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日本学研究室
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002/書評
子安宣邦『新版 鬼神論──神と祭祀のディスクール』
白澤社、2002.年、2000円
兵頭晶子
本書は、1992年に出された『鬼神論──儒家知識人のディスクール』の新版である。これまで、鬼神の実在の有無、または死後の可知・不可知を問うものとされ、近代的合理性に近いか否かを示す指標として鬼神論は評価されてきた。しかし著者は、こうした近代的な理解を退け、「決して言説外の実体的な鬼神の有無にかかわる問題ではない」ものとして鬼神論を提示する。鬼神を祭る民衆の信仰的習俗に対し、宗教性を疎外した宋代以降の儒教という知が、どう対応し解釈するかをめぐって説き起こされた言説として鬼神論はある。この視座が、鬼神論を語る儒家の側の社会的位相を明らかにするとともに、言説分析という方法的革新をも思想史にもたらしたことは、初版刊行以降の、思想史界における動向が物語っているだろう。
だが、改めて世に問われた新版は、その再版にはとどまらない意義を持つ。書き下ろされた新版序「鬼神はどこに住むのか」において、著者は国家神道と近年の靖国問題へも言及しているのである。人間の共同体存立に深く関わる鬼神を「国家的言説の上に住まわせた」ものとして近代日本の国家神道を捉え、「国家と国民の祭祀対象として再構成」された言説上の戦死者こそが英霊であると断じる著者の言には、本来、戦争犠牲者の死に意味などはなく、「私の息子」の死を国家に回収されてはならないとする強いメッセージが託されている。このことは、「「戦没者」は何も語らない」、天皇・国家によって召喚されて初めて「戦没者」として立ち現れてくるという、川村邦光の指摘を思い起こさせる(「戦死者論序説──戦死者とは誰か」『日本思想史研究会会報』19号、2001年)。
著者にとっても息の長い問題関心だという鬼神論は、伊藤仁斎や荻生徂徠など、初版で扱われた近世日本の知識人をめぐる知の位相だけでなく、「祭祀を創設することと、創設するものへの視点」をも私たちに教えてくれる。鬼神を、あるいは死者を語る言葉のはらむポリティクス、国家において祭祀が占める位置の重要性──「鬼神論」は著者のみならず、私たち読者にとっても、新たな課題を今なお提起し続けている。
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