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日本学研究室
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011/書評
島尾敏雄『死の棘』新潮文庫(1981年)
柳沼典子
「絶対的な精神的危機からの人間の回復」
「自分」が確認できなくなる恐怖−「恐怖」を感じる小説である。これは著者・島尾敏雄自身のことを書いた「日本独特の私小説」であるが、夫に外に愛人がいることが発覚して、精神を病んでいく妻との際限のない諍いの日々を描いたものである。ミホという名の妻がかかったのは、医学的に言えば、パラノイア(偏執狂)という症状であり、夫の行動のひとつひとつを「愛人」や「自分に対する
侮辱」だと思いこみ、すべてに疑いのまなざしを向けるようになっていく。例えば、島尾氏が勤務する学校からの帰り道、右に行けば家へ帰れるのだが、たまた
ま雑誌を買うために本屋に寄ろうと思って左に行こうとしたところ、迎えに来た妻はそれを見て、「愛人のところに行くのだ」と思いこみ、目の色と血相を変え
て、食ってかかるというシーンがある。妻にすれば、「右に行く」という家に帰る方向へ向かわないということは、すべて「愛人」に結びつくことであり、「き
たないこと」であり、「許せないこと」なのである。とにかく、こうした妻の異常心理から来る行動が、病院のカルテでも書いているかのように、 あるいはカメラのファインダー越しにじっと覗いてでもいるかのように、出来事は実にリアルに描かれている。その描写が非常に恐怖をかきたてるのだが、こ
の恐怖がもたらすものは何だろうか?
まず一つには、「自我が破壊される恐怖」である。自分では左に行こうとしたのは本屋へ行くつもりだったということを認識しているのに、もし相手が完全にそれを疑っていて、「愛人のところへ行くの
だ」と信じ込んでいて、それを訴え続けたとしたらどうなるか?そのときに本屋に行こうとしたという自分の考えを証明できるものは何もない。それを伝えよう
としても、相手は信じていない。そして、自分の行動を監視し、分析されて、相手のカメラアイで切り取られて処理され、「きたない」という名前をつけてその
映像をつきつけられたとしたら?よほど強い精神的基盤を持っていない限り、「もしかしたら、本当は自分はきたない人間で、愛人のところへ行きたかったので
はないか?」そんな風に自我が弱って、相手のそうした視線に取り込まれそうになる。そうしたとき、自分が「見られること」に重きを置いて、「自分がどう思
うか」ではなく、相手に「どう見えているか」を確認しなくては存在を証明できないように思わされてしまうということは言えないだろうか?この妻は、10年
間という自分の結婚生活が無駄にされたという怨念から、夫の友人や愛人などの関係するすべてに興信所の助けも借りて、夫に対する陰口や蔑みや風評などを集
めて回り、「あなたなんかこう見られているのよ」と、夫に関する10年間の事実をマイナスの情報だけで再構成し、もう一つの過去を作り上げて、彼の目の前
につきつける。島尾氏は、それに対して、「自分の10年間は何だったのか」と、大きな精神的な打撃を受けるのである。このように、相手のカメラアイで「見
られる」自分と、自分のカメラアイで認識している現実にズレが生じた場合、そのズレが積み重なっていくと、すさまじい誤解と神経症的なパニックに巻き込ま
れることになる。特にこの家族の場合、妻がこのヒステリー的な発作を起こすのは、必ず第三者がいなくなった密室であり、島尾氏と二人だけの空間で起こるも
のなので、その言葉にできない恐怖が皮膚感覚で迫ってくる。自分と妻との関係性においてのみ生じる恐怖なので、誰にも共感や意見を求めることができないの
である。もし誰かに話したとしても、今度は「妻が精神を病んでいる」という別の好奇心も入り混じった視線にさらされることになり、その原因をつくることに
