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日本学研究室
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003/書評
C・グラック他著『日本の歴史25 日本はどこへ行くのか』
講談社、2003年
鈴木景(Kei-1)
本書は「日本はどこへ行くのか」と題された、00巻から始まる『日本の歴史』シリーズの最終巻だ。執筆人はC・グラック、姜尚中、T・モーリス=スズキ、比屋根照夫、岩崎奈緒子、T・フジタニ、H・ハルトゥーニアンと錚錚たるもの。
一見して気付くことだけど、本書に参加してる執筆人の顔触れの中には、国内の研究者と同じ割合で海外研究者も含まれてる。それがどうしたとか思われちゃうかもしんないけど、これ、結構注目に値することだと私は思う。だってイメージ的に、「日本史」っつーと史料の山に埋もれてひたすら読む読む……一次史料が最早他の追随を許さぬ高処にいらっしゃったりとかかして、文学テクストとか絵画資料でも持ってこようもんなら……ねぇ?「そんなものを使うのは史学じゃない」とか「うだうだ言う前に史料読め!」とか言われて、んで、殆どが国内の研究者でさ、「〇〇家文書が……」とか言ってて、ちょっとでも守備範囲出ると「専門外」とか言われて……なんか、こう、閉鎖的というか何というか……まあ、兎に角そんなイメージじゃなかった?これって偏見?それとも局地的なモンなのかしら……?でも、実際あったんだけどなぁ。経験者は語る。何かいろんな意味で肩身狭かったし……(遠い目)。友達なんかもそういう風なイメージ持ってたし。……く、暗い……。
でも、どーも最近は違うみたい。雑誌見てたりなんかしても、特に近年の「近代日本」を対象とした研究領域には、海外研究者の名前があるの結構見るし。そういう傾向は専門書にあってもまた同様で、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(2001)やドナルド・キーンの『明治天皇』(2001)、ハバート・ピックスの『明治天皇』(2002)なんかが注目を浴びたことは記憶に新しいやね。あれって何であんなに注目されてたのかしら?書店なんかで結構な量が平積みになってるの随分見たけど。それから、論者の専門分野なんかも見てて面白い。所謂「伝統的歴史学」の訓練を受けた狭義の日本史専攻者とか、国内の研究者が特権的にこの領域を占めてるなんて傾向は、少なくとも近・現代を対象とした日本研究においてはなくなりつつあるみたい。
まあ「海外」って言っても、見たカンジその殆どがアメリカの研究者みたいだけど。アメリカでは、今まで何度か日本研究が活況を呈してきたらしいんだけど、実は今も正にその活況の最中。エドウィン・O・ライシャワー(ハーバード大学教授で日本駐在大使を勤めたヒトやね)の『日本近代の新しい見方』(1965)に始まる日本への注目(まぁ、もっと遡ればルース・ベネディクトの『菊と刀』まで行っちゃうんだろうけど)――特に近代日本への注目――なんだけど、大まかに言って、H・ハルトゥーニアンは第二世代、C・グラックはダワーと共に第三世代に属する。で、今は第四世代の研究が現れてきつつあって、ここには酒井直樹やT・フジタニ、ステファン・タナカやノーマ・フィールドといった面々が属してるんだって。ふーん。
私は何も、海外研究者の進出に伴うイメージの変化に喜んでるんじゃないのよ(実はちょっとそんな気配がなきにしもあらずだけど)。彼等によってもたらされた変化は、そんな表面上のコトだけに止まるモンじゃないのだ。今までアカデミズムの中で「国史」と括られて何の疑問も付されることがなかったくらい当然視されてたような、「日本」って枠組み(そういう意味じゃ「日本人」とか「日本文化」なんかも同じ)。研究者も国内のヒトばっかで、狭い学会に閉じこもって何やらやってた。確かに、そういう枠組みを相対化しようとする試みは、結構前からあった。本シリーズ00巻の執筆者・網野善彦の実践なんかは、その際たる例なんじゃないんかな。でも、この動きが外からの視線によって一層加速したカンジ。そういう動きの中で、「日本」における日本研究が俎上にのせられるに至った。これは、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムの流入なんかとも密接に結びついてるんだと思うけど。
