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 日本学研究室

 

 


004/テレビ



『いきなり!黄金伝説。』の観方
―「アウトサイダー・アート」、<空想空間 visionary environment>、そして「汚宅」―

            シロート・テレヴィ=ストロース a.k.a.イトウユウ
 

  『いきなり!黄金伝説。』(テレビ朝日系毎週木曜)をビデオに録って観ている。現在メインコーナーになっている「いきなり!汚宅訪問。」が面白いのだ、実に。「汚宅」というのは、いわゆる「ゴミ屋敷」で、家屋内はもちろん、庭や駐車場、果ては屋根の上や敷地の外にまで「ゴミ」で溢れかえっている空間のこと。30トン近い「ゴミ」を溜め込んでいることもある。番組は、全国の「汚宅」に出向き、そこの家主に「ゴミ」を片付けさせてもらうよう交渉する過程を描く。交渉は決裂することもあるし、成功することもある。

 コーナーの主役はしかし、「汚宅」そのものではなく、家主で、番組は、彼らを、偏屈人間・地域の変人として描いている。顔にモザイクがかけられていることは見逃してはならないだろう。彼らは、大抵一人暮しで、近隣住民には毛嫌いされているが、「汚宅」は、嫌われる直接の原因というより、変人の象徴としてあるようにみえる。家主の、地域における異質性(とその先にある排除志向)は、近隣住民のインタヴューにしばしば(ほんとにしばしば)登場する、「汚宅」に対する異臭性と危険性への言及に表れる。実際臭かったり危険だったりするかは別にして、これらは、何かを排除しようとする際登場する最もスタンダードな言説のひとつであるという意味で、興味深い。

 「汚宅」は、異質性の象徴である。それ故、「ゴミ」が片付けられることによって、家主の抱える問題も解決される、というのがこの番組の隠れた構造だ。注目すべきは、そこでクローズアップされる「問題」が、かつて一緒に暮していた家族の話に回収されるということである。生き別れた子供や、死に別れた妻との関係性の未整理が、「ゴミ」の堆積という形をとっているというわけだ。2003年3月現在番組HP【註1】にアップされている過去21事例のうち、最後まで片付けることのできた6件すべてのケースで、家族の物語に触れられ、そこにこの構造がはめ込まれている。例えば、こんな話。
  「周辺住民の話によると、家主は一時期、酒を飲んで暴れだすという日々が続き、たまりかねた奥さんが子供を連れて家を出て行ったらしい。酒に溺れ、ゴミをため込むような生活が、一家離散を招いたのだ。今こうして懸命にゴミを片付けているのは、罪の意識を感じてのことなのだろうか。」
                (2003年2月13日OA回。番組HPより。)  
  余談だが、こうした構造は、「家族の問題」が家のリフォームによって解決するという前提で番組が作られている、同じテレ朝系の『大改造!!劇的ビフォーアフター』(毎週日曜)のそれと同じである。
 

  一方、片付けられることが家主に断固として拒絶される「汚宅」は、片付けが、家主に感謝されるそれとは明らかに異なった存在である。
 このケースの「汚宅」は、ぼくに、「アウトサイダー・アート」と呼ばれているもの、さらに言えば「ヴィジョナリー・エンヴァイロンメント」というものを思い出させる。正直言えば、その連想が頭から離れないがために、ぼくはこの番組を観続けているのだ。【註2】 「アウトサイダー・アート」というのは、極めて乱暴にまとめれば、西洋が長い時間かけて作り上げてきた「芸術」(特に「近代美術」)の概念から逸脱するものが再評価され提示された「作品」の一群で、そこではしばしば“真のアウトサイダー・アーティスト”として精神病患者や知的障害者が想定される。最近では、「エイブルアート」とも呼ばれて、「内側に収まりきらない奔放さ、自由さの表現」(服部正1998「他者のまなざしから内側へ−「アウトサイダー・アート」の昨今」「ほとばしる表現力−『アウトサイダー・アート』の断面」展カタログ)として、あるいは「描くことの原点」(同カタログ「ごあいさつ」)が(無意識に)表現されたものとして、“健常者”にもてはやされている。ここには、ある種の本質主義が潜んでいると言えるが、それは、排除されるべき異質性という観念に対抗する、戦略的言説でもあろう。 「ヴィジョナリー・エンヴァイロンメントvisionary environment」――ここでは<空想空間>と訳したいが、これは、簡単に言ってしまえば、「アウトサイダー・アート」がしばしば、絵画や彫刻等、単体の平面・立体「作品」を指していたのに対し、それらを含めた環境的広がりをもった空間全体を指す。具体的には、家屋等の建造物や庭園等であるが、「アウトサイダー・アート」がそうであるように、その創造主は大抵、正式な美術教育を受けていない。しかもそれは、たった一人の人間が、ほとんどの人生を賭けて作り続けることを強いられた結果なのである。有名なものとしては、フランスの郵便配達夫フェルディナン・シュヴァル(1836〜1924)の「理想宮」がある。これは、ある時拾った奇妙な形の石ころにインスピレイションを受けたシュヴァルが、似たような石をコツコツと集め、それを、ほとんど一人で「宮殿」として積み上げてしまったものだ。この作業に彼は結局、死ぬまでの33年間を費やした。【註3】