なった自分自身に対する信頼が揺らぐことになる。その妻との諍いを相手に話すことによって、また別のズレた「見られる自分」を作り出すことになってしまう
のである。こうして誰にも本当のことを話せないまま、子供たちに「カテイノジジョウ」と呼ばれて逃げ出される、救いのない諍いが延々と続くことになる。時
に島尾氏は、「うわあ」などと叫んで気が狂った振りをして、妻の終わりのない尋問から逃げ出そうとする。そのときだけ、尋問は一時的にストップし、妻は眼
に涙をためて、許しを乞うたりもする。だが、それもほんの一瞬のことで、しばらくすると、また尋問は繰り返されるのである。ミホというこの妻が求めている
のは何だろうか?島尾氏の自我が完全に破壊されて、まるで劇映画の俳優のように、自分のカメラアイに沿うように動くことだろうか?この息苦しくて救いのな
い、自由のない状態を「愛されている」と感じるかは人それぞれだが、この罪の贖罪にも似た島尾氏の献身的な愛情は、高村光太郎の『智恵子抄』を想起させる
。
文庫版の解説には、彼女の「嫉妬と情念」が「不思議に古代の神話的な女たちに通う純真さ」があり、「彼女が南島の女であり、神話的=巫女的な面影をどこ
かに残しているからだろうか」と書かれている。そして、「永遠に女性的なるもの」の本態を「描ききった」とあるが、これは果たしてどうだろうか。島尾氏の
、この地獄絵図のような夫婦愛は、彼自身が南島に対して抱いた「憧れ」や「美化」のイメージの「代償」として引き起こされたものなのではないだろうか。彼が求め続けた「南島」は実際に存在するものではなく、妻のミホを通して見ようとする、彼自身の心の中にある一種の「理想」であり、「愛すべき対象」として
のみ存在するのではないだろうか。このイメージが知らず知らずのうちに抑圧として妻にのしかかり、そのイメージを演じきれなくなってしまったとき、こうし
た状況が引き起こされたとは言えないだろうか?ただ島尾氏とその妻を救ったのは、彼が妻のすさまじい狂態にも関わらず、皮肉にもそうした自分の中の「南島
」イメージを決して捨てようとはしなかった点にある。彼は最後まで妻を通して見る「南島」イメージを信じ続けた。そのことが、「愛情」として、妻の回復に
役立ち、妻を生かし続けたのだと言える。島尾氏は、妻のカメラアイで見た醜くて卑屈な「自己」イメージを受け入れ、妻を「南島」というカメラアイで愛情を
持って最後まで撮りきったと言えるのではないだろうか。このことは、他者との関係性で、「自画像」がどれほど重要かを物語っている。わたしたちは精神的な
危機に陥ったとき、マイナスの「自画像」を他人が押しつけようとすると、少なからず打撃を被る。マイナスの「自画像」は必ずプラスの「自画像」と表裏一体
になっており、表の「顔」の何らかの犠牲として成立するのではないだろうか。その裏の「顔」を作り出す原因となる抑圧や犠牲に対して眼を向けるべきなのは
言うまでもなく、このミホのような狂乱と異常心理がそのまま独立して存在するということはあり得ない。それにも関わらず、わたしたちは、何かの瞬間にふっ
と水面に浮かんできた、醜い裏の「顔」を「意外性」という衝撃を持って、記憶に焼き付けてしまう。例えば、映画を見終わってから思い出そうとするとき、記
憶に残っているのはたいていそういうシーンではないだろうか。そうした主観的な重みを持って心に刻み込まれた映像は、もっと時間を置いてから頭の中で再構
成されるとき、後から起こるさまざまな事実に結びつけて、意味が付与されていき、ある特定の人物に対するイメージを作り出していくということは言えないだ
ろうか。そこに生まれる物語は、ひとつの身体にひとつの「自己」という「自画像」を裏切り、「私」という視点から見た現実から遊離して、もう一つの見知らぬ「私」を作り上げていくと言えるだろう。
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