参したであろう日の丸について、 思い巡らしたであろう。しかし、日の丸は思い出となって、立ち現われてはこなかった。寄せ書きのされた日の丸 を記憶として結晶させることなく、忘れ去ることができるのである。あるいは、どこかに封じ込めてしまうこと ができるのだ。これまで日の丸は過剰な意味付けをされ過ぎてしまっているのだろう。

 常田さんは、戦争中にビルマとインドの国境あたりにいましたかという私の質問に対して、どのような経路を たどって戦地へとおもむき帰還したのかについて、簡潔に話してくれた。昭和18年3月、これまで勤めていた 「兵庫県漁業組合聯合会」を退職し、4月に本籍地のある敦賀の部隊に入隊する。幹部候補生、見習士官となる 。京都、敦賀の部隊は三重県の部隊と混成の連隊を編成することになり、三重県久居町に転属する。

 この年の12月に少尉として、南方戦線に出征した。しかし、途中でビルマ戦線に変更され、シンガポール に停泊して、ビルマに向かった。インパール作戦を戦ったのだろう。昭和21年6月、日本に帰還した。以上の ようなことを電話で聞いた。常田さんの奥さんも電話口に出られ、震災のために神戸からは離れてしまったが、 仕事などの都合上、神戸とはけっこう行き来しているなどと話され、住所を教えてもらった。ぜひ訪ねてきてほ しいとのことであり、訪問を約して、話を終えた。近々、常田さん宅を訪ねてみるつもりである。次号、詳しい 報告を待たれたい。 
(川村邦光・畑中小百合)

創刊/2/

   
     このページのトップへ