あと、そういう大枠の話じゃないけど、他にも見逃せない変化は沢山ある模様。紙幅の都合もあるからここで全てには触れらんないけど、私としては、今んとこ次の二点に注目。
まずは、彼等海外研究者は方法意識に敏感だって点。それは取りも直さず、自分が対象としているものをどう捉えるか、どう記述するかって点に敏感でもあるというコトだ。彼等は、対象それ自体から視点、切り口、資料(史料)、理論とあらゆることに自覚的。それによって、例えば、分析の対象って点では、文学はもとより、神話、絵画、メディア等々、随分と多種多様だし、理論って点ではさっきの第四世代なんかが特に刺激的。ミシェル・フーコーやジャック・デリダ、エドワード・サイードなんかの思想家達の理論を援用しつつ議論を展開していく。所謂、言語論的転回ってヤツかしらね。確かに一次史料を丁寧に読み込んで細かい枠組みの専門的な議論を煮詰めてく作業も大事かもしんないけど、それが全てってわけじゃないよね。大きな枠組みに関するもの(歴史意識とか)とか方法論的な議論もやっぱ必要だよなぁ(しみじみ)、と思う次第。けど、そういう風に海外の思想家の理論を参照するに当たっては、「海外の思想家の理論を換骨奪胎する悪い癖だ」って批判があることには、やっぱ注意しなくちゃなんないとは思うんだけどね。単なる理論の流用に終わらない、しっかりと自分の中に根を持った力強い理論を組み立てていかなくちゃなー。うんうん。
それから、彼等が提示する新たな近代日本像って点。それは最早、封建的遺制を残してる遅れた近代、歪み捩れた近代じゃなくて、近代としての近代日本像だ。日本特殊論なんて、ここでは払拭されてる。ふむふむ、確かに当時のヒト達も日本の近代化が如何に西洋のそれと違うかってことを滔々と論じてたし、実際、長いこと日本近代史でもそんなカンジのことが言われ続けてきたけど、果たしてほんとにそうなのかしら〜?ってコトよね。これは大いに興味深い捉え方だわ。
まあ、そんなこんなで海外からの声や視線に刺激されつつ、前置きが長くなり過ぎたけど、いい加減本書の内容にでも目を移すとしますかね〜。私が今回採り上げることになったのは、T・モーリス=スズキ「マイノリティと国民国家の未来」と、H・ハルトゥーニアン「国民の物語/亡霊の出現――近代日本における国民的主体の形成」。どっちも外からの視線ですな。
T・モーリス=スズキは日本の日本経済史・思想史が専門らしいけど、特に最近は、所謂マイノリティに注目して歴史を描いてることで知られてるんじゃないんかな。記憶に新しいのは『辺境から眺める』(2000)だけど、これは、その副題が示すように、「アイヌが経験する近代」に焦点を当てたもの。江戸時代であっても明治維新後であっても、北方を、そしてそこに住む人々をどのように捉えるかという問題は、国家の利害、国境の策定と不可分のものだった。「どこまでが日本なのか?」「彼等は日本人なのか?」ってことが繰り返し問われ、彼等の帰属や国境は何度も移動していく。その過程の中でアイヌは土地を追われ、生業を奪われ、翻弄され続ける。
こういう問題は北方においてだけの問題じゃなかったんだけど、今回の「マイノリティと国民国家の未来」は他の地域――即ち琉球(南の境界)、太平洋方面(東の境界)にも視線が注がれ、総じて帝国の境界が、近代国民国家というものが如何に変化してきたか、そして国家建設過程で如何に多くの人々の生活に深刻な影響が与えられてきたかが描き出される。これは、取りも直さず、現在においては恰も自然発生的で不変の統合体であるかのように考えられている国民国家が、実は全くそうした性質のものではないということが暴き出されるということで、グローバリズムがもたらす混乱や不安、閉塞状況に抗して持ち出される反応への批判になってるって言えるんじゃないかしら。偏狭な国民的アイデンティティを拠り所に虚無的ナショナリズムが高まろうとするとき、実はその内部に存在している筈の差異は何処へ行ってしまうのか?そういうことに目を向けさせ、考えさせてくれるような力を持ってる。