 Deidi von Schaewen, John Maizels 1999『Mondes imaginaires』(TASCEN)は、<空想空間>103例を紹介した写真集【註4】だが、「Introduction」を書いたMaizelsによると、<空想空間>は、16〜17世紀頃貴族の間で流行した「グロッタ」――貝殻等で過剰に装飾した岩屋――の伝統が、「フォーク・アート」等を経てあるものと位置付けられている。こうした歴史的な捉え方は、しばしば本質主義的な形でなされていた「アウトサイダー・アート」一般の認識とは一線を画していると言えるだろう。
 もっとも、「グロッタ」を参照系とすることで、<空想空間>と言ったときの関心は、よりそのヴィジュアル的な奇妙さ、造形的な面白さに向けられることになった。
 しかしながら、<空想空間>、あるいは「アウトサイダー・アート」、さらには「汚宅」が、異様な迫力をもって我々に迫ってくるのは、「アウトサイダー」たちの内なる「ヴィジョン」そのものの奇妙さが原因なのであろうか?
 例えば、フリーデンスライヒ・フンデルトワッサー(1928〜2000)による有機的デザインの建築【註5】や、スペインの建築家アントニオ・ガウディ(1852〜1926)の割れたタイルをびっしり貼り付けた外観で知られる公園等は、確かに、ヴィジュアル的には<空想空間>を彷彿とさせる。実際、『Mondes imaginaires』の作者たちも、この2人を<空想空間>の創造主とみなしている。
 しかし、彼らと、その他の<空想空間>の創造主、あるいは「汚宅」家主には、ひとつの大きな違いがある。それは、前者が、空間全体の完成形を予測するデザイン能力に長けていたのに対し、後者は、目の前のひとつひとつの単純作業――小石を積み上げる、割れた陶器を延々と壁に貼り付ける…――にこそ、空間を作る意味を見出しているようにみえることである。重要なのは、そうした作業が延々と続けられていくことだ。<空想空間>に完成ということはあり得ない。常に未完成なのである。ガウディのサグラダ・ファミリアが唯一<空想空間>足り得ている理由はその威容ではなく、その未完成性にある。
 <空想空間>にみられる、執拗なまでの単純作業の反復の痕跡は、見るものにある種の眩暈を与える。それは、単純な繰返しによる<増殖感>の効果が引き起こす、「永遠」/「一瞬」が同化していく感覚である。そして、この感覚を感じている間だけ、ぼくは「時間」というものから解放されるのである。それは、同じビートのループによってトリップ感を与えてくれるクラブ・ミュージックの経験と似ている。
 このことは、「アウトサイダー・アート」にも言える。ここでも重要なのは、完成した(とされる)「作品」そのものではなく、モチーフの繰り返しや、色の塗り方といったところにみられる、作業の反復性である。
 しばしば行われるモチーフの繰り返しももはや「モチーフ」と言えない。それは、ほとんど自らの絵の模写と言っても過言ではないのだ。例えば、柴田貴子という「アウトサイダー・アーティスト」は、ほとんど同じにみえる「お母さん」の絵ばかりを延々描き続けている。
 彼らの色の塗り方に関して言えば、例えば、“インサイダー・アーティスト”なら太筆を使って塗り潰すような大画面を、極細のペンでチマチマと塗っていく。しかもその作業は、キャンバスをはみ出しても続けられたりするのだ。あるいは、同じ場所を、穴が開くまで塗り続ける。“インサイダー・アーティスト”たちにとって色を塗るという作業は、ひとつの作品を完成させるための作業過程でしかないが、「アウトサイダー・アーティスト」たちにとっては、ペンを動かしているその一瞬一瞬こそが、「絵を描く」ということの意味であるかのようである。【註6】


