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日本学研究室
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「日の丸漂流通信」その4
創刊/2/3/4
[ 日 の 丸 漂 泊 ] 通 信 第4号 2000.6.21
□ 日の丸 ACTIVITY・・・・・・・・・・・・
日の丸とともに旅立って、はや四ヵ月というところです。5月13日、永井さ ん、畑中さんともども、常田さんの日の丸を携えて、福井県三方郡三方町の常田さ ん宅を訪れ、日の丸を返してきました。熱烈歓迎といった風で、なにやら照れ臭い
感じでした。ともあれ、日の丸?のことや戦闘のことなどの話をうかがいました。こ こでは簡潔にこの日のことを記し、次号で詳しく報告したいと思います。また、常田さ
んが作成した戦闘の覚え書きを載せておきます。
[戦死者のゆくえ]第1回 研究会を5月26日(金)午後4時30分から、予定時間を超えて、7時過ぎまで行 ないました。遠方からも多くの方々が参集し、会場の教室は40名を超えて一杯になりま
した。もう少しというよりも、大いに時間をたっぷりととって、余裕のある発表や質疑応
答・討論の時間を設けるべきだったと反省しています。
川村が司会となって開会の 挨拶をし、「戦死者とは誰か・・・若干の問題提起」と題して話しました。コメントを中 村生雄さんがしました。ついで、丸山泰明さんが「戦死者と近代スピリチュアリズム」と
題して話しました。コメントは川村がしました。この研究会の発表要旨やコメント、討論な
どに関する記録は、いずれ出す予定にしています。(川村邦光)
□日の丸 FIELDWORK ・・・・・・・・・・・・・・
5月13日、福井県三方郡三方町を目指して、雷鳥15号に乗り込んだ。1時間足らずで 、敦賀に到着。小浜線に乗り換え、隠れて見えない原発のある半島、水面のキラキラと光り輝
いている三方五湖、山裾に咲き乱れている奥床しい藤の花を眺めながら、藤井駅に着いた。駅 には、常田さんの息子夫婦が出迎えにきていた。
常田宅で、常田さんに初対面した。 現在、78歳。温和な面差しで迎えていただいた。書道に精進されているとのことで、背筋を 正した姿勢で矍鑠としている。床の間には、常田さんの達筆な書が三幅かけられていた。常田
さんの風貌には、かつての帝国陸軍軍人という言葉から喚起される面影をうかがうことはきわ めてむずかしい。
常田さんの奥さん、息子夫婦、常田さんの奥さんの妹夫婦、別の妹の 息子が集まられている。まずは常田さんに日の丸をお返しした。テーブルのうえに日の丸を広 げると、常田さんは寄せ書きの名前を懐かしそうに説明された。
「兵庫縣漁業組合聯合会」 の脇に記されている名前は、会長や専務などであった。常田さんが卒業した水産学校の先輩にな る人もいました。神戸で召集令状を受け取った時、?日の丸?に寄せ書きをしてもらったとのことで
ある。本籍地の三方町に帰り、さらに近隣の人びとに寄せ書きをしてもらっている。いく人かの 名を指差して、生死を確かめながら懐かしげに振り返っていた。
常田さんはビルマでの戦闘 を思い返そうと、筆を執られ、冊子に覚え書きを作成していた。これを参考にしながら、常田さ んの戦争体験を話していただいた。どこで戦っているのか、皆目わからないような状況のなかで、
戦闘と撤退を暗中模索の状態で続けていたという。
日の丸をどこでなくしたのかは、やは りはっきりとした記憶が甦らなかったようである。だが、思い当たるのは、7人で斥候に出ていた 際、塹壕に篭もっていると、イギリス兵が歩いているのを目撃し、それに驚いたある兵士か銃を発
射すると、イギリス兵が最新機銃を乱射したため、皆で急いで撤退した。そのとき、塹壕のなかに カバンを置いてきてしまったらしい。そのなかに?日の丸?が入っていたと思われるとのことである。
それ以降、日の丸のことはまったく忘れてしまったようである。塹壕に置いてきたカバンをイギ リス兵が拾い、日の丸を本国まで持ち帰ったと思われる。軍旗は別にして、国旗を戦場に携
えて行ったのは日本兵だけだったのだろうか。
また、千人針についても話していただいた。 千人針は母親が近所の人びとに頼んで作ってもらい、腹巻にして、戦地へと出かけている。ビルマで 、列車によって移動中、アメーバ赤痢にかかり、ひどい下痢となり、列車の運転中に戸を開けながら
、便をしている最中に、飛ばしてしまったという。そして、食事をいただき、ビールや泡盛「瑞泉」を 飲みながら、戦争中のこと、戦後に学校の教師となり、その後、缶詰会社に就職した話などをうかがった。
藤井駅の隣 の三方にある「吉村館」に宿をとり、近辺を少し散策した。昭和初期頃に建てられたと思われる洋風の 建物があり、今では物置になってしまっているが、かつて公民館として使用されていたようだ。少し
歩いていくと、山道めいた道が山のほうにつづいている。登っていくと、車が降りてきて、参拝時間は 終わったといったことを告げられた。 爽やかな渓流があり、太い樹木が立っている。かなり由緒のあ