一方のH・ハルトゥーニアン「国民の物語/亡霊の出現――近代日本における国民的主体の形成」方は、明治維新〜現代までを対象として、そこに見出されたアポリアに挑んだものなんだけど、そもそもの問題意識は冒頭部分でも提起されているように、実は不変(普遍)の統一体ではない「日本人」や「国民」といったものが、何故そうしたものとして概念され、前提されてしまうのか、ということかな。ハルトゥーニアンの根本として前提されているのは、近代哲学におけるようなコミュニケーションの外部の普遍的実体であり、抽象的・観念的なものとして理解されるようなコギト的主体じゃなくて、マルクスによって提示されたような主体理解みたい。端的には、「類的存在」であるとか「社会関係の総体の結果」であるとか表現されるんだけど、それは即ち、生産、或いは労働といったような相互行為(=コミュニケーション)の只中に現れる「具体的な経験」だ。
但し、ハルトゥーニアンがここで示しているのは、そうした前提に沿った「日本人」像の歴史っていうより、それを不変的(普遍的)なものとして前提していた(或いはそう思いたかった)、そしてそういうものとして現前させようと試みた側の歴史。そこには、資本主義によって不可避的にもたらされる目の前の不均等・不平等を後進国という地位に結びつけ、そして本来そうあるべき不変的(普遍的)統一体である国民(臣民)といったものを目指した(目指している)人々の姿がある。
短い紙幅に論点を詰め込みすぎじゃないのかなーとかちょっと思うけど、ハルトゥーニアン自身が本文中で「反復の歴史」と表現しているように、明治維新〜現代までの在り様を連続したものとして見ようとするところなんかは、興味深いんじゃないかなぁ。以前に統一を見出すにせよ、またその逆に以後に統一を見出すにせよ、敗戦に断絶を見出す議論が溢れる昨今にあって、こうした見方は注目に値する。不変的(普遍的)な統一体を現前させようと試み(その際に言説によって持ち出される一種のモデルが《国民形態》かしらね)、しかしそれでも見出される不均等・不平等が自身から生み落とされたものだと知らずに抑圧する。そうしたことを現代まで繰り返し続けているのが近代日本における「国民の物語」だっていうことみたい。
これもまた、先のT・モーリス=スズキの議論と響き合いながら、現在の状況への強力な批判となる。辺境においても、そしてその只中においても、差異を見出してはそれを非本来的なものとして抑圧し、隠蔽しようとする意識。ここで両者に共有されてるのは、やっぱりさっきも言ったような、「日本」「日本人」「日本文化」って言うようなものを存在論的に主張することに対する疑問なんじゃないかな。そういうものは極めて近代的で、更に言えば、人為的であるみたいな。従ってここにおいては、それらを現実、或いは実体として扱うことは同意されない。寧ろそれらは神話であるとされる。問題は、それが何なのかっていうより、寧ろ如何に、何故、誰によってそういうものとして構築され、維持されてきたのかってことの方にあるってことかしら。で、T・モーリス=スズキとH・ハルトゥーニアンは、同じ問題の違った側面に焦点を当ててる。前者が、マイノリティへの着目によって不変的(普遍的)な統一体って語りを切り崩すものであるのに対して、後者は、マイノリティに示されるような差異を否定、或いは隠蔽してそうしたものを現前させようとする運動の方に着目してる。
じゃあ、こうしたものが暴きだされ、国民国家が相対化されるとき、どういった在り方が志向されるべきなのか?上のような議論から現代が引き受けるべき問いはそういったことなんじゃないかしら〜。
うわー、何か「紙幅が……」とか言ってたわりには長くなり過ぎたんじゃない?字数制限とか(っていうか、そんなんあったっけ?)思いっきりムシってるし。ま、いっか。次からはきっと、もっとちゃんとした書評書いてくれるさ〜。うん。
初回がこんなんで良かったのかしら……どきどき。
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