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日本学研究室
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009/書評
ヤニス・スタウ゛ラカキス『 ラカンと政治的なもの』
吉夏社 2003年
芝原三裕
本書の主張は極めて明確である。曰く、ラカンを導入することの最もラディカルな点とは、ラカン的主体、すなわち「欠如」し「分裂」した主体の不可能性を、その根本に据えることである、と。ラカン的主体をより厳密に理論化していこうとする姿勢は、本書の一貫した主張である。
ここで本書を取り上げたのは、本書がフーコー主義(決してフーコーではない)について、最近私が抱いていた疑問に対する示唆に溢れていたからである。私の疑問とは、フーコー主義が言語によって現実が作り上げられる関係を、構築的に、つまり反本質主義的に捉えようとしていながら、その実最終的には本質主義的命題を密輸しているところにある。文化も国家も主体も構築されたものであるなどということ(そもそもそんなことはマルクスがとうの昔に言っていたことだ)を、あたかもラディカルな振舞であるかのように繰り返すフーコー主義者の物言いは、理論的に自己撞着を起こしているばかりか、現実に介入しようというラディカルな意志を欠いているように感じられる。
フーコーは『言葉と物』において言説と現実の関係を問題にはしたが、決して現実を言説によって「客観的に」同定しようとしたのでも、言説が現実に先行するということを主張しようとしたのでもなかった。いや、もっと正確に言えば、初期フーコーによって構想された言説の歴史は、『性の歴史』においてある種の機能不全を起こしていた。しかしそのことは、現在のフーコー主義者には全く問題ではないらしい。それどころか、『性の歴史』で試みられようとしていたフーコーのラディカルな可能性は、換骨奪胎され、言説という概念だけが無反省なままに社会理論へと輸入された。またこの無理解は、精神分析と社会理論の間の絶望的な距離感の要因のひとつともなった。
このようなフーコー主義者の振舞は、それ自体典型的な転移の所産である。ラカンによれば(そして本書の分かりやすい解説によれば)“何かが欠けている”ことは“何かが構築される”あるいは“何かに意味が生まれる”ために、必要不可欠な超越である。そして本書はこのような欠如による超越を意味の領域、さらには政治的なものへと、軽やかに結びつけていくのである。
私はラカンを信奉しているわけではないし、ラカンに精通しているわけでもない。そもそもラカンに「精通すること」はないのだ。ただし、日本人が書いたラカンに関する書物には、あまりまともなものがないのも事実である。唯一まともだと思った新宮一成『ラカンの精神分析』も<対象α>に論点を絞ったもので、ラカン全体を概観しにくい。また新宮に限らず、ラカンの日本への紹介はこれまで精神分析の臨床家によって手掛けられることが多かったために、社会理論の人々にとっては「参考にはなるが、あまり役には立たないもの」と感じられてきたことも否めない。本書はこれまで距離があった社会理論とラカンの間の分かりやすい架け橋であり、ジジェク以降のラカン思想を展望する上でも役立つ。そして単純に(それが可能なのかどうかは別にして)ラカンの入門書として極めて優れている。
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