 「汚宅」は、<空想空間>なのである。

 誤解を恐れずに言えば、その家主にとって、敷地は自らの想像力を現出させるキャンバスなのであり、「いきなり!汚宅訪問。」で「ゴミ」といって捨てさせようとするものは、彼らにとっては「ゴミ」ではなく、装飾のための素材なのである。  「汚宅」を巡る排除勢力との攻防戦と同じようなことは、世界の名だたる<空想空間>を巡っても常に行われてきた。相手は、バツの悪い思いをしてきた親類縁者、近隣住民、そして行政(そういえば、「汚宅訪問。」でもしばしば市の職員が様子を見に来ていた。すぐ追い帰される役なのだが。)である。一方、そうした<空間>を保護しようという団体も存在する。いまや、行政が積極的に保護している例すらあると言う。そこにはもちろん、「アート」という概念の拡大が背景にあるのだろう。1000台もの壊れた自転車を、敷地内に溜め込んでしまった「汚宅」が登場する回で、近隣住民の一人がこんなことを言った。「最初見た時は、何かのオブジェかと思いました」。そこには、「オブジェ」つまり「アート作品」ならO.K.なんだけどさ、というニュアンスが込められている。いったい、世間はいつの間にこれほど「アート」に対して寛容になったのだろう?
 「汚宅」家主が片付けを拒否するのはしかし、それが「アート」として世間に認識される可能性を持っているからではないだろう。彼らにとって、その「汚宅」は常に「未完成」なのであり、それ故に、絶え間なく作り続ける――「ゴミ」を貯め込み続ける必要があるのだ。
 その長年の蓄積が、「汚宅」という形で存在している。しかもその家の「ゴミ」による“装飾”は、永遠に増殖していくであろう。そのことを考えると、ぼくは、時間という輪から足を踏み外したような眩暈を感じずにはいられない。




【註1】 『いきなり!黄金伝説。』の番組HPは http://www.tv-asahi.co.jp/cocorico/ 本文にもどる

【註2】 「ヴィジョナリー・エンヴァイロンメント」をd?含む「アウトサイダー・アート」については、例えば専門誌『RAW VISION』による同名のウェブサイト http://www.rawvision.com/を参照のこと。 本文にもどる

【註3】 シュヴァルについては、岡谷公二1992『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』(作品社)を参照のこと。河出文庫版もあり。  本文にもどる 

【註4】日本語訳されたダイジェスト版『エキセントリック・スタイル』 (ダイディ・フォン・シェーヴェン、アンゲリカ・タッシェン、 TASCHEN、2002)もあるが、原本と違って、各<空間>に解説文が 付いてないので、例えば、「タイガーバーム・ガーデン」として知ら れるAw Boon Hawによる香港とシンガポールの<空想空間>が戦中 の日本軍への怨みを色濃く反映している、といったことを知ること はできない。  本文にもどる

【註5】日本でみられるフンデルトワッサー建築のひとつが、大阪市舞洲 のゴミ焼却場であるというのは、なんだか皮肉なはなしである。 本文にもどる

【註6】「アウトサイダー・アーティスト」たちの作業風景は、『まひるの ほし』(佐藤真監督、1999)や『遠足』(五十嵐久美子監督、1999)と いったドキュメンタリー映画で観ることができる。
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(2003.3.31)

   
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