る名刹かと推測された。朱に塗ったお稲荷さんの鳥居の前に、山形の大きな岩があり、そのうえに鶏の 石像が乗っている。岩には「妙法」と彫られている。これは「妙法石」、また「鶏鳴石」ともいうそう
である。さらに登っていくと、苔蒸した石段があり、上にはお堂がある。なかなか風格のあるお堂である 。ここは「三方石観世音」という。
寺のパンフレットによると、弘法大師が一夜で彫っ たという「弘法大師一夜の御作」の石観世音を本尊としている。夜中にこの観音像を彫っていると、鶏の 鳴き声が聞こえたため、右手首より先を残して、弘法大師は下山したという。それにちなんで、手足の病は
もとより、諸病に霊験あらたかな観音様として信仰されているとのことである。秘仏で、三三年ごとに御開 帳という。本堂の右手には、「御手足堂」がある。おびただしい手型・足型がお堂内にうずたかく溢れてい
る。どうしたわけか、檻のなかに猿が飼われていた。
翌朝、本堂にお参りした後、今年の4月に 開館したばかりの三方町縄文博物館(DOKIDOKI館)に行った。館長は梅原猛。三方湖畔から出 土した、丸木舟と漆塗りの櫛がここのメインの展示物のようであるが、長野の茅野市などの縄文土器や
そのレプリカが数多く薄暗くしたケースのなかに展示されていた。見晴らしのいい湖を借景にして、大きな土饅 頭、あるいは円墳のような、土盛りの上に、コンクリートの塔が三基ほど建っているといった、博物館の景
観である。そして、敦賀の気比神宮を参拝して、帰路についた。(川村邦光)
□日の丸 DOCUMENT・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◇常田克治「ビルマ戦線 従軍の回想」
昭和十九年四月から、二十年六月ごろまで、戦斗に参加した。 昭和二十年六月ごろから、二十一年七月ごろまで、タイ 国のバンコク陸軍病院、佛印のサイゴン陸軍病院に、マラリヤ熱と脚気坐骨神経痛等の病気のため入院した。
二十一年 七月ごろ病院船で、サイゴン港を出航し、内地へ帰還、広島県大竹港に上陸、国立陸軍病院に入院した。 (今から五十三、四 年前のことである)ビルマ国で、思い出す地名は、モールメン、ラングーン、トング、ヤメセン、メイクテー
マンダレー、 カーサ、バーモ、モウガン、ミイトキーナ等の都市や集落、サルウィン河、シッタン河、イラワジ河、およびフーコン谷地で ある。(インド国では、インパール)(中国では雲南)
当時は、完全な敵の制空権のもとにあって、一発の弾も、一粒の米 の補給も受けることなく、新鋭装備の、十数倍の敵と、アメーバ赤痢や、マラリヤ等の悪疫と対決せざるを得ない戦場に投入された。
京都第五十三師団(安兵団)は、一、両年前に、インパールに向かって進攻した。祭兵団、菊兵団等の友軍が撤退するための援護 作戦に参加した。
歩兵第百十九聯隊(敦賀)、第百二十八聯隊(京都)、歩兵第百五十一聯隊(三重県久居町) 聯隊 長橋本熊五郎大佐、その他で編成された。私は、第百五十一聯隊の第一中隊(中隊長加藤中尉)第三小隊長(少尉)で、下士官(
下士官、伍長)兵長、上等兵、一 等兵、二等兵等合せて六十名ほどで編成されていた。
昭和十九年四月二十九日、ビル マ国モールメンで、天皇誕生日を祝して、間もなく、マンダレ方面に向かって進行した。同年五月ごろ、中隊(小隊)がジャ ングル地帯で一時駐留していた時に、師団(兵団)の参謀から、私以下下士官(伍長)と兵五名に対し、斥候として、ある山
(五〇〇米位の高さの山)の頂上で、その山の向う側に集結しつつある敵の動静を監視するように命ぜられた。
○散開してごうを掘った。
○数 日後、数名の英国兵が眼の前十数米位を歩いているのを見た。(午前八時ごろ)
○それを見た兵隊の一人がおどろいて発砲した。 ○英国兵が口々何か叫び合いながら山をかけ降りていき、間もなく、山の下から砲弾が飛来しだしたので、身の危険を感じ、部下に
下山を命じ、取る物も取りあえず山をかけ降りた。
○その後、師団(兵団)参謀に、その状況を報告し、中隊に復帰した。
(つぎのような略図が描かれている。「車道」があり、山の方向に「小川」と道がつづき、山頂近くに塹壕を表わす黒丸が七つ記さ
れ、山の向うに「敵が集結している方向」と矢印とともに記されている。川村、注)
昭和十九年八月ごろ、深夜ジャングル内湿地帯を敵の包囲網を突破中、私は右手首に貫通銃創を負い、突破後、野戦病院から後送 され、ラングーン陸軍病院で治療を受け、十一月ごろ退院して、原隊に復帰した。昭和十九年六月ごろから、北ビルマ方面の作戦に、
いきなり投入され、作戦も地名も知らぬまま、激戦につぐ、転戦で内地から持っていった武器も装具類もみななくなって着のみ着の
まま、最後には竹やりを使うまでのみじめさであった。
敗戦後、復員して、五十三、四年経つ現在、ビルマ戦線で遭遇したいろいろのことはほとんどすっかり忘れてしまい、思い出すこ
ともない次第である。
創刊/2/3/4
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