google
 yahoo! japan
 日本学研究室

 

 

012/演劇評



   「泣く」ことの可能性について 〜NODA・MAP「オイル」から〜


                               のだめぐみ
 


 2003年6月5日木曜日、夜の部。近鉄劇場において野田地図(NODA・MAP)「オイル」を観る。 お代は、9,000円。だいぶ高い・・・。けれどもすぐに、もとをとった!、と感じる。下敷きは、『古事記』の国譲りの話だという。ほとんど原型をとどめていない、そのお話の舞台は、島根(出雲)である。
 神話における国譲りの話とは、つまり国盗りの話のことであるとの解釈のもと、出雲を盗る必然性を、そこから噴き出すオイル(老いて、老いて、腐ったもの)に求めた。けれど舞台の中心は、1945年の夏、敗戦後の島根。占領軍と日本の民、征服者と被征服者という関係に、古代出雲の影が交錯し、時間軸を越えた大きなうねりの中に一つのメッセージを発する。

 奈良時代から続くという電話交換手の家系の母娘、ノンキダネと富士。娘・富士は、死者との交信を続ける。
 神話の時代と、「あの日」であるところの広島原爆投下、その1ヵ月後と現代(9・11、地下鉄サリン、考古学捏造問題、イラク戦争・・・)が錯綜し、混線し、受話器から聞こえてくるのは死者の声。

 “電話の向こうで人が溶けてあたしの耳に、声が残った。石段に腰をかけていた人が溶けて、その石の上にその人の影だけが残ったように、あたしの耳に声が残った。電話の向こうで十万人の人間が溶けて、十万人の声があたしの耳に残った。残った声は幻?[・・・]たった一日で何十万人もの人間が殺された。その恨みは、簡単に消えるものなの?一ヶ月しかたっていないのよ、あれから。どうして、ガムをかめるの?コーラを飲めるの?ハンバーガーを食べられるの?この恨みにも時効があるの?人は何時か忘れてしまうの?原爆を落とされた日のことを。その翌日、歩いたその町を。焼けて流れて爛れて溶けたあの町とそこに張り付いていた人影を。そして、あたしの耳に残った、ヤマト、あなたの声を・・・・・・”

 死体で埋まる広島。ひとり泣きながら歩いていく、幼な児のように。 泣き叫ぶ富士を、誰にも泣き止ませることなんてできない。
 私はこの舞台において、一番最後の場面での、「泣く」という演出に注目した。
 戯曲には、最後、ヒロインである富士が泣くという指示は一切ない。最後の部分に書いてあるのは、ただ“振り向く。不毛の砂地の遥か向こうに、閃光が走る。そして暗転。”舞台演出として野田秀樹が指示したのか、富士を演じる松たか子自身の判断によるのか、或いは稽古が続けられていく中でこうした泣く場面に変化していったのか、その経緯については分からない。それ故に一層、舞台演出としての、この「泣く」という行為に、私は興味を持った。
 野田の作品は「農業少女」以来だ。勿論、それ以外の作品も戯曲だけは読んでいるのだが、舞台は(現実も)やっぱり、言葉だけではないし。
 「農業少女」では、最後、虚脱感の中で、救いようのなさを感じたのに対し、今回は野田自身にぐぐーんっと近づいた、気がする。今回の「オイル」は、「農業少女」の時のような、あの突き放した感じがない。伝えたい、という意志があるように感じた。
 それに、何よりもヒロインの最後が今までの作品と違う。ヒロインは死なない。諦めることなく生きつづけるような可能性が残されている。それが「泣く」という行為である。

 「泣く」ことが忘却につながる、と考えるひともいるだろう。けれど、その「泣き」がひとの気を惹こうとするものでない限り、私は「泣く」ことが忘却装置として機能するとは考えない。

 我を忘れて泣く。「私」を失くす瞬間。

 別に、誰かの犠牲になれ、というのではなくて、ただ、自らを超えたものへと転じる瞬間について論じたい。 富士が泣く。「哭く」という泣き方で。声を張りあげ、ただひたすらに。

 あなたは今、はじめて自分を知った。そこから始まるんだよ。

 なんていい加減なこと言っているんだと、怒られるかもしれない。
 けれど、野田はこの舞台において、もって行き場のない恨みや哀しみを書いているのだ。
 記憶と忘却との葛藤を描いているのだ。
 「農業少女」において、この理不尽な世界への諦め、もっと言えば絶望で終わった舞台は、今回、「叫ぶ」という自己肯定をもとに、他者をも肯定する形で、世界を提示している。

 今回、野田は理不尽さの最たるものとして「戦争」を中心に据えて、この世に存在する理不尽さに対峙しようとした、それは、野田自身が言うとおり、間違いない。 

“寓話は、今この瞬間に起こっている戦争には無力であるが、永遠に起こりつづけるかもしれない戦争というものに呼びかける力はある”。(「パンフレット」より)

 得体が知れない深い闇としての現実。その現実によって潰されていくのではなくて、現実に抗う姿を描いている。

 “もしもし、もしもし・・・・・・天国があるというのなら、何故あの世に作るの?この世にないの。どうして、天国が今ではなくて、アフターなの?その答えを教えてくれたら信じてもいいよ。あなたのこと・・・・・・ごめんなさい。嘘ついた。ほんとは助けが欲しい・・・・・・あなたの。聞こえていたら・・・・・・返事して・・・・・・神さま。”

 神さまからの電話を待つ女の子。ずっと、ずっと待っている。 そのカノジョが泣くのを、神さまは黙ってみている。ただじっと、静かにみている。
 でも、ほんと。信じたいんだよ、神さま。あなたの助けが必要なんです。
 ただひたすらに、自らを含めた「日本」、いや「世界」そのものに問いかけている。「世界」であるところの「神」に問い続けている。 長崎と広島、2つの原爆投下に向き合う。忘れちゃいけない、「あの日」。
 忘却はけっして乗り越えたことにはならない。



* “ ”内引用。[・・・]は省略を示す。

* 筑紫哲也氏が劇評を既に述べている。(『週刊金曜日』「「オイル」の読み方」

* NODA・MAP公式HP http://www.nodamap.com/ 

* WOWOWにて、NODA・MAP「オイル」2003年7月21日(月)pm8:00〜10:00放送。

* 戯曲は、『文學界』2003年5月号〈文藝春秋〉に掲載。

   
     このページのトップへ