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日本学研究室
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013/書評
金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003年 岩波書店)
魏仙芳
台湾が≪国語推行運動≫を行っていた20年前のドラマなどでも、主役が“標準語”を使い、他の脇役が“非標準語”などを使うというようなことがよく見られた。例えば〈星星知我心〉の場合、貧乏な主役一家(母親と5人の子供)と金持ち(末っ子を受け取る企業家)や教育程度の高い家(長女を受け取る教授)が国語を使っているが、見るからに教育程度の低い人は“方言”(今は死語になっているが)の客家語(3女を受け取る農家)やビンナン語(ヤクザの子分など)を使う。
さて、なぜ役割語が必要とされているのか。喋る言葉も、服装や振る舞いなどと同様に、自分の個性を表現する手段の一つであるからであろう。外見だけでは、性別、職業など表面的な部分しか現せない。しかも、外見で人をごまかすことができる。だから、外見だけを見るのではキャラの個性などを把握できない場合もあろう。そのほか、言葉遣いによる区別、つまり役割語を使ったらもっと豊かなキャラが作られるのではないか。それで、役割語が必要になるのであろう。
外国人の役割語の場合、例えば、日本人と中国人の外見が一緒だから、それを区別するために、大体中国人が中国らしい格好をしている。しかし、中国っぽい格好をしている日本人キャラもいるので、中国人であることを更に強調するために、変な日本語を喋らせた。よくあるのは、語尾に“ある”がつく日本語である。中国語(中国大陸のほう)の発音は舌を巻くから、その“R”の発音を“ある”で表象しているのではないかと、単純に思っていた。この本の中では、「アルヨことば」の起源を探っていたが、中国語の舌を巻く発音との関係は言及されてはいなかった。
役割語からはずれている例かもしれないが、外国人キャラが変わった日本語を喋る場合がある。ま〜よく考えると、外国人だから変な日本語を喋るのは当たり前ではないか。しかし、なぜかゲームの中に標準語以外の、例えば関西弁を喋るキャラもいたりする。外国人にとっての日本語は大体関東語いわゆる標準語であり、関西弁は意識して覚えない限りうまく喋れないのではないかと思われるが、外国人キャラが標準語以外の言葉をうまく喋れるのは、だいたい環境背景の設定と関わっているようである。
喋り言葉としての中国語(台湾のほう)には「老人語」、「お嬢様ことば」、「男性ことば」や「女性ことば」などの役割語がない。言葉遣いでステレオタイプを作らないのはいいこととも言えるが、役割語の使用によってより豊かなキャラが作れる面から見れば、ヴァーチャル日本語が楽しい。このような使い方があるから、日本の漫画やアニメを楽しめるのではないかと思われる。日常生活の中でも使われていると言われているが、それも使う本人の一種の楽しみ方であろう。自分が持つ様々なペルソナを言葉遣いで表わせる。
本書の「役割語の世界への招待状」に出される問題の答えを、違和感なく全部知っている自分がすごいと思う。いくら日本のアニメへの接触が小学生の時という早さではあれ、自分が日本語を勉強し始めたのは8年前大学に入ってからである。日本語の漫画を読み始めたのもその時からである。しかし、おかしくもないか。なぜなら、自分が見たアニメは全部ビデオであり、吹き替えがなかったからである(テレビのアニメだと吹き替えされる)。それに、小学生の時はアニメだけではなく、日本の時代劇もけっこう見ていた。その時から日本語の役割語が頭に入り、浸透したかもしれない。私は小学生頃から否応なく、ヴァーチャル日本語を受け入れた・・・・・こりゃ、親に責任を取ってもらわなきゃならんぞ。
本書の中で一つ違和感のあるところを取り上げたい。作者が行ったアンケートでは、「女子学生に聞いてみると、『ぼく』使用者よりも『おれ』使用者に好感をもつとする者が多数を占めた。そのような学生にさらに聞いてみると、『ぼく』使用者には弱々しい、幼稚である等の印象を持つに対し、『おれ』使用者には男らしいという印象を持つなどと答えた」(本書127〜128ページ)という結果が出ているという。
確かに、漫画やゲームの中の“ぼく”使用者の多くもそれらの女子学生のイメージ通り、弱々しく幼稚の印象を与えるが、やはりそれよりも礼儀正しい人のように感じる。それに対して“おれ”使用者は男らしくて、野性的のようなイメージを与える。あくまで日本語を学習する外国人としての感想であるが。それよりも違和感を覚えたのは、日本の女性学生が“ぼく”使用者より“おれ”使用者に好感を持つところである。ひ弱い書生より、逞しいマッチョのほうが好ましい。つまり、男性に頼りたい女性のほうが多い、というのは言い過ぎかもしれないが、この結果はちょっと驚いた。
しかし、“ぼく”使用者より“おれ”使用者のほうが好感度が高いことについて、ほかの解釈もできる。漫画を読んだり、ゲームをしたりする人はよく分かると思うが。“ぼく”を使って自称する時は仮面をかぶっている。“おれ”を使って自称する時のほうこそ、本当の自分、つまり、人の前で“おれ”使って自称する時は、真心を現し、嘘をついていないという設定がよく見られる。もしこれが日常生活の中でも同様なら、胡散臭い“ぼく”使用者より、本当の自分を現す“おれ”使用者のほうが好感をもたれると、このように解釈することもできるのであろう。
「博士語」や「お嬢様」ことばなどの役割語は、一種の遊びとして楽しく使われる。「私たちの役割語の知識は、現実のありさま以上に私たちに言葉の男女差を増幅させて見せている」(本書173ページ)というように、「女性ことば」や「男性ことば」は日本では日常生活に浸透し、男女の差をはっきりしている。「女性ことば」と「男性ことば」の使用と男女の差の増幅が、影響し合っているように思える。しかしその増幅をもたらすのは、漫画や小説、ドラマなどだけではない。そのほかのマスメディアにおいても無意識に「男性ことば」や「女性ことば」を使って男女の差を作っている。
ニュースなどの報道からもよく聞かされるが、外国人女性の話を翻訳し、吹き替えをする例などもある。相手の国の言葉には「男性ことば」や「女性ことば」があるかどうか分からないが、日本では外国人女性の吹き替えの言葉遣いがすっかり「女性ことば」になっている。吹き替えの声を聞けば女性だと理解してもらえるはずなのに、なぜか言葉遣いは「女性ことば」である。しかしこのような些細なところから、言葉による男女の差への増幅が進んでいるともいえよう。このように、役割語はある時ある種の遊びとして楽しめるが、ある時ある種のステレオタイプを形成する表裏一体の言葉である。
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