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日本学研究室
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001/書評
土屋礼子『大衆紙の源流−明治期小新聞の研究』
世界思想社、2003年(3200円)
川村邦光
本を読まない、新聞を読まないといった声を、昨今、よく耳にするようになった。本当なのだろうか。確かに本や新聞などの活字メディア(媒体)を手にしない人が増えているといえるかもしれない。我が学生にも新聞をほとんど読まない者がいることはいる。しかし、インターネットを通じて、文字を目にして読んでいる。また、CDで言葉を聴いているともいえる。思い、考え、理解する仕方が変化し、多様になっていると思われるのだ。とはいっても、印刷メディア文化が危機的な事態を迎えていることは確かなようである。印刷メディアをあらためて見直してみる必要がありそうだ。
読売・朝日・毎日(創刊順)といった現在の大手新聞の始まりはどのようなものだったのだろうか。明治の初期には「小新聞」と呼ばれたものがあった。読売・朝日・毎日はこの小新聞の系譜に連なっている。ところで、小新聞とは何か。著者によると、副題にあるように「大衆紙の源流」である。本書は、大衆紙の源流となる小新聞に関する着実で手堅い実証的研究である。
小新聞は1874年(明治7)に創刊された読売に始まる。「児童婦女子」向けを標榜し、漢字にはすべてふりがながつけられた。扱った記事は市井の事件や娯楽である。この小新聞に対して、大新聞と名づけられたものがあった。こちらには漢字にふりがながなく、政治的な論説を中心とする。小新聞という名称は、良識派から低俗・俗悪で娯楽本位・煽情主義だと、エリート主義的観点から蔑称として用いられた。大新聞と小新聞、いわば高級紙と大衆紙が対立されていた。小新聞は蔑視されたが、奮闘している。ふりがなや口語体や挿絵を用いて、紙面を大衆化し、読者を拡大していったのである。
小新聞も大新聞も、東京を中心にして発展していった。大阪は「新聞不毛の地」「新聞後進地」であった。大阪で初めて小新聞の日刊紙が創刊されても、さっぱり売れなかった。「新聞ては何んだす、お上のお布令だっか」が大方の反応だった。「お上」には無関心を決め込む大阪人気質を表わしていようか。しかし、全国紙として大発展を遂げていったのは大阪発の朝日・毎日である。「大毎大朝」と並び称される一時代を築いていく。それはどうしてなのか、著者の詳細にわたる探索が始まる。
1879年(明治12)、絵入り小新聞として朝日が創刊される。千部に満たない発行部数での出発であった。紙面を拡大し、ふりがな付きの論説欄を設け、小新聞が大新聞を兼るという紙面改革を行った。翌年には、7千台を突破し、他紙との競合を競り勝って、大阪発行の新聞でトップに立った。大新聞と小新聞の垣根が崩され、「中新聞化」が推進されていくことになる。これが国民型大衆紙へと発展するきかけとなったのである。
著者の指摘する小新聞の魅力とは、ふりがなや俗語、ヴィジュアルな挿絵を用いて幅広い読者層を開拓し、筆禍事件に見舞われながらも、「諧謔と風刺をこめた裏側からの政府批判」をたくましく展開して、「民衆的な政治の楽しみかた」を追求したところにある。だが、それを現在の国民型大衆紙は失っていったというのが、はっきりと語られていないが、著者の批判であろう。また、小新聞は中新聞化へと進んでいくなかで、論説で「不偏不党の中立性」を掲げて、「非政治性」を強めていく。著者によると、「政治的に当たり障りのない娯楽読み物と報道を中心とする企業化」を小新聞は歩んでいく。その一方で、「小新聞の読者は、公衆にとって重要な要件である党派性を拒否した」と指摘している。「不偏不党の中立性」と「非政治性」は同じだろうか、それを主導したのは新聞側か、それとも読者側なのだろうか。記事分析を通じて、このような点を批判的に考察すべきだったが、本書ではほとんど抜け落ちている。
本書で扱われているのは、1874年から87年あたりまでである。短期間でありながらも、新聞のたどった激動の歴史がまざまざと掘り起こされ浮き彫りにされている。著者の着眼点の的確さ、見事さによる。著者の並大抵のものではない資料の探索・収集・読解の労苦が偲ばれよう。しかし、終章の「小新聞の終焉と大衆紙の始まり」で、「小新聞の終焉」がどのような経過でどうして起こったのかについては論じられていない。序章で「小新聞を歴史的過去の現象として閉じこめてしまうのではなく、メディアの過渡期にあって失われた可能性として再発見し、現在に地続きの問題として開いてゆくこと」を課題として掲げていたが、果たせなかったようである。著者が言うように、「新聞興亡史のような記述に傾いた面」がやはり濃厚だ。
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